- 運営しているクリエイター
#子ども
ベビーカータブレット赤ちゃん
僕にとって衝撃だった話です。
ある種目撃証言になります。
その日もいつもと同じように、出勤するために塾の校舎に向かって歩いていました。
すると、向こうから赤ちゃんを乗せたベビーカーを押して歩くママさんが。
あまりベビーカー自体には詳しくないのですが、
きっとベビーカーって、前後ろどちら向きにも進めるようになっていると思います。
その赤ちゃんは、お母さんと向かい合う形でベビーカーに乗せられて
不登校・ひきこもりは問題の発生ではなく本人にとっては問題の解決方法?
一見問題の発生や問題そのものに思える事象も、実は当事者にとっては別の問題の解決方法として考えだした末の行動だということがあります。
不登校やひきこもり、さらにはいじめなんかもこうである可能性がある事象です。
親や教員、支援者などからしたら、
不登校やひきこもりは問題の発生でしかないでしょう。
学校に行くことが正常だとするならば、
部屋にこもらず社会に出て働くことが正常とするならば、
不登校と
今日のことば 『教育とは、大人が楽しく勉強しているところを、子どもたちに見せつけることなのだ』
今日のことばは、森博嗣さんの言葉です。
教育とは、大人が楽しく勉強しているところを、
子どもたちに見せつけることなのだ
ここで森さんが言う勉強とは、資格の勉強、学校の勉強などといった
『明確な答え』のある勉強ではなく
自分の好きなこと、知りたいこと
答えのないことを追究していく
研究や求道に近いものです。
誰かが楽しそうにしてたら、
人はそれが何故楽しいのか、
知りたくなり、その後には自分
頑張った量と捗った量は違う
皆さんは誰かを褒めるとき、或いは評価するとき、
その対象となる人物の何を見ますか?
そして「頑張ったね」と言うとき、あなたは何を見て考えてその言葉を発していますか?
今回僕がお話ししたいのは、
頑張った量=捗った量ではないということです。
努力に置き換えてもいいかもしれません。
「努力の跡が見える」
あなたは何を基にそれを判断していますか?
おそらく「目に見える成果」「内面の成長」などと答
「俺みたいになるなよ」がカッコいいと思っている大人たちへ
大人はよく言いますね。
「俺(私)みたいにはなるなよ」
これ、自分を反面教師として頑張れよ的な意味合いで言うことが多いと思います。
しかし、それはあくまで建前であって、
実際の胸中は、
「そんなふうに自分を客観視して卑下してアドバイスできる自分カッコいい」
ではないかと思うのです。
ぎくっ、とした人は僕の話を聞いてください。
今回はそんな人たちへ向けた、
「それ、ダサいですよ?」という忠
それ、できないのは本当に本人の努力不足?
教育において、子どもに何かできないことがあったとき、その原因をどこに求めるのかは、大きなそして難しい問題ですよね。
担任の先生や担当講師、スクールカウンセラーやその他専門家、そして親。
子どもを取り巻く色んな大人がいますが、
そのどの立場からも、一方的に子どもの行動の原因を断定することは不可能でしょう。
実際のところは、遺伝が○%、環境が△%、先生の力量が…。
と言ったように、いくつもの要素が
「親ガチャ」について考える
最近ネット上などで議論になっている「親ガチャ」の問題。
ソーシャルゲームの若者世代への流行、定着によって広まった「ガチャ」という言葉。
スマホゲーム上で「ガチャガチャ」を回し、
運次第で強いアイテムやキャラクターが出たり弱いそれらが当たったり、というものです。
その若者世代に定着した「ガチャ」が、
「子は親を選べない」というものと結びつき、
「親ガチャ」という言葉になった、という流れです。
児童労働による商品、あなたは買う?買わない?
今回の記事のテーマは、僕も答えが出ない問いです。
是非皆さんも一緒に考えてみてください。
児童労働の問題をご存知ですか?
アフリカやアジアの発展途上国などで、子どもに過酷で危険の伴う労働をさせること、というイメージでしょうか。
この児童労働には、明確な定義があります。
「法律で定められた就業最低年齢を下回る年齢の児童によって行われる労働」
「教育の機会を妨げる、心身の健康的な成長を阻害する
教育者の集まりについて思うこと 雲の上で話すのは辞めませんか?
僕は、僕が目指す教育改革へのポリシーとして、
当事者である先生、生徒の声を、
1番小さく弱い声を拾っていきたい、
という考えを持っています。
これは以前のいくつかの記事でも一貫して言っていることです。
地上で、同じ目線で、「地べたで」支援者と被支援者ではなくフラットな関係で、と思っているのです。
その点について、教育関係者の集まりに参加する中で思うことがあります。
僕は今、教育関係者の集ま