不登校・ひきこもりは問題の発生ではなく本人にとっては問題の解決方法?

一見問題の発生や問題そのものに思える事象も、実は当事者にとっては別の問題の解決方法として考えだした末の行動だということがあります。

不登校やひきこもり、さらにはいじめなんかもこうである可能性がある事象です。

親や教員、支援者などからしたら、
不登校やひきこもりは問題の発生でしかないでしょう。

学校に行くことが正常だとするならば、
部屋にこもらず社会に出て働くことが正常とするならば、
不登校とひきこもりはマイナスでしかないですよね。

親や教員、支援者はまずこう思うでしょう。
「なんで学校に行かないんだろう」
「なんで部屋から出てこないんだろう」

そしてこう考えるでしょう。
「どうすれば学校に行けるようになるだろう」
「どうすれば部屋から出て来れるだろう」

不登校やひきこもり=問題
じゃあそれを解決しなきゃ!
となるわけですね。

これの何がいけないか、無意味かと言うと(無意味は言い過ぎかもしれませんが効果は薄い)、
タイトルの通り、不登校やひきこもりは本人にとって
「問題を解決するための手段」である可能性があるからです。

それは学校に関係することの場合もありますし、関係無い場合もあるでしょう。

仮に学校に行くことによって生じる問題の解決策として不登校があるのだとしたら、
その問題が未解決のまま「学校に行こう」と促すことや、不登校を問題と断定することは本人にとってプラスになり得るでしょうか。

親や教員、支援者などとにかく周囲の人がやるべきことは、
先にその「学校に行くことによって生じる問題」が何かを探し、解決するための策を考えることです。

不登校やひきこもりが問題行動ではなく本人にとっての問題解決法であった場合、
元々あった問題が何であったか特定し、
その後に初めて「不登校やひきこもりをせずともその問題を解決しうる代案」を考えることができるはずです。

「学校に行かなかったら将来どうなるかわかってるの?」
「このまま部屋から出て来なかったらどうなるかわかってるの?」

こんなことを言われたところで、本人はそんなことわかっているはずです。

なぜなら「学校に行く/社会に出ることのメリット」と「学校に行かない/部屋にいることのメリット」を天秤にかけて、判断した結果の行動であるはずだからです。

それがわからずに不登校、ひきこもり=問題と決めつけて学校や外へ引っ張り出そうとしても、何も問題は解決しません。

何をxと置いて何がyかもわからないのに、方程式は解けませんよね。

逆にそれがわかれば、本人にとっての「学校に行かないことによって解決する問題」や「部屋にこもることによって解決する、或いは現れない問題」がわかれば、
あとは道が見えてきます。

それに代わる案を考えていくだけです。

ここで言っている代案の先に「学校に行く」や「社会に出る」があるとは限りません。

僕はそれが善ともゴールとも思いません。
学校に行く、社会に出て働くことが100%良いこととも思わないし、
学校に行かなくても良い!とも働かなくても良い!とも思いません。

人は繋がりがゼロの状態では生きていけない。
これだけは確かなことと思います。
精神的にも物理的にも。

もし不登校やひきこもりの状態が続いても、
その部屋の中、多くはパソコンの中やネット環境の中に、
本人が生きやすい社会があるのならば、繋がりはそこにあるはずです。
物理的な方は、ひきこもっていても家でできる仕事で稼ぐことができるか、親の支援があるかによって変わってきてしまうでしょうが…。

とにかく、本人にとって何が問題であるかが特定できれば(簡単ではない)、
あとは本人の意志にもよります。

「稼げているし、親がいなくなっても見通しはある」
「見通しは無いけれども外の社会に出るよりも引きこもっていたい、繋がりたくない」
「このままじゃダメだと思っているけれどなかなか外に出ていけない」

これら3つの例はそれぞれサポートの方法が違ってきますよね。

3つの例のような人に対してどのようなサポートが必要かは是非ご自身で考えてみてください。

これらは最初に「不登校・ひきこもり=問題」と考えていてはなかなか辿り着かない視点では無いでしょうか。

その考え方だと、とにかく外に出せばゴールなわけですからね。

そして最後にいじめ。

これは不登校やひきこもりとは少し毛色が違いますね。

なんせ被害者と加害者という関係性が存在します。

いじめは問題発生ではなく問題解決の手段かもしれない。

この考え方に則ると、その対象者はいじめの加害者でしょう。

もちろんいじめはあってはならないことです。
いじめが原因で命を奪われた方もいます。

いじめ加害者擁護ではありません。

ただシンプルに犯罪者として糾弾し裁くだけではまた繰り返し同じことが起こるということを言いたいのです。

原因を究明しなければいけない。

いじめは悪いことですし、加害者は悪い。
それは間違いないです。
いじめられる側にも原因がある、なんて思いません。

しかし、加害者がどんな気持ちを抱えて、どんな日々を生きていて、どんな問題を抱えていて、
いじめという愚行に至ったのかは、
明らかにする必要があると思います。

今回の記事で不登校やひきこもりという事象に対しても話したとおり、
それが本人にとって何らかの問題解決の手段であったかもしれないからです。

もちろん、自分の問題を人にぶつける方向での解決は良くありません。

しかし、不登校やひきこもりも、その原因となる本人が抱える問題は、元を辿れば似たような問題かもしれません。

学校での人間関係にストレスを感じて不登校になる。
学校での人間関係にストレスを感じて他者をいじめてしまう。という風に。

この場合どこに分水嶺があるのかは僕にはわかりません。

人に迷惑をかけない(親にはかけているのかもしれませんが)問題解決の方法である不登校やひきこもり。

人に迷惑をかける形の問題解決の方法であるいじめ加害。

子どもの抱える問題に周りが気づけなかったという点においては同じです。

だから同じ記事でこれらの事象を話しています。

不登校。ひきこもり。
そしていじめ。

「なんで学校に行かないんだ!」
「なんで部屋から出てこないんだ!」
「なんでいじめなんかしたんだ!」

ではなく、それが他の何かの問題解決の手段であった可能性を探る。

本人ですら整理できておらず、気づけていない可能性も高いので、
そこは大人の力で聞き取りをし、整理してあげる必要があります。

無理矢理引っ張り出して学校や外に連れ出したり、
叱りつけて反省文を書かせるなどの直接的なアプローチは楽です。

形として残りますし、「対処した感」がしっかり残りますからね。

間接的に事象の根源を探っていくアプローチは、
進度がわかりづらいし一進一退を繰り返すし、
周囲への「やってますよアピール」はほぼ不可能です。

しかし、周り(当事者以外の親や他の教員、世間や教育委員会、文科省など?)のためにサポートをするわけではないでしょう。

不登校やひきこもりなら本人。
いじめなら加害者、被害者、そして同級生。
つまりは子どもたちのためにすることでしょう。

だったら、世間体が気になるのはわかりますし構造的に多方面に気を遣う必要があるのはわかります。

けれど、誰のためにやるのか、というところを今一度確認し直すことが、
教育や福祉に関わるすべての人に問われているのでは無いでしょうか。


小野トロ



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