今日は護国寺へ。 般若心経の触り。 普通って何? また今度ね。
大晦日です。機嫌は良いが、体調すぐれず。明日の元日は家族がお墓参りの後、揃って我が家で御節のお重を囲む、という予定なのに…と困っていたら日にちをズラせばと提案があり、あっさりとその流れに。言ってみるもんですね。今年はSOSがためらわず叫べるようになった。罪悪感もない。今年の収穫。
私は、曹洞宗僧侶として、弟ふたりの告別式で、「般若心経」と「陀羅尼経」を読み、そんなことが現実問題となるなど、考えもしなかったことであり、運命に従い読み、「陀羅尼経」のダラニ―とは、古代サンスクリット語で、「記憶して忘れない」の意、自身の修行や故人の記憶を再現したが、厳しい現実。
ダイソーの写経ノートがもうすぐ終わりそう。 今月のリワークもどきで取り組んでみたけど「今、ここ」に集中するにはいいプログラムでした。
般若心経を読んで、五蘊に影響を受けた『私』の感じたことを表現することに躊躇した。それは客観性に欠ける、と。 しかし、その人の感じたことこそがかけがえのない人生の軌跡である。 悲しくても嬉しくても、それを感じた自分を感じること。それは一つとして同じではなく、永遠でもない。泡の様に。