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読んだ本の感想、日々に感じたこと考えたことなどスケッチします。

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最近の記事

丸山眞男著『日本の思想』第一章を読む(2)

 「日本の思想史は時代の知性的構造や世界観の発展、あるいは知的関連をたどる研究が甚だ薄弱だった」と丸山はいう。  それは日本史を通じ思想全体の構造に深く根差した性質で、日本の思想の内部構造を立体的に解明する事が困難なのは、あらゆる時代の観念や思想に否応なく総合連関性を与え、すべての思想的立場が自己を歴史的に位置付けるような中核、あるいは座標軸にあたる思想的伝統が形成されなかったためだという。  多くの文学者や歴史家によって、近代日本人の意識や発想が、無常観やもののあわれや

    • 丸山眞男著『日本の思想』第一章を読む(1)

       歯を抜いた、いろいろ問題があるらしかった。歯には名がついており「親知らず」という。  抜いた歯は数日ポケットにしのばせて持ち歩き、手のひらに置いては眺めたりさすったりした。  今朝、その小さな歯を橋の上から大きな川に投げこんだ。川のなるだけ真ん中に届けよと力を込めたのだか、少し手前でたよりない飛沫をあげたのをみとめるだけだった。  子らの乳歯を屋根に放り投げたときのように、何か願いごとでもと思ったがなにひとつ浮かばなかった。  丸山眞男の『日本の思想』を読んだ。「社会

      • 愛すべきアホの深み

         「なんでも人のせいにする、それが社訓みたいなものですから」とその店のマスターはいった。大都会のど真ん中で、その言葉は不思議なくらいすなおに心に響いた。まったく嫌味がない。  オレは酒とマスターの人柄にやられている。ビリケンさんと思う。この知恵の背後には狡猾さとはかけ離れた、なんか人生の“深み”みたいなもんがある。なかなかいないアホやけど、オレには到底わからん“ある深み”を筋として生きる人だ。  生きとったら、自分で背負ってもしぁない事はけっこうある。ずるいようだが、オレ

        • 円相図(4/4)

          5.『光境ともに亡ず』  空を知る智慧《光》と、有/無の関係性の結節点であり、知にまつわる構造として運動しつつ存するであろう《境》(その構造と運動を見きわめることが大問題)が、ともに《亡ず》消えてなくなるとは、どういうことだろうか。 “空もまた空じられる”  この言葉を想像の起点とするなら、身には《空》について、ある一定の見方と偏り、執着ともいえる“おもねり”が生じると思われる。  また、それは《空》が言葉である以上免れないことであり、「生きるとは何か」という形而上学

          頭の中の稚拙な図式

           『ジョーカー2』はとても面白かったです。確かに酷評され、そして上がらない興行収入が示すとおり駄作だったのかもしれません。それを疑う余地は映画に散見されます。しかしタイミングが合い、私にはとても刺さりました。  何が面白かったのか、それは見終えた後に『これはもう映画の娯楽性をぶち壊しにかかったんやな』と思えたところです。  すべてではありませんが、映画は娯楽です。監督がいて演出家がいて、人格(キャラクター)を操る役者がいる。白い布に投じられるのは“影”です。  この映画

          頭の中の稚拙な図式

          円相図(3/4)

           般若心経の「色不異空/空不異色 /色即是空/空即是色」はこの意となる。  これは東洋思想家中村元の訳によるが、さて物質的現象に実体が《ある/ない》とはいったいどういうことか。  再び「五蘊皆空」を端緒とすれば、五蘊(ごうん)とは“物質的現象”と感覚・表象・意志・認識などの“心的作用”をいい、そのすべてが《空》というのである。  人が目を向け耳を傾け、触れ感じて認識する「世界」は《空》であり実体はない。  中村は著書『空の論理』で、「一切空」を知ることが最高の智慧につな

          円相図(3/4)

          だから旅に出るんだろ

           “選ばれし”太宰がうつす淋しい自棄は美しく透明だ。  そこにいたたまれなくなる理由は、この”淋しい自棄”にある。職業共同体の抑圧のなか、うごめくエゴイズムを組み替えようとしてもがき、しかしまた、うずもれてしまう。  そして影を追い、影に追いつけない一日が、薄暗く終わっていくのに耐えかねる、だから、  行き着くのは、やはり、いちばん「身」の削られる場所だった。  高度経済成長期が少年期だった。高化学スモッグを吸って育ち、低い灰色の雲から垂れ流される人工の雨に打たれ、少年

          だから旅に出るんだろ

          円相図(2/4)

           五蘊皆空(ごうんかいくう)という。五蘊は、色(物質的なもの/肉体) 、受(感受作用)、想(表象作用)、行(形成作用)、識(識別作用)の五つそれぞれが『皆空』、すべて空であるというのだ。  これによると人が習慣的に想い起こしている「世界」は、頭の中に仮に構築したものということになる。 2.『光万象を呑む』  《光》は智慧をたとえるものと思う。それは「五蘊」が「空」であることを体得した智慧のことではないだろうか。  そして《空性》を知り「わたし」が仮に構築した世界、つまり

          円相図(2/4)

          何をしてるって?「のら」してます。

           本には振り向かない、勉強に身も入らない、ただ元気なだけな子が初めて読んだのが“植村直己”の冒険談だった。  うっすらと記憶しているのは、その本を自分の小遣いで買ったこと、そして内容が北極圏の単独行だったことだ。  齢を経ると“問い”を立てたくなる、『人生に他の道はあったのか』と。  週末は《のら(野良)》をする。  今週は土曜日の午後から始めた。無計画に街を出て、適当な野山で夜を過ごす。つまり、こういうのが自分の《のら》だ。  目覚めて「竹田城」を目指し登山した。来月

          何をしてるって?「のら」してます。

          円相図(1/4)

          心月孤円にして光万象を呑む 光境(さかい)を照らすにあらず 境また存するにあらず 光境ともに亡(ぼう)ず またこれ何物ぞ  『正法眼蔵』の言葉だが、道元の思想に馴染んで知ったわけではない、きっかけは哲学者の西田幾多郎だった。  『円相図』とよばれる書があり、それは西田の哲学を象徴すると言われ、その図に添えてあるのがこの言葉だった。  少し考えてみたいと思った。しかし、考えれば考えるほどわからなくなった。腑に落ちる解釈ができない。  何度かわかったような気になったが挫かれ、

          円相図(1/4)

          「挫折」と「葛藤」そして、雨であること

           人は川を作ることができない。護岸したり、流れを曲げたりすることはできる。しかし、大地のひと雫をよせ集め、川そのものを作ることはできない。  夏、温かい土にもぐらせた種が存分に養分を吸収し秋に実ろうとしている。  これも川と同じ、人が種の生きようとする力を作ることはできない。それを利用することはできても自然のはからいの根源を作ることはできない。  雲が流れ、大地がうねり、草木が群生し、昆虫や獣がうごめく。森羅万象は循環し互いを支えあっている。  窓外を眺めれば、今日も雨

          「挫折」と「葛藤」そして、雨であること

          されど一日なので、

           予期したことではあったが、9月から週の休日が1日から2日に増えた。  その1日で何ができる? 新しく手に入れた1日を、今までと同じスタイルで過ごしてはもったいない、変化がほしい。  そこで、バイクで遠出することにした。かわいらしい排気量なので、移動できる距離は知れている、往復でせいぜい200キロが限度だろう。  まずは「海を見たい」と思った。無計画で当てずっぽうだが、日本海を目指すことにした。  舞鶴へ行く。青看板の道案内が充実していたので、迷うことなく、京都市内か

          されど一日なので、

          旅、三日目の夜

           風の音を聞く静かな夜。振り返る時間はたくさんある。  この地(熊野)を訪れたたのは「熊野本宮大社」へのお礼参りが大きな目的だった。先日の交通事故の折、バイクの前輪は大きな衝撃を受け湾曲したが、その屈強な“鉄カブ”の前輪には「熊野本宮大社」のステッカーが貼ってあった。  大きな事故だったが、前輪が衝撃を受けとめてくれ、体に損傷(その場での骨折や内臓の出血)はなかった。その礼がしたかった。  ご存知の通り「台風10号」の接近で天候が悪い、悪いを通り越してバイク乗りには最悪の

          旅、三日目の夜

          切実な「せかい」

           身の回りの自然の出来事は法則に従っている。いま降る雨も、雨粒一つ一つが万象を支配する法則に従って落ちるだろう、そして、自然の摂理に背いてはいない。  人間は自然に法則性を見いだし、書き表す知恵を持っている、それはすばらしい資質で、驚くべき可能性を示唆していると信じたい。しかし、人間は自然をどこまでハッキリと捉えることができるのだろうか、そしてありのままを記述することができるのだろうか。  いま、雨が降っている。旅先で大雨に見舞われている。運休する交通機関もある。  宿

          切実な「せかい」

          旅に出ても、もどる街で

           途方に暮れる経験だった。旅は仕組まれた“絶望”というねじれた装置がなぜ発火し身を砕くのか、確かめる作業のようなものだった。  ただここを離れ、罪悪感を解き放ち、安定した情緒を回復しようなどとはあつかましい。それはどうにもならないことだ。  “孤独”な時限爆弾は、置き去ろうとしても離れない。耐える以外に対処のしようもない。植物が枯れるのをじっと待つように。  西成、新世界、天王寺。生まれ育った場所ではない、友人もいない。ただ十代の最期をこの界隈に生きた。そしてしばしばこ

          旅に出ても、もどる街で

          父と母に

           どうも墓参りに行けそうにない。京都に住む。巡ったことのない寺はごまんとある。帰郷できなくとも先祖供養する場所にこと欠きはしない。  「神護寺」に行った。京都市右京区梅ヶ畑高雄町にあり、いま東京国立博物館で催されている「神護寺展」(7月17日〜9月8日)のお寺だ。  気のいい駐車場の方が、高雄町の寺々を教えてくれた。しかし先祖供養の線香をあちこちに立てて回るのも「どうか」なので、大汗かいて神護寺の本堂だけ詣り、これを父と母に見立てて線香二本に手を合わせた。  『だらしな

          父と母に