円相図(3/4)
般若心経の「色不異空/空不異色 /色即是空/空即是色」はこの意となる。
これは東洋思想家中村元の訳によるが、さて物質的現象に実体が《ある/ない》とはいったいどういうことか。
再び「五蘊皆空」を端緒とすれば、五蘊(ごうん)とは“物質的現象”と感覚・表象・意志・認識などの“心的作用”をいい、そのすべてが《空》というのである。
人が目を向け耳を傾け、触れ感じて認識する「世界」は《空》であり実体はない。
中村は著書『空の論理』で、「一切空」を知ることが最高の智慧につながり、あらゆる現象は実体性を持たないという道理を体得することが最高の智慧(悟り)に通じるというが、これによればどうもあらゆる事象には《空》という特質・特性が潜むようなのだ。
その《空》に向き合うとき、日常的な感覚的経験、たとえば《ある/ない》とか《善/悪》とか《キレイ/キタナイ》という価値判断から推量されることや、《〇〇は〇〇である》と主語・述語で切り分ける事象に、形而上学的な実在性を附与することは誤謬を生じる。
そして《空》は時間においても、運動においても「有/無」が相互依存し、不可分であり、それ自体は対象化されず限定もされないものだ。
中村が解釈するように《空》の道理は体得するものであって、概念で把捉されないのだろう。
しかし、雨粒一つが落ちるという出来事の生成する場が、《空》を拠り所とし、そこに物理的な現象が見いだされるのならば、それとして計り知れない自然の奥深さと不思議を感じる。
「ないのにある/あるのにない」とは謎かけのようだが、虚数が数学に役立つように、これは人生の解を求めるのに欠くことのできない智慧ではないかと思っている。
3.『光境を照らすにあらず』
「知覚は、いかに簡単であっても決して全く受動的でない、必ず能動的即ち構成要素を含んで居る」と西田幾多郎はいう。
都合がいいように能動的に事物を認知し、《私》は認知したブロックを組み上げその「世界」にとどまる。
《光》が《空》を知る智慧であり、万象をありのままに照らすならば、このような都合の良い《私》中心の世界に境(さかい)を見いだすことはない。
人間には生存欲求があり、《私》を仮構するのも個体を維持する上では必要なことだろう。しかし仏教は、一切の形成されたものは“無常”であり、一切の形成されたものは“苦しみ”であり、一切の事物は“我にあらざるもの”と教説する。
固定的・実体的な原理として《私があること》は前提できない。
そして《私》中心の世界像に安んじれば、利己的で排他的な思惑を免れることもできない。
《私の世界》に迷妄すれば、世界が感覚する《私》とは全く無関係に粛々と変化し、且つどれだけあがこうと、苦しみの種の尽ない人生に納得はできないだろう。
4.『 境また存するにあらず』
「一切に我がものなし」という仏教的な見識は、《私》が仮構した世界を盲信すれば、そこに“渇愛”と“苦しみ”が尽きないことを示唆する。
《有/無》の境(さかい)は存しない。
あると思って伸ばす手の先には何も無いのだから。