見出し画像

連載小説 「うすらわらい(1) 羊歯」 正津勉

新春第1弾のスペシャル企画は、詩人の正津勉さんによる新連載小説「うすらわらい」です。
多くの詩集のほかに、『笑いかわせみ』『小説尾形亀之助 窮死詩人伝』『河童芋銭 小説小川芋銭』など、小説でも定評のある作者の新境地をご堪能ください。

羊歯
  これといって格段どうということもない。そこらの草原のどこにでも、そして山間や湿地などに、ごくふつうに群生している。ありきたりの雑草のたぐいでしかない。
 それがしかし、どうしてなのか。わたしにはそんなものがどうも気になってならない、というのかとても理解がゆくように説明できそうにないが、ほんとうじっさいに目がないくちというのである。どこかちょっと、おかしいほど。
 ――シダ!
 とふっとその群れに出くわしている。するとおぼえず、わけもなく待たれていたのだ、というふうにも嬉しくなって、しまっていること。ふらふらとその根方のそこらに腰を下ろしたりして、もうなんとも気持ちよろしく心が遠くなっているのだ。
 いわずもがな、もいいのだが。シダはむろんもちろん、人間の感情などとは一切無縁でどんな関係も対話もありえなく、シダでしかないのだ。だからへんな、しだいかもと。
われながらなにを、いっているのやら。などといいつつもいつもとおなじ、がまんならなくザックを枕にゴロンと横になったりしているから、まあどこだかがいかれているのだ。ほんとどうなって、しまっているのか。
 湿気た気色悪いごわごわ。そこにぼうと、ぼんやりと身を委ね仰向けてじっと、おのれはお伽噺の一寸法師の化身なるものよと、ひとしきり祈念し力を抜いていると、いいのである。ごわごわの背中の腐蝕土。
 ――シダと心中すべえ……。
 
 いったいどのように形容したらいいものか。ぎざぎざに羽状に裂けなんというか、どこか大恐竜時代の地を蔽う古生代植物みたい、そんなようにも垂れる葉形のそのさま。おどろおどろしげも異様ではないだろうか。
 くわえてどうにも理解不能なることがある。葉裏のそしてその縁にくっつく粒状のなんという。これをそう、胞(ほう)膜(まく)、といったか。シダは花を付けない。そのために種子がなくて胞子でもって繁殖するという。どうにもなんとも奇怪千万にできているとか。
 たしかそんなふうに理科の時間に教えられたようである。そのつながりであの嫌な教師が得意げにもして、ギギィーと黒板に描いた白と緑と赤と三色のチョークの、わからない絵解き図面が浮かんでいるのである。それにしてもまったく理科は大の苦手であったのでは。
 みはるかすかぎり空は真っ青、きれいに光を透きとおす。むろんのことほんとう、まったく人工的夾雑物ごときは、ありっこないのである。そこいらに人の影のひとつも、緑の真ん中にわれひとり。
 静かである。どうであろう、なんとも古生代的とおぼえる、まるでどこか不感にして無覚なればそれこそ自身の没後のごとくにも、それほども茫洋寂寞たること、このうえない。静かすぎる。
 グウ、グル、グウ、グル……。ただときおり遠く近く輪をかくらしい、そいつをあれは始祖鳥ではなどと思いを飛ばしてみる脳天気ぶりもおかしく、はじめてきく鳥の鳴き声がとどいている。グル、グウ、グル、グウ……。
 それはしかし、そんな空耳である、のかもしれぬ。どこだかで水が湧きでもするか、ひょっとすると背中の腐蝕土の真下かそこらあたり、ちろちろと細く流れるのらしい。それもだけど、どうも幻聴っぽく、あるようだが。
 ――いやなんというそんな、三途の川、であったりするかなんて……。
 いつのまにか鳥の声が消えているのだ。さっきまで風はなかった。だけどどうやら、それと少し吹くよう、そよっそよっと。とゆらりと葉がゆらめく。どこやらに鳥は飛び去ってしまったか。
 なんだかぷっと吹きだしそうである。そよぐたびに葉の先がざらと、えぐいような匂いむずがゆく、くすぐったく眉と瞼をなでる。ほんとどうにも堪えられそうにない。
 これはどういう、ことであるのか。いまこうしてひとり児戯まがいに、よくやった誰かを愕かせたくて息が止めるぐあい死んだ者のふりして、ひっそり瞑目するようにしている。なんだかどうも、へんてこなぐあい。
 エヘン、といかめしげに咳払いなどしてみる、エヘン。そうしてなに思うとなく、へらへらと腹の皮をくぼませ、おかしく思っているのだ。おなら、でちゃったりして、だとか。
 
 ――自棄的傾向……。
 これをどんなふうに読んだらいいものか。どうも学業また素行への注意らしい。がなにをどのように諫(いさ)めているものやら。
 はじめてその文字をみたのはいつか。たしか小学五年の通信簿記録、問題児童のなかでもひどい落ちこぼれの、なにしろ五年生春までも寝小便をしてひどいギッチョもあって成績振るわず赤面恐怖症であった、こちらに優しくしてくださった国語教師、脇良子先生の担任所見だった。とおぼしくあるが間違いかもしれない。
 だけどこのように指摘されるまえから、どうにもその傾向がつよくある、らしいとは自覚するところがあった。すぐに捨て鉢になる。どうしてそんなのであるのか。いつもなにごとにつけわが身も心もこの世から消えてしまえばとつのる。それはいってしまえば誤れる血のもとに生まれ育ったがためだからであると。そのようにでもいうほかない。どんな薬も利かない。つまるところ生来のものであれば、こればかりはどんな名医であったとしても、またこれからのちも更正できるものではない。
 とすると脇先生のおっしゃる自棄的について。このことではわがほう男どものことを思えばいいだろう。こちらが知るだけでも親父、長兄、次兄ともにアル中なること。みなさんそろって早くもはやばやと亡くなっているのだ。つまりは絶望的であること決定的なのである。
 でもってあれは何歳頃であったろうか。猫イラズで死ねるそうだときいて、いまとなっては笑い話もいいのだが、忘れずに隠していたこともある。いつかそのとき決行時がきたらやろうと。
 なんでそんなふうであるのか。わがことながらよく了解できないでいるのである。わたしはそっち自棄のほうに、他人さまとくらべて針が一方的に振れてしまうような性質、そういう傾向がすぎるようだ。だけどそれがいかに発露するかはなんというか。そこらはどうもよくわからない。
 いまふうによくいわれる自傷行為とくらべるとどうだろう。たとえばよく十代にみられるような、カッターでもって皮膚を切るような極端な現れかたをしない、そんなにまで内発するものでない。もっとうちにこもった慢性症的なものといったらいいのか。
 ――だいたいこうして、いつごろからか急に街を背にもうバカみたく繁く山へ足を運ぶようになった、しだいもそうでは……。
 それまではまるで、ジマワリかなにかみたく夜の街を肩で風を切って歩きまわっていた、のではなかったか。それがどうだろう、自棄的傾向の劣化的進行、そのものというか。そうではないのか、それはあえていうと仮に人の知らぬ処に己を棄てに行くようなこと、とどうちがうのか。
 さらにもっとこうしてシダに誘われるのもそのたぐいである。だけどこんなのは、そんなやつが歳経てからの所為でどこか温和というか微笑ましくもみえる、よろしさであろう。それがそのさきはとんでもなく振れてしまっていたのである。
 そういえば、あんなにまで振り切れていたのは、いつだったか。どういうか、まんなかあたりから折れてしまったような、どっかぽきんと。とかいってやたらめっぽう酒量ばかしがふえっぱなし。どんつきも、どうにもわからなく救いがなくなっていた、どんつまりに。ひどいざま、そのはてついに針が飛んでしまった、ようだったのは。
 ――極端な者は、極端に走る……。
 
 陰惨になっている。それは新宿でのこと。こみあげる吐き気こらえなく、ガードポールに抱きついて、しばし揺れているかと頸をがっくり、やにわ指を二本、おえっおえっと、咽喉に突きこみ、ながく唾のひもをねばく振るいきおい、シャッターに頭をがんと、つんのめり前へよろけでていた。もはや夜明けだった。醜態をやっている。
 やけもやけっぱちもいい。やがてほどなくわらわはおだぶつ、南無三降参、おぼぅさんごめんなさいだとか。ほざいていたよなときが。
 出てって、おんなはカウンターのボトルをひったくるようにした、ねえもう……。それをふり払おうとしたひょうし、なんともぶざまにすぎる、じゅうぶんにみにくい、チェアーから転げおちているしまつ。がしゃん、とびっくりグラスがフロアにこなみじんひびいたのだ、早くって……。
 いいのもう、あたしにはあんたは死んだひとだってこと、なくなった……。しかしどうしてそんな。まるで懲りてない、よくも十年いや、その二倍だか、まあ馬鹿ばかし、ほんと変わってない。よくっておわかり。わかったら、どうぞとっととお引きとりねがえなくって、きえている……。
 ろくでなしのひとでなし……。おんなはというとけんもほろろ、憐れみたっぷり笑いかけるようにしてそういうのだ、考えられないのったらない、信じられないのったらない、あたしがあんただったらいまごろ死ぬための薬、いただいてしまっているわよ、いくじなしのたまなし……。
 でそのときどう返していたのか。やくだいないといわばいえ。ホームレスになる。家には、帰らない。ゴミブクロをあさる。鼻をつままれる、道路に生き道路に死なん。犬もさけていく。タレナガシのままだ。帰ろう、家はない。ダンボールにすむ。なんてへんになっているのだ。いいいいから笑えばわらえって。
 おまえはあれよ、みじめのきわみ。いましも息もたえだえ、桃いろめく掌をぷるぷると貧しげなる髭をぴくぴくと顫っておっ死(ち)んでゆく。ドブネズミよな、ほんとおまえは。
 どうにもこうにも救いがないままなのだ。いやまあほんといったい、恥多い支離滅裂なる夜郎自大(やろうじだい)の半生、これをいうとしたらなんと。つじつめていえば屁のごとしなるかとか。
 
 おかしいのである。そんなにまで切れて狂いまくっていたのだ。そのようななんとも嫌なほんとうに思いだしたくない、ぐずぐず、どうでもいい露悪的にすぎるよな、ぐだぐだ、がもういっぱい吐きたいほども浮かびつづけるのだ。だけどいまやはなから切れる力などもはやない。あるべくもないと。
 だからもう止めておくべき。そんなぐあいのただ暗く狂おしいばかりの、どうにも重ったるく、もたれるような繰り言はよしとすべきでは。とそうして頷いているのだ。
 ここは般若心経だろうと。かくなれば困った時の神頼みならぬ仏頼みではないが、どうしてかそのさきに絶望的にへこみ、それこそ自棄的になったときなどに、どれほどだろう毎日つづけた写経で覚え諳んじている。やはり般若心経でいくと。
 でいまはただもうただ嫌な思いを払うべく心しずかにあらんこと。そのはてはいかような身心脱落になっているものやら。ならいおぼえたそれを声も大きく朗らかに称えるようにするしだい。
 ――観自在菩薩 行深般若波羅密多時 照見五薀皆空 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色……。
 色即是空……。ともあれシダである。ここでこうしてこのままぐっすりと、眠り呆け、つづけていればどうなっていようか。ずっとシダとともに。空即是色……。
 とそのときなぜかまた瞼に写っているのである。自身のことではない。さきにある気儘務めの職場で机を並べたこともあり、とくに親しくはなくも人となり、ほかについて少し知る物書き朝倉喬司氏の訃報をめぐって。新聞にこのようにあった。いやほんといったいこの人に何があったものなのか。
「9日、自宅アパートで死去しているのが発見された。周辺の住人からアパートの管理会社に『異臭がする』との連絡があり、同社社員が通報した。一人暮らしだった」(毎日新聞2010・12・10)
 そのように短くあった。おそらくおびただしい本や紙の束の間で冷たくなっていたやら。どれほどかミイラ化していたようかも。まわりになんだかんだ飲み残し食べ散らかしなどもあったか。そのとき浮かんだのだ。
『老人の美しい死について』(作品社 二〇〇九)。故人の死の前年に刊の著だ。このように帯文にあった。
「人生の終末に、あえて自ら死を選んだ三人の老人――。/市川団蔵〔八世〕歌舞伎役者・享年84歳/木村セン農婦・享年64歳/岡崎次郎マルクス学者・享年79歳/自らの仕事を“天職”と心得て、心に秘めた強い意志をもって生き抜かれた果ての自死。明治人の“美しき生と死”を通して、現在の生のあり方を問う」
 そのありようは彼の憧憬し止まぬところだったろう。ついては丁寧に描かれる、明治生まれの死の諸相はともに、それぞれ苛烈で美しかった。ところでいかに彼の不明な訃をみたらいいものか。
 いわゆる孤独死であると。それはやはりそのように片付けられるのであろう。享年六十七、つたえきくところ若いころから血の気が多くアナーキーで道を外れた荒っぽいことを少なくしてきたらしい、侠客的論客。であればわたしなどには覚悟のうえのことととらえる。すなわち厭世死なろうと。 
 するとそこでおかしいのだ。ついては、そのことからの連想されることであるが、それぐらいなら間違いなくこっちのほう、であろう。シダの葉に埋まって、ひっそりと息を引き取っていって、シダの根に這われる。そうして、そのままだんだんと亡骸めいてゆくほうがよりのぞましい終幕というものではないか、ぜったい。いいにきまっているだろう。
 ――シダがいいのだ、文句なくよろしくある、シダとこうして、心中するというほうが……。
 そうでないかと頓狂もよろしすぎる、いやこんなにまでの没入はどうしてなのか。このあといかほどかすれば、まずは腐敗、つぎには白骨化しつづけ、さいご分解、というはこびとなってゆく。そんなふうならば至上とならずとも、ひらべったく上等とすべきではないのか。
 それはしかし待たれたし。いたずらに死を方便まがいにする戯言は止めておくのだ。バカでないほうのおまえには、よくシッカリと耳の穴をカッポジって、シカときいておかれたくある。およそどの死も人手をかけないと酷く陰惨きわまりない。ちょっと考えればわかる。
 吐き気する。異臭は鼻つき、肋骨は崩れる。禽や獣に啄まれ裂かれ、虫や菌の類が巣くう。腸の襞から骨の髄へ、あれはどこに口なり歯があるのやら、蛆が這い回り貪る。眼球は融けて、眼窩に草むす。目を背ける。
 そんなひどく無残なものだ。じっさいそこらがほんとう真実のありようなのであろう。いわずもがな死は酸鼻なものであって救い無きものだ。ならばなお称揚するべし。
 ――能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅密多呪 即説呪日 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆詞 般若心経……。
 羯諦羯諦……。などなどと不確かなところは、むにゃむにゃと反芻したりしつつ。かくしてじょじょに土に帰っていくのである。ほどなくかたちなく土に帰っていくのである。とよしなく狂歌まがいをひとつ、さらばさいごに露命をはつこと。波羅羯諦……。
 ――へゝゝゝゝ へゝゝゝゝゝゝ へゝゝゝゝへゝゝゝゝゝゝ へゝゝゝゝゝゝ……。


【執筆者プロフィール】
正津勉(しょうづ・べん)
1945年、福井県生まれ。同志社大学文学部卒業。詩人・文筆家。
おもな著書に、詩集『惨事』(国文社)、『正津勉詩集』(思想社)、『奥越奥話』(アーツアンドクラフツ)。小説『笑いかわせみ』『河童芋銭』(河出書房新社)。評伝『山水の飄客 前田普羅』(アーツアンドクラフツ)、『忘れられた俳人 河東碧梧桐』(平凡社新書)、『乞食路通』『つげ義春』(作品社)ほか多数。

いいなと思ったら応援しよう!

やまかわうみweb
やまかわうみwebに、サポートお願いします! いただいたサポートはサイトの運営費に使わせていただきます!