「挫折」と「葛藤」そして、雨であること
人は川を作ることができない。護岸したり、流れを曲げたりすることはできる。しかし、大地のひと雫をよせ集め、川そのものを作ることはできない。
夏、温かい土にもぐらせた種が存分に養分を吸収し秋に実ろうとしている。
これも川と同じ、人が種の生きようとする力を作ることはできない。それを利用することはできても自然のはからいの根源を作ることはできない。
雲が流れ、大地がうねり、草木が群生し、昆虫や獣がうごめく。森羅万象は循環し互いを支えあっている。
窓外を眺めれば、今日も雨が降るらしい。雨粒が落ちてくる。それは水が循環し地球の全てが、どこ欠けることなく連関する証だと思えば雨粒一つが不思議でならない。
巨船で海を渡る。15世紀より造船や航海の技術が発達し文明は広くなった。だが人が未知(⁇)の大陸に渡り「海を制した」と豪語するのは、少々のぼせあがった言い方にならないか。
確かに今日も明日も物質文明だ。電車、スマホ、ビル、車、何もかも。人のいとなみのすさまじさが目に映る。しかし、だからといって“たゆたう海の実体”をすべて知ったかのように言うことはできないだろう。
哲学者バートランド・ラッセルは「物質とは一口で言えば形而上学的な誤りであり、主語と述語から成り立っている文の構造を外界の構造に転移したため生じたものである」と言う。
人が「海」と言うとき、自分たちの文脈で、切れ目ない存在から「海」らしいところを切り取り名状し意味を与える。
「木」「家」「人」切り取られたものは、すべて物質的な実体を背景にもつかのようで、人はその「もの」を承認し、それらのカケラを集めて「世界」を再構成する。
想起された「世界」は「実体」として、頑なに信じられ疑われない。
「世界」についてポスト構造主義哲学者ジル・ドゥルーズが、面白いことを論じた。彼は世界を様々な揺らぎを孕みながら多様な形を成すためにまだ形を成していない「どろりとした流体で“卵”のようなものだ」というのだ。
卵(たまご)⁇ 日常的な感覚から離れるので、ついほくそ笑んでしまう。(毎日そんなベトベトしてないしなぁ〜とか)
だが、ベトベトしようがサラサラしようが“真の実在”が何なのかは、よくわからない。
ただ、経験的な事物を「もの」として「実体」とみなし、世界を無数の素粒子が織り成す様々なパターンの集まりで、宇宙をただ粒の広がりにすぎないというなら、それは、概念で把握できる部分から全体を空想し「世界」として“なにがしか”を仮に構築しているにすぎないと思う。
最後に『般若心経』を恃(たの)んでみる。物質的現象は「空(くう)」であり、また「空」であることを拠り所に「実体」をなすという。有無は対立せず互いを支える。
その葛藤や挫折感はどこから降るのだろう、雨を見つめながら問うてみる、