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円空、10歳までの生い立ち。

今回のYouTubeでは、円空が蝦夷に渡るまでの生い立ちが冒頭から字幕で流れます。
何故その一行になったかをnoteで説明したいと思います。


◉1632年、円空美濃国生まれる

この誕生年と誕生地が判明したのは、群馬県にある貫前神社旧蔵の『大般若経奥書』に、

『十八年中動法輪 諸天晝夜守奉身
刹那轉讀心般若 上野ノ一ノ宮今古新
いくたひもめくれる法ノ車仁ソ一代蔵も輕クトドロケ
延宝九年辛酉卯二二月丁酉日辰時十四日見終也
壬申年生美濃国圓空(花押)』

と円空の自書が残っていたからです。
この文献から他にも、
・書かれた延宝9年は円空50歳
・円空は32歳から50歳までの18年間法輪を動かし奉じてきた
ことが分かります。

円空最初期とされる像は、岐阜県郡上市美並町根村の神明神社に残る1663年円空32歳の時の3体の神像です。
円空が法輪を動かし始めた年とピッタリ一致します。

最初期像の天照皇太神と阿賀田大権現
と、
八幡大菩薩の3体の
写仏(写神?)です。🙇



◉幼少期に母を亡くし孤児となり、

昨年ご逝去された円空研究の第一人者であり円空学会を設立された長谷川公茂氏は諸々の発見により、円空7歳の時に母を洪水で亡くしたと推定されています。その理由として、

①現在までの研究で円空の生地とされている岐阜県羽鳥市上中町中は、洪水被害の多い地域で、1638年(円空7歳)に災害史に残る洪水があった。

②岐阜県関市洞戸の高賀神社で発見した『大般若経』の表紙裏に貼られていた円空自筆の1600首ほどの歌集から。

わが母の 命に代わる 袈裟なれや
法のみかげは 万代をへん

③円空は大洪水で母を亡くし、33回忌の母の供養の為に十一面観音立像を彫り祀ったという生地の伝承がある。

④実際、円空は母の33回忌となるだろう1971年(円空40歳)に初めての自分の寺、中観音堂(卯宝寺)を生地に建て、御神体に十一面観音立像を彫っている。

⑤『近世畸人伝』や『浄海雑記』より円空が"稚きより出家"したこと。
などを挙げられています。

③については父がいなかったとの伝承はあるが、母が洪水で亡くなったとの伝承は無いと「歓喜する円空」で梅原猛氏は書いています。
しかし、②の歌集の中に、水や鏡に映る女性の歌が多く母を偲んでいる事から幼い頃に円空は母を亡くしているのは間違い無いとも書いています。


◉しばらくの間地元の寺で過ごす

孤児となった円空は、地元にある当時多くあった浄土真宗の寺に預けられたとされる説があります。

現在、円空の生地に残る浄土真宗の寺、徳仁寺と円空との関係が見られる記述として、

徳仁寺末 卯宝寺
寛文年中本寺徳仁寺第八世浄圓法
弟圓空創設

「真宗東派本末一流寺院明細帳」

蓬莱山卯宝寺 真宗大谷派 元徳仁寺末 上中町中区 由緒 寛文年中円空の創建であるが明治六年廃寺の手続きが取られている

『羽鳥市史』

があり、徳仁寺の末寺は円空の建てた卯宝寺(現在の中観音堂)である事が分かります。

当時、江戸幕府が寺院に対して、本寺末寺関係を結ばせるよう命じた本末制度がありました。
円空が本寺を選ぶとすれば、宗派よりも幼い時にお世話になった徳仁寺だったのではと考えます。


◉円空23歳で、寺を飛び出し

は次回に続きます。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。🙇



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