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#おじいちゃんおばあちゃんへ

思い出のエピソード、感謝していることや伝えたい気持ちなど。おじいちゃんおばあちゃんへ、手紙を書くようにnoteを書いてみませんか?

人気の記事一覧

義母のひと言に救われた日

義母が、グループホームへ入所して1カ月ほどたつ。 その間、私たち夫婦は義母に会いに行かなかった。 山椒採りで忙しかったことが理由のひとつだが、施設に慣れようとしている時期に会いに行くと、義母の気持ちも又揺らぐかもしれないという夫の見立てからだった。 入所当初は夫に2回ほどかかってきた電話も、一切かかってこなくなった。 「季節の変わり目は、季節に合った服を持ってきてもらうことになります」とケアマネさんが仰っていたので、そろそろ連絡があるかもしれないし、山椒採りを終えるこ

施設に入所の義母を訪ねて

先日、施設に入所して1カ月以上たつ義母に会いに行ってきた。 秋冬物の着替えを持ってくるよう、ケアマネさんから、夫の電話に通達があってのことだった。 義姉や、義母の姉妹などが面会に行ったらしいが、私たち夫婦は、義母が入所して一度も顔をみせに行かなかった。 私たちはお互い予想をしていた。 義母は、私たちのことを覚えているだろうか。 家にいた頃は、一緒に住んでいる私たちのことを、別の人と見立てることもある位に、認知症は進んでいた。 私は、夫のことは覚えているけど、私のこ

敬老の日 何を思う???

Nice to see you again 【無料】いつも、コメントやスキを頂きまして、ありがとうございます。 特に、コメントして頂けると励みになります。 わたしは、、、 生まれた時には、祖父1人 祖母2人でした 高校入学時は、祖父1人 社会人になる時には、祖父母いなかった 初給料で、何かをプレゼントしたり、食事したりできなかったことが残念です 敬老の日は、祖父母を思い出す日です 生きていたら、何歳だろうか?  敬老の日 敬老の日と言えば、9月15日のイメ

【料理エッセイ】入院していた祖母が無事に退院できたのでお祝いをしたよ!

 5月ごろ、祖母が緊急入院したという記事を書いた。  ずっと脚が痛いと言っていて、整形外科でレントゲンを撮ったけれどなんの問題もないということで、マッサージとか整骨とか鍼灸とか、いろいろ試したけれど効果はなし。そこで、神経に異変があるのかも? と考え、専門の病院を教えてあげたところ、診察と同時に緊急入院が決まった。  MRIで見たところ、腰のあたりがめちゃくちゃになっていることがわかった。神経が飛び出て、たぶん、それで脚に痛みがあると錯覚しているのだろう、と。  まさか

義母の入院と義父の体重。

今年のGW、夫の両親の金婚式をお祝いした。とても大切な思い出。 その直後。 なんと、義母に乳がんが見つかった。 幸い、かなり早期発見で、転移もなさそうとのこと。毎年検診を受けていたからこその早期発見。検診、大事。 いくつか追加の検査を受けた後、入院し、手術することが決まった。位置的に全摘が望ましいという。女性としては大切なおっぱい。もちろん命が大事とはいえ、経験者にしか分からない寂しさや辛さがあるんだろうなあと思う。もし自分だったら、と想像して胸がチクリと痛む。 義

コーギーには尻尾があるんじゃ!

病院で薬を貰ってから よぼよぼと歩いて来たが 公園のあづまやでひと休みじゃ わしゃ、今日も暑くてふらふらじゃ おや向こうの方から犬が来るぞ なんじゃ、胴が長くて短足で ずいぶんぽっちゃりとしておる 知っとるぞ、コーギーとかいう犬じゃ 毛皮を脱げないからのぅ 犬もさぞかし暑かろう あづまやの日陰でコーギーの奴は 歩くのを拒んで座り込みおった 冷たい地面に腹這いになって 平べったくなってしまいおった 「こんにちは、今日も暑いですね~」 飼い主の若者はにこにこしておる

夏の菜園:92歳じいちゃんのこぼれ話

朝の菜園からおはようございます。 noterさんの中にも、家庭菜園を楽しんでいるかたが沢山いらっしゃいます。どちら様も今が収穫のたけなわで、手塩に掛けた夏野菜をおいしく召し上がっている頃ではないでしょうか。 我が家の菜園は、92歳のじいちゃんが一人で運営しています。 農家の生まれだったので、昔は農業で生計を立てていましたが、今は庭先に畳6枚ほどの畑を作って、季節の野菜を育てています。 うちのじいちゃんは、92歳ながらおかげ様で病気も無く足腰達者で、特に夏は元気に畑の世話を

もし健康寿命を延ばせるとして寿命1年の価値にいくらの価格を付けますか?

時間というのは、私たちにとって最も貴重な資産ですよね。 でも、その時間を健康に過ごせることって、もっと大切だと思いませんか? では、もし「健康寿命」が1年延びるとしたら、その価値にあなたはどれくらいの価格を付けますか? 少し考えてみてほしいのですが、健康寿命が1年延びた場合、その1年間は病気やケガの心配が減り、もっと自由に生活を楽しむことができますよね。 家族と過ごす時間、趣味に没頭する時間、あるいは新しいことに挑戦する時間もすべて健康なカラダでいるからこそ、そういった

ばあちゃん家のサイダーは背徳の味。

私の家では、なぜか炭酸飲料が禁止されていた。 友達や周りは炭酸を飲んでても、私は飲めない。 子どもながら不条理だと思った。 でも、生真面目な私は決まりを守ってた。 母方の祖父母の家に泊まりにいったときも、同じ。従姉妹たちの中でも、炭酸禁止なのは我が家だけ。私と姉は、いつも恨めしげに従姉妹が炭酸を飲む姿をながめていた。 しかし私が9歳の夏。 祖父母の家で待望の炭酸デビューを果たした。 夏休みのある日、ばあちゃんが私と姉をこっそり台所に呼んだ。台所のテーブルに、よく冷えた

遺伝子の拡散 父の異母兄

第二次世界大戦中、父方の祖父はミクロネシアのとあるA島に派兵されていたらしい。 帰ってきてから祖母と結婚して父が生まれ、祖母が50代で亡くなったあと、周りから反対されているなか早々に再婚した祖父を許せなかった父は、祖父と絶縁した。 それから何年も経ったとき、仕事で出会った人に父は言われた。 『君によう似た男が、A島にいるんや。ポストマンの○ちゃんって呼ばれてたんやけど」 祖父は郵便局で勤めていた。祖父の名前と同じ音の○。祖父は島の人と仲良くなって皆で踊ったと話してた。

【散文】もうすぐ祖母が亡くなる

もうすぐ、大好きな祖母が亡くなる。 昨日の朝、母から急な電話があった。普段のやり取りはLINEばかりなので、父や母から急な着信があると俺はいつもドキドキしながら瞬時に最悪なニュースを想定してしまう。その最たるトピックは祖母の死だ。今回もそうだった。 いつもと違うのは、その想定がほとんど間違っていなかったこと(いつもは、帰省の予定を聞かれたり、Wi-Fiの再起動の方法を聞かれたりするだけ)。 母の話しによれば、祖母の命はもってあと1,2ヶ月。すでに意識はないらしい。87歳なので

タバコと日本酒が大好きだったよね

敬老の日なので祖父母の思い出を。 母方の祖父は七蔵(しちぞう。七番目に生まれたらしい) 祖母はキン。雷の凄い日に生まれたらしい。 じいちゃんは草食動物のようにおとなしい人だった。ほとんど声を出さず、いつも座ってテレビの野球観戦をしていた。 キンと結婚して、私の母含む三人の子供が小さい頃、家が家事になりじいちゃんは大火傷を負った。 何故だか忘れたけれど、家族に被害はなかった。 その為に、じいちゃんは仕事をやめてキンばあちゃんが代わりに会社で働くことになったらしい。 「行かな

同居の義母の施設入所が決まってから

その日は突然やってきた。 ケアマネさんから夫への久々の電話は、施設入所が決まったことを伝える連絡だった。 最近介護度があがった義母のゆくゆくの施設入所は決まっていたが、まだ先のことで、「まずは試しにショートステイから入りましょう」とケアマネさんから聞いていた。 だのに、いきなり施設入所が決まったと、夫から聞いた瞬間・・・。 張りつめていた糸が切れたのをかんじた。 施設・・・入所・・・?! 気が付くと、涙がポロポロと溢れて止められなかった。 一番は、「安堵」する気

【Zatsu】ぞくっとした想い出 10

6月くらいからずっと朝も夜もなく、平日も土日もなく、ひたすら仕事仕事でした。生活もすさんでいて、心身ともにかなりすり減ってて。んで、先週末は頭が重たく気分も憂鬱だったんですが、週末の夜に発熱(39.5℃)、翌朝に病院いったら「ハイ、コロナ」認定という。 この連休中は行きたいところがたくさんあって、8/12は五反田TOCビルというレトロビルでのフリマイベントに行く予定だったのに、あえなくキャンセル。薬をのんでひたすら安静にしているという、なんとも残念な週末になったのでした🥴

夏休みの季節になると思い出すこと。

先日ある過去記事にいただいたコメントに 「いろさんの毎日投稿が大好きで、 毎日の楽しみのひとつになっています」 と書いてあり、涙が溢れそうになるくらい とっても嬉しかったんです。 なので、嬉しかった気持ちを 記事の中にも残しておきたくて こうして冒頭に書いています。 本当に嬉しい、ありがとうございます。 ところで今年は、 お盆休みが長すぎるくらいなのですが 用事(遊びや予定ではない笑)がある日以外は お家で猫さんとゴロゴロして 読書に明け暮れるのではないか という気がしてお

¥300

家の中の何か

 祖父母の家は戦前からあった日本家屋で、今思い出すと随分趣があったように感ぜられる。  玄関から入って正面が居間、右が大広間、左に祖父の書斎があった。  小学校に上がる前、呼ばれて書斎に行くと、祖父が机に向かって鼻毛を抜いていた。 「この毛抜でね、こうやるんだよ」と説明しながら抜いて見せ、「やってみるか?」と問うて来たが、痛そうだったから「やらない」と答えておいた。  祖父はそれから抽斗を開けて、何かの小箱を出した。箱の中には鉛筆を半分に割ったような形の透明な棒が何本か入って

幸せは主観的なものだから誰でもいつでも幸福実感度を高めれば幸せになれる

敬老の日に思う、「幸福実感」を高めるヒント こんにちは!今日は敬老の日ですね。😊 敬老の日という特別な日だからこそ、幸せな老後を迎えるための「幸福実感」について考えてみたいと思います。 「幸せって、なんだっけ、何だっけ。ポン酢醤油のある家さ!」 このフレーズ、明石家さんまさんが歌っていた懐かしいCMを覚えていますか? あのユーモアたっぷりのCMソングは、まさに幸せの本質を軽やかに表現していたように思います。 でも、「幸せ」って一体なんでしょう? 人それぞれ、幸せの

解体前の不思議😮

遠方に住むわたしの小さい頃からの友人が、御実家を解体処分することにしたんです。 その御実家の解体前に思い出一杯の家の中を案内してもらうと、昨日まで住んでいたかのように家財道具はそのまま。 かつての友人の部屋は、昔の儘のように趣味のレコードや本で埋め尽くされていた。 それに、床の間にはご先祖様とご家族を祀る立派な仏壇がある。 しかし、その仏壇を移設する場所もないため、友人は已む無く魂抜きをして処分することに決定。 そして、後日御実家を解体することになった。 解体開始して

短編小説:令和カラフルランドセル 〜かつてピンクでいじめられた私のカタルシス〜

 かつてランドセルが赤と黒だけだった時代、私のランドセルはピンク色でした。  平成初期の話です。あの時代、あの頃の私は、たかがランドセルの色がピンクというだけでいじめられました。年号が令和に変わり、世の中もまたずいぶん変わるものですね。  今の子ども達はピンクはもちろん、水色や茶色、青やオレンジといった自分好みの色を背負うようになりました。そうした色とりどりのランドセルを背負った子ども達を見ると、大人になりすっかりモノクロになった私の心にも色彩が蘇ります。  私が子ども

おじいちゃん、あの時お見舞いに行かなくて本当にごめん。

中学3年の3月初旬、高校受験を無事に終えたその次の日、父方のおじいちゃんが肺炎で入院した。もう11年も前のことだ。 まさか受験の翌日にこんな知らせを聞くことになるとは思わなかったので、正直びっくりした。 もし受験前日や当日に聞いていたら、大丈夫だろうかと気が気でなく、おそらく試験に集中できなかっただろう。 心配だったが、それほど危険な状態ではないという話を両親から聞いた。 そうこうしているうちに、私は晴れて第一志望の高校に合格し、中学の卒業式を経て、4月に高校の入学式を迎

私にはおばあちゃんがもうひとりいた

母が見せてくれた写真は、何十年も前のものでセピア調だった。私が知らない女の人が、母を抱いていた。その女の人は、私にも母にも似た顔をしていた。 私、18歳。写真を見せられたのは、高校を卒業して、大学も決まってのんびりと過ごしていた春休みの昼下がりのことだった。4月から家を出てひとり暮らしが始まろうとしていた。 写真の中で、母を抱いている女性は、私の知っているおばあちゃんじゃなかった。私の知っているおばあちゃんは、くっきり二重で小顔。その女性も私も、奥二重で決して顔は小さくな

人間の寿命が科学の進歩でマックス150歳まで生きられそうな時代になるかも!

もし150歳まで生きられるとしたら? こんにちは、やらぽんです! 今日はちょっとワクワクする話題をお届けします。 「私たち人間は150歳まで生きられるかも?」 という未来のお話です。 えっ、150歳まで生きられるの? って驚く人が多いと思うけど・・・・・・え? タイトルで読んだから、驚かない?? まぁ、そうでしょうね。 タイトルの話はなんだかSFみたいですが 実は科学の進歩がこの夢に近づいています。 2021年に発表された研究によると 人間の寿命の上限は120歳から

娘や息子は、義父母のことをどう思っているのだろうか

娘や息子は、私が結婚と同時に義両親と完全同居が始まったが故に、当たり前のように、生まれた時から祖父母の居る生活をしてきた。 私は、時代の流れにのって、核家族の生まれで、年に数回、父方、母方の両祖母に会いにいくだけだった。 父方の祖父は戦死していなかったし、母方の祖父は5歳のときに、癌でなくなったから、想像できなかった。 自分で納得して選んだといえども、義両親との同居という環境は私にとって厳しいと感じたことは多々あったが、長く生活を続けていると、より多くの大人に囲まれて育つ

鼠と土竜

 母方の墓は、広島でも島根との県境に近い山中へ先祖代々のが揃っている。自分の実家からはいささか距離があるから、帰省時に行くつもりでいても、ちょうど大雨が降ったり、何かの弾みで都合が悪くなったりして、なかなか行けずにいた。  たから今回の帰省ではきっと行くつもりでいたら、「熊が出るからやめておきなさい」と母が言う。最近そういうニュースをテレビでよく流しているし、実際これまで熊に墓を壊されたこともあったから心配しているのだろうけれど、そんな事を云い出したらもう未来永劫あそこの墓に

おばあちゃんはすぐに捨てる |エッセイ

よく、母が 「え!?ここに入ってた漫画どこ!? 捨てた!?」 などと言っている姿をよく見る。 「そこに入ってない?」 などとすっとぼけているが、捨てているのだ。 最近では、終活終活♪という感じで ますます、どんどん、捨てている気がする。 私の持ってるキャリーバッグは全部大きすぎて 旅行1泊用にちょうどいいサイズがないので、 買おうかな〜〜と悩んでいると、 「ママのヴィトンのボストンバッグあるから あげるよ。ファスナーがちょっとダメになってるけどまだ全然綺麗だし使えるよ

子供たちへ贈る、さいごのアルバム

パソコンのなかの写真を、断捨離することにした。 子供たちが中学を卒業した頃に、ために溜め込んだ写真を整理し、BOX型のポケットアルバム数セット分にして、息子と娘にそれぞれ渡した。 それ以上は写真を撮ることはないだろうと踏んだのだ。 その時、実両親、義両親と、当時まだ生きていた母方の祖母にも写真を整理したポケットアルバムを渡した。 特に祖母と実両親は、めったに会わないひ孫、孫の姿に喜んでくれた。 あれから七年ほどたつが、意外にもそれからも写真は増えていった。 スマホ

孫・息子の誕生日に思うこと

6月。 5日に孫が2才になった。10日、息子は30才になりました。 ■孫が2才になって思うこと おじいちゃんになってからもう2年。「孫パワー」をたくさんもらっている。孫パワーは凄い! きっと妻はもっとパワーをもらっている。 「おじいちゃん、やりたいことしてね!」と教えてもらった。 もちろん、2才の孫はまだ言葉にできない。 一緒に遊んでいるときの孫はやりたいことをしているときはご機嫌だが、そうでないときはグズり、泣く。 30年以上会社勤めをした私は、「やりたいことをしたい」

祖母の認知症

明治生まれの祖母がおかしくなったのは、両親が定年後、大分に帰ってきた頃からです。 それまで、一人で、家の事をこなしてきて気が張った生活をしていたのがプツンと切れたのか 家の事を何もしなくなり、ボーっとする事が増えていったのです。 80歳前でした。 1985年ごろで、まだ、今の様な介護の仕組みがなくて、ヘルパーさんもいないし、地域包括支援センターなんてありませんでした。 症状としては、よくあるパターンで、「お金が無くなった❗️」と騒ぎだしたんです。 その次に、「泥棒が入ったか

盆踊りと縁日もどき

旅行がてら、父の里の盆踊りを見に行った。 ネットで検索しても出てこない地元の人だけの盆踊り。歌。独特の踊り。紙?の灯篭。記憶よりも辺りが明るい。明かりがLEDに変わってる。もっと薄暗い中で真ん中の舞台の周りを皆が歌に合わせて踊っていた記憶だ。笛名人だった大叔父がしていた笛の伴奏ももうない。人ももっと多かった。時代の移り変わり。 3人の息子たちは踊りには興味なさそう。でも、なんだか初めて見る盆踊りに戸惑ってるみたい。まぁ、そうだね。私も子どもの頃、何とも言えない気持ちになっ

祖母の戒名

この時期一番の楽しみといえば、なんといってもスーパーや図書館に飾られた七夕飾りの短冊だろう。 雨にも暑さにもめげず、短冊が飾られていそうな場所には積極的に出かけて行くし、短冊が飾られている場所を待ち合わせに指定してしまう。 私は嬉々として、なるたけ多くの人間の欲望を啜るように覗き見ている。なんだか新手の妖怪みたいだ。 今年の当たりは、図書館の児童階に飾られていた短冊だった。 私の近所の図書館は大人の階と児童の階が分かれているため、「世界平和」「家族がみな健康でありますように

おじいちゃんはカレンダーが好き|エッセイ

おじいちゃんはカレンダーが好きだ。 カレンダーが好きって何?という感じだが、 実際、家の至る所に さまざまな種類のカレンダーを飾っていた。 一番のお気に入りは ビックカメラのカレンダー。 年末から正月にかけて ビックカメラで無料配布される、 1mほどある巨大カレンダーだ。 昔はどこのビックカメラに行っても 配布していたのだが、 最近では新宿店でしか 見かけなくなってしまった ちょっとしたレアアイテムだ。 (他に配ってるところあるのかしら…) 私は、家族の中で一番新宿に行

母が嬉しい夏メニュー

「今日は何が食べたい」と母に昼食のリクエストを聞くと、母は暫く考えて「あんたは何を作るつもり」と逆に質問してくる。 「私は特に考えてないよ、お母さんが食べたいものは・・・」と言うと5回に一度は「あんたは、めんどくさいかも知れんけど、素麺がええねー」と答える。 そうなのだ。母にとって素麺は食べやすく、また栄養も取れる夏に嬉しい食べ物なのだ。何よりのど越しがいいのが母にはありがたいらしい。 94歳の母は最近少し食が細くなり、なおかつ物も噛みづらく、呑み込みが悪くなっている。そ

歴史の中の美術品:近世日本の銀貨に龍が舞っていた

明治時代の一圓銀貨についてのお話です。 この一圓銀貨の裏側には龍が掘られています。 見事な龍が舞っている硬貨です。 まず龍とドラゴンは別物です。 日英翻訳で直訳すると同じになりますが別物です。 龍 龍とは東アジアで神聖な存在です。神様と言っても過言ではないです。 私の学生時代のノートを読み返すと、紀元前2000年頃に中国の夏王朝(かおうちょう)にて初めて龍の伝説があったと書いてました。 当時、質問攻めにしていた歴史の先生の情報では、夏王朝そのものに存在の証拠がなく

年齢を理由に諦めない話

 生老病死は不可避の宿命です。  人は必ず老い、病み、死を迎えます。然れども天寿の有り様は千差万別であって、実年齢のみで線引きできるような代物ではありません。加齢によって何が起き、故にどうなのかという視点を私は重視します。  ある日、100歳に近い老女の診療相談を受けました。新型コロナウイルス感染症を罹患して肺炎を発症して2週間、一向に改善せず治療に難渋しているといいます。元々は自宅で生活できていた方で、家族は「積極的治療」を希望しているとのこと。  さて、100歳に高

日々記:今日の親切

こんばんは。 今日は偶然「良い行い」をするチャンスに巡りあったので、1日の終わりに書き残して置こうと思います。 ◇◇◇ いつものように夫と2人で散歩をしていた。買い物がてらではあったが、今日も暑くて、実はもう疲れてクタクタになってた時のことだった。 ふと見ると、通りの向こう側にある自動販売機のところに、腰の曲がったおじいさんがいた。 本当はおじいさんが「立っていた」と書きたいところだが、おじいさんの腰は90度、いや100度以上も曲がってしまっていて、まるで落とし物でも拾

日記:8/27(火) ・今日は、母の誕生日でした🎂 健康で無理せず仕事してくれればなぁ ・奨学金という名の負債が、重すぎる💦 →このお金がなかったら、今の自分は無いけれども、、、さすがに今後の資産計画も立てら得ないよ😢 ・仕事を前に進めていく力をもっと磨いていきたい💎

中秋の名月に想う、亡き祖母への後悔

中秋の名月を3歳の子供と見て 「あそこにウサギさんがいるんだよー」なんて話をしながら、 ふと祖母の顔が浮かびました。 別にこれといって「月」に関する思い出があるわけではないけれど、 空を見上げて、物思いにふけてしまいました。 どうやらうつ病を患っていたらしい、亡き祖母への後悔です。 まずは私の家庭からお話しますが、 田舎に住む私たち家族は、両親と私、妹が住む家と、祖父母が住む離れが、一つの土地に建っていました。 私の家庭は、少なくとも私から見た限り、仲が悪いというこ

マンガ父の日

父の日ですね☆ 決して適当な手紙を送っていたわけでないのですが 子どもの頃と同じくあまりの反応の良さに戸惑う自分がいました。 今回は、喜んでくれると知ったので いつも以上に真剣に手紙を書きました。 珍しくすぐに連絡をしてきた父。 嫌いな部分もたくさんあるし なんだそれって思い出もあります。 ただ 笑顔でいてほしいと そう思います。 お父様の皆さま、 いつもお疲れ様です。 父の日に感謝をこめて 読んでくださり、ありがとうございます(*- -)(*_ _)ペコリ

青天の霹靂

 娘は2歳半。  万能感を身に纏うイヤイヤ期のド真ん中です。  コアラとトトロをこよなく愛する彼女は保育園のファッションリーダーで、ハートマークのグラサンにファンキーな傘をさして登園しては周囲を沸かせます。  自分の美的センスと合わないコーデを着せようとすれば「イヤーーー!」と叫び捨て、食卓に置かれた箸の種類が気に入らないと「イヤ。かえて。」と交換を申請します。細部にもこだわりを見せる彼女は自立心に溢れ、次々と出来ることを習得していく様子は圧巻といえるでしょう。  最

私の祖母の人生訓 〜激動の昭和を生きた名もなき一人の看護師〜

九條です。 これは私が大学を卒業するとき、私の祖母からお説教された言葉です。 お盆ですから、祖母の想い出話でも…。それが祖母にとっての供養となるように感じますから。^_^ 私の祖母は1918(大正7年)生まれ。戦前の女性としては珍しく上の学校(京都高等女学校/現在の京都女子高等学校・京都女子大学)を出て、戦前の1930年代から高度経済成長期の1960年代まで大阪市内の大きな病院の看護婦(看護師)として働きました。 2015(平成27)年に97歳で他界。 最近の看護師

オバーと聞いたFM沖縄

新川 郁実(98年生まれ 西原町出身)   社会人になってからラジオを聞くようになった。出勤する前には、いつも、ラジオを流しながら支度をする。チャンネルはいつもFM沖縄。お弁当を作りながら、コーヒーのカップを探しながら、ニュースや渋滞情報に耳を傾ける。  情報を受け取る選択肢が「聞く」だけだからなのか、ラジオはテレビから流れてくるニュースよりも情報がスムーズに入ってくるし、記憶に残りやすい。私だけだろうか。  小学生の頃、オバーの家に行くと、いつもラジオが流れていた。

最後のサイダー

「サイダーが飲みたい。」 病院のベッドでおばあちゃんがそう言った、 私が17歳の暑い夏の日。 サイダー。 それはあの、青い丸に三つの矢のマークが付いた、透明で首長の瓶に詰められたシュワシュワ甘く美味しいソーダ水。 え、でも三ツ矢サイダーってどこで売ってるの? 祖父母とは生まれたときから一緒に暮らしたが、 小学2年生になった7歳のときに私たちだけ転居した。 少し待てばいいものを、引っ越しはどういうわけか7月のまだ1学期が残っていた時期に決行され、夏休みに入るまで新居から電

106歳と0歳が出会う日まで

大きなお腹と共に、車に揺られて約2時間。 父が運転する車に乗るのは、随分久しぶりな気がする。 目的地は母方の祖父がお世話になっている介護施設。 その前に一人で近くのマンションに住む祖母を迎えに行きつつ、父・母・祖母・私の4人で祖父のお見舞いに行きました。 マンションで転んでしまい、車椅子に乗る祖父。それでも、頭はハッキリしていて。ハキハキと近況を話しながら、大きなお腹に目をむけて「おめでとう」と言ってくれました。 この人が今年106歳なるというのは本当なのだろうか。

疲れた時には甘いもの

疲れた!というわけで フードコートで一休み。。 小鉄(鉄道大好き幼児)のたっくんとともに、何をおやつにいただこうか迷う。 そんな5歳児が選んだのがこちら。 たい焼きソフト。 ソフトクリームの上に、熱々のたい焼きが、ぐさっと刺さっている。 しっかりと刺さっており、外すのに力が必要だった。 しかもたい焼きの熱も加わって、急がないとソフトクリームが溶けてしまう。 たい焼きをパクリ。 ソフトクリームをパクリ。 どちらをどのスピードで食べようか? 「変なたい焼きー!」

祖父の命日だったらしい

昨日、公開したnoteには祖父の話が入っていた。 夜になって、その祖父の命日だったことに気づいた。 物理的にもかなり遠いお墓。命日だからとお参りすることもなく、祖母も亡くなり7年くらい経つのだろうか。祖父母宅も現存しない。 祖父が亡くなったのは、祖母よりも四半世紀近く前のこと。当時としても早い死ではあったのだろうが、もっと早逝の可能性が高かった。私の記憶にあるのは、元気に暮らしていたものの、文字通り余生を過ごしていた祖父。 祖母の葬儀には、遠いとはいえ参列した。 私を見

エスカレーターの思い出

今年の『パリ五輪』では、「エッフェル塔」の向かい広場での開会式でしたね。 「エッフェル塔」は、1889年の第4回『パリ万博』の目玉として完成して、世界中の人達を驚かせます。 アール・ヌーヴォー(新しい芸術)が花咲き、 どんどん技術が進歩して、万博の開催の度にみんなが驚く物が出てきた頃でもあります。 その時は、“エレベーター”の完成でした。 水力での“エレベーター”は、斜めに配置され、真っ直ぐ上に上がって行く、今のとはかなり違う“エレベーター”でした。(エッフェル塔の足の部分

祖母が好きなもの

祖母は、姿勢がよく上品で、人を笑わすのも好きな陽気な人だった。 私が大人になってからは、2年に一度くらいしか会えなかったが、皆と一緒に食事をする時は、いつも楽しそうだった。 でも、ある時、何も食べられなくなった。 悲しいことがあったからだ。 それは親戚全員にとって悲しいことだったが、特に祖母が一番ショックを受けていたに違いないことだった。 その時ばかりは、目の焦点も合わず無表情で、顔色は悪く、やせて小さくなってしまった。 「悲しすぎて、何もする気にならない。食欲も

母には絶対に言えないこと

今日は母が送ってきてくれていたいつ送ってくれたか分からない🤐大量ダンボールの整理をやっていま~す👩 森本家そこそこ見てる人は知ってるかもしれない💧 うち貧乏のくせに🤐物はいっぱいあるのでw何も送らなくていいですよと言ってはいるんですが、うまく意味が伝わらない(゜∀゜)💦 うちでまいたらどうなるんだろうw申し訳程度にこれだけは飾った。 さて続きをしてきたいと思います。

貿易実務💚 ・国際複合輸送において、日本の業者が発行する複合運送証券では、全運送区間に対する複合運送人の一貫責任を約定している。 運送人の責任については「ネットワーク・ライアビリティ:Network Liability (異種責任組合せ型)」を採択している🌏

8月15日の話

 終戦記念日、という言葉を祖父は嫌いました。  大正に生まれ令和に他界した祖父は医業の傍ら執筆活動を続けていましたが、遺作となった出版物は自身の体験を基にした歴史小説でした。  大東亜戦争という言葉にこだわった祖父の立場は右側に大きく寄っていたものの、それは大日本帝国の日常であったと想像します。  善悪も正誤も立場や時代で変わります。  今日は戦争が終わった日ではないことと、そして日本国憲法が極めて歪な成り立ちをしているという史実を、祖父に代わって記します。 『堪ヘ