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白衣を着て、母をみる。

 因果を思う。

 私と実母の相性は悪く、幼少期の傷も相俟って出来るだけ会いたくないし、会う用事は短時間で済ませたい。母は私を溺愛してきたし、過保護で過干渉な母親の成立には、彼女自身の両親が共に毒であった過酷な生育環境に加えて、私が生まれながらに虚弱体質であったために、乳児期から幾度か死の淵を彷徨った事実が、彼女の庇護欲を決定的なものにしたのかもしれない。

 私が医師を志した動機は自身の体験によるところが大きいものの、母の尽力がなければ最適な医療との邂逅は果たされなかったろうし、母の交通事故と後遺症たる厄災が、私を突き動かした契機だったと振り返る。

 数年前、祖母の介護に憔悴した母は病床に伏せた。ありふれた病名の、しかし当人には大きな衝撃を齎すものだった。幸いにして日常生活を取り戻した彼女は、それでも随分と痩せてしまって、食欲もなければ活気もないままに、追われるように祖母の介護を続けた。認知症で自分の娘の顔も分からなくなった親の介護をひたむきに続けた母の心情を、未だ私は想像し得ない。

 白い巨塔に辟易とした私は都心を離れ、新しい勤務先は実家からそう遠くない場所だった。1年半ほど前だったろうか。痩せた手の母を見たら私はどうにも居た堪れなくなって、受診したらどうかと声を掛けた。

 翌月、彼女はおずおずと診察室を訪れた。互いの価値観が大きく異なることや、性格的に相性の悪いことは承知の上で、それでも彼女は受診した。相変わらずズレた気の使い方をしていたし、スタッフも不審がっていたけれど、私は嫌悪感を抱かなかった。白衣を着て対面する母は、ただひとりの患者だった。

 食欲がなくて痩せこけた彼女は、頑張って食べても下してしまうと言う。片頭痛の発作がひどくて外出できない日も多いそうだ。耳鳴は睡眠を妨げ、動悸と眩暈も著しい。骨粗鬆症と云われて薬を飲み始めたら、吐いて吐いて、とても続けられなかったのだとか。肌は荒れ、爪は割れ、腰は痛む。歯周炎が治らず歯も弱り、痛くてモノが噛めなくなった。

 老人のようだ、と私は思った。眼前に居たのは私の記憶の中の母とは随分と様相の異なる誰かで、しかし彼女が母であることは明白な事実だった。

 西洋医学的な診察と必要な検査を進めた。幾らかの異常はみられたが、致死的なものではなかった。症状別に考えたら、消化器内科と甲状腺外科と脳神経内科と耳鼻咽喉科と循環器内科と整形外科と皮膚科と歯科口腔外科の受診をして、それぞれの精密検査や治療を、という様相だった。そしてそれらは「年のせいかもしれませんねぇ」などと云われそうな不調に見えた。

 次いで東洋医学的な診察を進めた。脈は沈細緊弱で脾虚と腎陰虚が著しく、腹は軟弱で臍上悸が強く、胸脇苦満も相当なものだった。小腹も大腹も不仁であったし、全体に冷えて、臍の周りを按ずると鋭い痛みがあった。舌は乾燥し色調が暗く、白苔が厚く拡がっていた。ああ、重症だと判った。

 六味丸、帰脾湯、柴胡剤の加減方を織り交ぜて治療を開始した。六味丸を主薬に据えて継続し、帰脾湯との配合変化に注意しながら、8種類ほどの柴胡剤を使い分けた。長年の病の影響か、彼女の病態は気の滅入るほどに複雑だった。


 初めの2週間ですべての症状が快方に転じた。

 次の1ヶ月で食欲が回復し、頭痛も消えた。

 その次の1ヶ月で動悸と眩暈が治った。

 その2ヶ月後には嘘のように歯が痛まなくなった。

 半年後、彼女に残った症状は「ちょっと耳鳴り」だけになった。


 彼女はまるで他人のように、

「お陰様で、こんなに元気になりました。治してくださって本当に、有難う御座います。」

と言って深々とお辞儀をした。

 お大事に…と私は定型文を言いかけて、少し考えてから言い直した。

「今度、子どもたちを連れて遊びに行くよ。」

 不意に空気が変化して、時計の針が動いた。

「…ありがとう。待ってるね。」




 拙文に最後までお付き合い頂き、誠にありがとうございました。願わくは、宿命に立ち向かい負の連鎖を断ち切れますように。




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渡邊惺仁
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