老人ホームでモテまくってたおじいちゃんの話
10年くらい前に死んだおじいちゃんのことを思い出した。
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僕が中学1年生になったくらいの時、おじいちゃんが脳梗塞で倒れた。昨日まで元気だったのに倒れた。突然だった。そこから痴呆が始まり、おじいちゃんの介護生活が始まった。
当初は、在宅介護していた。これもかなり無理な状態であった。状況が好転して、おじいちゃんは老人ホームに入ることになった。入所時、すでに要介護5だった。他の親族から「老人ホームに入れるなんてよくない!」みたいなことを言われたりもした。
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老人ホームに入ったおじいちゃん。私たち家族も老人ホームを初めて知った。色々と衝撃を受けました。
このとき私は、高校1年生。ご飯がゼリー状だったり、やわやわになってることを初めて知った。私がお見舞いに行くと、入所者の方からいろんな名前で話しかけられた。入居者の方は、自分の孫や息子と勘違いして、たくさん話しかけてくれた。
私は、その都度「そうだよ〜、おじいちゃん(おばあちゃん)元気〜?」と会話を楽しんでた。思春期の私にとっては、未知の世界。働いている皆さん、介護士さん、本っっっっっっっっっ当にすごい!と尊敬したのを覚えている。
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びっくりしたのはホームに入っている人は、皆さん結構楽しんでるってこと。アクティビティはもちろんのこと、各々で楽しみを見出してホームでの生活を楽しんでいる。
男女が集まれば、恋が始まる。
老人ホームには色恋沙汰がある。おじいちゃんもおばあちゃんもしっかりちゃっかり恋愛してた。人間を謳歌してた。
となると、モテる人、モテない人は、はっきり存在してる。高校とあんま変わらんと思った。そして、見てるとなんとなくわかる。この人モテるやろうなとか、昔、遊んだはったやろうなぁ、とか。逆に、この人モテへんやろうなとかもなんとなく見えてくる。
で、うちのおじいちゃんはモテた。
老人ホームでおじいちゃんは、むっちゃくちゃモテてた。それはそれは、孫の私の目玉が飛び出るくらいにモテてた。
お見舞いに行くといつもグループの中心に、おじいちゃんがいる。一軍ど真ん中最前線におじいちゃんはいた。
基本的にハーレムしてた。なんなら綺麗どころが集結してた。遠くから見たらおじいちゃんの周りに花咲いてると勘違いするくらいには、ハーレムフィーバーしてた。
実際、俯瞰で見た時におじいちゃんはモテる振る舞いをしてた。常にニコニコしてるし、レディファーストだし。職員さん曰く「女性の方への気遣いが出来はるから、自然と人が集まってきはるんですよ〜」と。誰よりも老人ホーム生活を満喫してるおじいちゃんを見て誇らしかった。
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今思えば、そらモテるよなぁと思う。
戦争も経験してるおじいちゃん。終戦直前、北方領土の択捉島(エトロフ)に配属させられ、ロシア人の捕虜になった。おじいちゃん曰く、生き残るためにロシア語を勉強したらしい。
で、現地のロシア人に気に入られて、うまいこと料理係のポジションについたそうな。そこでバレない範囲で食料をくすねて、日本人の仲間に配ってたらしい。
で、帰還後、呉服の会社を興した。令和の現在、孫の私が働けるくらいには事業も続いている。仕事で職人さんにおじいちゃんの話を聞くと、みんな口を揃えて、「人当たりのいい商売人やった」と話してくれる。
うっすらとした記憶の中にある一緒に将棋をしてくれた優しいおじいちゃんも好き。けど、ボケた後や死んだ後に知ったおじいちゃんも好き。
どこ行っても、どんな状況でも愛されキャラやったんやなぁ、知らんとこでいろいろやってたんやなぁ、かっこええなおじいちゃんて思う。
孫として少しでも近づきたい限りである。
・こぼれ話
遺品整理してた時に『快適な老後を送るために今からできること!』みたいな小冊子を見つけた。その最後のページにメモが書き残されていた。たった3行。元気の秘訣3箇条のようなメモだった。
なぜか、最後だけ太字だった。ご丁寧に「!」までついてた。おじいちゃん、知らんとこでいろいろやってたのだろう。死んだ後もおもろい。死んだ後もおもろい人になりたいものである。
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