祖母から貰った約180年前のお金「天保通宝」。激動の歴史の中で生命のリレーのバトンとなった貨幣の魅力
今日は歴史研究家の雲です。
「天保通宝」を所有している経緯
前に記事したことがありますが、私は古銭を子供時代から集めています
小学生の時に古銭を集めていると話をすると、祖母がタンスの中に入っていたと天保通宝をくれました。
今となっては形見の品でもあります。
この貨幣は一度見たら忘れないほどインパクトあるデザインですよね。
旧500円玉はどんなデザインか忘れましたが、コイツは一度見たら忘れません。「ザ!江戸時代のお金」です。
その当時はただの古銭と思っていましたが、成長してからその歴史や価値に興味を持ち、調べ始めました。
しかし、天保通宝は発行された年代によってデザインに微妙な違いがあるため、その年代を見極めるのが非常に難しいことがわかりました。
私自身も、手元のカタログと見比べても正確に年代を特定することができず、その複雑さに驚いています。
裏面に百と彫刻されてます。100文銭という意味です。
ちなみに一両小判とは「天保通宝」40枚で交換出来る程度の価値を持つ銭貨だったそうです。
実は江戸時代通貨価値を現在の価値に換算するのは正確ではありません。
難しいのです。
200年も立っているので世の中の仕組みが変わってます。
物々交換で現在と同価値ものと比べるしかないのです。
米1石=米150Kg=銭1両=銭4000文
100文=米3.75Kg
今年米が相当値上がりしています
ブランド米など米の価格はわかりくにいですが、3000円ぐらいですかね。
では、当時の人気の高級食であるウナギ!
当時 鰻丼=100文
前に私が食べた日本産の鰻丼は1杯3500円だったのでまあまあの価値ですね。
まあ、ざっくりこの天保通宝は3000円としときましょう。
天保通宝は、1835年(天保6年)に幕府によって発行された銅貨です。
江戸時代の経済的混乱を改善するために発行され、大きな額面の銭として使われました。しかし、その後の発行年や生産場所によって、コインのデザインや材質にわずかな変更が加えられました。
この違いを見極めるのは、コレクターや専門家でなければ難しいです。
祖母の家に3000円相当の埋蔵金を使わずに残っていたのは、お金に興味は無かったと思ってました。
今して思えば、小さい頃におばあちゃんの実家の本家は武家でどうのこうの聞いたことありました。
母方の祖母の実家の事なのでよくわかりませんが😭
実は実家がお金持ちだったから一圓銀貨とかゴロゴロしてたのかもしれませんが。
明治以降のお金は発行した年が刻まれていますが、それ以前のお金には年が刻まれていません。
天保通宝というぐらいなので、和暦の天保○○年というのはわかります。
明治以降は、○○時代と和暦名が一致しています。しかし江戸時代と和暦は一致していません。
江戸時代には、和暦がいっぱいあります。
江戸時代以前は、時代というのがある意味テキトーです。
安土桃山時代をひとくくりにしていますが、安土は滋賀県です。
(滋賀の皆さん喜んでください。なんと滋賀県に日本の首都として政治中枢があった時代が存在したのです!首都経験のある貴重な県です)
織田信長が安土城で政務を行ったので安土がついてます。
桃山とは、大坂城ではありません。
京都の伏見城です。
大坂城が豊臣秀吉のイメージですが安土桃山時代です。
豊臣秀吉は関白になって、公家として伏見城で政務を行っていたので桃山時代とつけたそうです。
いつも話が脱線します。
元に戻します。
まず私の愛読書の2024年版の日本貨幣カタログで天保通宝を確認します。
さっき鰻や米で現在の価値を換算しましたがが、現在の天保通宝の販売価格より100文そのもの価値が原価割れしてます😭
天保通宝の銅の含有量はここでは本筋から外れるのですが査定は安すぎやろと思います。
「天保通宝」は、江戸幕府末期の天保6年(1835年)から中期24年(1891年)に使用禁止になるまで流通した銭貨です。
天保通宝といってもデザインの違いがあります
天保通宝の中でも、発行された年や場所によって細かい違いが見られます。
例えば、刻まれている文字の太さや位置、コインの縁の仕上げなどが微妙に異なり、これが素人には簡単に見分けられない原因となってます。
私は、自分が持っている4枚のコインと専門のカタログを何度も見比べてみましたが、正確な発行年を特定することができませんでした。
歴史の中で少しずつ変化を加えられた天保通宝の奥深さに、ますます魅了されるばかりです
なんと24種類もあるのです!
いったいおばあちゃんから貰った天保通宝はこのカタログのどれやねん?😭
おばあちゃんは生まれも育ちも岡山県だったのである程度場所は絞られます。
会津や水戸ではないと思います。
1から4じゃないかと思います
この四角い穴に、紐を通して持ち歩いてたそうです。
とりあえず、3番ぽいとので「弘化2年」(1845年)の貨幣とします。
約180年前の貨幣です。
弘化2年と言えば!
アメリカ船マンハッタン号が漂流民を乗せ「浦賀」に入港し通商を求めた年です。
近世日本の大転換期の明治維新のきっかけになったのは8年後の黒船来航です。
ペリーが蒸気船2隻を含む艦船4隻で浦賀に来たのが1853年です。
一般的には1853年に始めて外国船が開国を迫ったイメージですが、「弘化2年」にアメリカ船マンハッタン号が来てたのです。
ペリーで誰やねん?と言わないように!
日本を幕末の動乱に追い込んだマシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)です。
ペリーは東インド艦隊司令長官です。階級は「代将」です。
まあ、大佐と少将の間らしいです。
ガンダムでいうと、キシリアとシャアの間の階級らしいです。
将官ですから、めちゃめちゃエライ人ですね。
ペリー艦隊は、羽田の沖でワシントンの誕生日を祝うために数100発の空砲を撃ったそうです。
これが誇張されて、外人が攻めてきたとなったそうです。
マジか、教科書に載ってる時代に造られた貨幣か。
この頃作られた貨幣だったんですね。
祖母との思い出と天保通宝
おばあちゃんに天保通宝を託したご母方の先祖様は誰かわかりませんが。
日本史上屈指の激動の時代である明治維新や敗戦を生き抜いた証拠のバトンが子孫の私に渡ってます。
私は収集した貨幣と一緒に、「中学3年の数学期末試験の100点満点の答案」と共に宝箱に入れてます。
「危急存亡の時に備えこれを残す。私は蒼天のような男と呼ばれた先祖である」と恩着せがましく張り紙しておきます。
これらのコインを手にするたび、祖母との思い出がよみがえります。
当時でも近所でダントツに古い家でした。築100年以上でトイレもくみ取り式で、五右衛門風呂でした。
幼少期は木を燃やして風呂を焚きました。
おばあちゃんが「大事にしんちゃいね」と言ってくれた天保通宝は、単なる古銭以上の存在であり、私の中で歴史と家族のつながりを象徴しています。
結論
先に記載したとおり3番ぽいので「弘化2年」(1845年)の貨幣とします。
時代によって異なる細かいデザインの違いは確定には至ってませんが、これからもその歴史を学び続けたいと思っています。
天保通宝は、経済的な背景や時代ごとの変化を反映する、非常に複雑で奥深い貨幣でした。
発行年を正確に特定するのは専門家でも難しい場合がありますが、それこそがこのコインの魅力でもあります。
自分の保有する古銭の謎を解き明かす過程も、歴史に触れる楽しみの一部です。
小さい頃は祖父母の家には100年前のお茶碗やら湯吞が普通にありました。
ほとんどの所有物は他界して家を取り壊しの時に回収業者にお願いして処分しました。
今となっては、100年以上前の物品は魅力ある古銭だけです。
まあ、俗な話ですが時代を超えるバトンになり得るのはこういう物だけかもしれませんね😭
というわけで、こういう歴史を調べて楽しかったということで今回のお話を締めさせて頂きます。
この長い文章を最後まで読んで頂きありがとうございました。