エグルストンといえばアンチ・クライマックス、コンポラのハシりとされますが、少し違うのではないか。 人が死ぬ間際、思い返すのは日常の中の「決定的瞬間」ではないでしょうか。 ニューカラー派のイメージは、主観的・個人史的なクライマックスであり、「走馬灯」なのです。
デジタルカメラは情報テクノロジーの結晶ですが、現代情報理論は通信技術と一体です。 つまり「いかにノイズを減らすか」が焦点になる。 現代カメラは映りすぎる、よって写真の「マジック」が消えてしまうのは必然です。 ならばどういったノイズを選択するのか?そもそもその必要があるのだろうか?
15年前、サンディエゴで乗り換えたメキシコ行きの飛行機で隣合ったのが、アメリカ人のフォトグラファーでした。 彼が見せてくれたiPodには、4万曲が入っていた。 「写真が上手くなりたいなら、写真以外のことを勉強しろ。全て繋がっているんだ」 彼の言葉は座右の銘です。
20代の頃、某フォトコンの作品展に行きました。 驚いたのは、撮影者の年代別で大体のテーマが偏っていること。 若い人ほど祖父母や老人を、年配者ほど自然を撮っている。 自分も当時、祖母や父の実家を撮っていました。 題材も無意識が選んでいる。 そこからはみ出すにはどうすべきなのか。
現在のストリートスナップはアメリカン・ニューカラー派のいわば末路ですが、その根底にはホッパーやワイエスのリアリズムがあります。 この2人を写真で統合したのがショアでしょう。 近代人の不安や、間延びして退廃した消費社会のやるせなさ、孤独。 三島由紀夫が憂えた世界かもしれません。
もはや現代人の基礎教養ではないでしょうか。 https://www.amazon.co.jp/%E6%8C%91%E7%99%BA%E3%81%99%E3%82%8B%E5%86%99%E7%9C%9F%E5%8F%B2-%E9%87%91%E6%9D%91-%E4%BF%AE/dp/4582231276#customerReviews
「日本的なもの」を突き詰めると「書」に行き着きます。 石川九楊氏ほど書と歴史、精神文化を哲学されている方はいないでしょう。 その作品はもはやどのジャンルにも当てはまらない。 中平卓馬の父も書家だった。 日本の写真も書的であればこそ、独自性・特異性が出るのではないか。
私は20代前半で某フォトコンに入選しましたが、それ以後、どうすれば審査員など他者にウケるかばかり考えるようになりました。 やがて他者ウケを捨てました。 それからは表現ではなく「排泄」になりました。 「表現」はあくまでコミュニケーションですから。 私の場合は「排泄写真」です。