僕の読書術・岩田慶治の「花の宇宙誌」を再読する/一日一微発見482
先日、東京国立近代美術館に「ハニワと土偶の近代」を見に行った時に、駆け足だったが3階の日本画の部屋や写真セクションを見た。
思いがけない写真に出会い、展示してあった雑誌のインタビューを読んだ。そこにはこうあった。
「物が、人が、在るがままに立ち上る瞬間がある」
写真家は自からが「見たままを写真」に写したいのだと語っていた。しかし、とりわけそのコトバに感動したり、感応したわけではないのだが、写真を撮るという行為やその哲学的な深さについて、思想家や文化人類学者はあまり踏みこんで語らないのだなと思ったのである。
ミシェル・セールもブリュノ・ラトゥールも、グレアム・ハーマンだって「 写真論」はない。千葉雅也さんは、TOKYO FRONTLINE PHOTO AWARDの審査員をもう長くお願いしているが、彼の言う「非意味的切断のエステティック」や、「浅さに関しての深いこだわり」という姿勢が僕はとても好きだし、「写真的」だなと思うのである。彼のようなセンスの哲学者や思想家は珍しいだろう。
ヴィレム・フルッサーは『写真の哲学のために』という、具体的な写真家も作品も一切出てこない「現代写真論」、いや思考実験の書を綴った。
しかし、そこには時代的にもポスト ポスト構造主義的な知見も、そしてAIテクノロジーも入りこんではいないから、フルッサーもアップデートされなくてはならないに違いない。
写真の話からずい分ワープするように思うかもしれないが、文化人類学の「参与観察」というフィールドワークの技法は、モノと個の関係をどうとらえるかということで、最近になってティム・インゴルドへの注目もあいまって、改めて問題意識が高まっている。
ミッシェル・セールと仏教の研究者である清水高志が人類学者の奥野克巳と著した『今日のアニミズム』は刺激的な本で、岩田慶治の再評価(正しい評価)を行っている。
他にも、インゴルドが説くことをすでに岩田さんが独自にやっていたことに驚く人も多くいるのかもしれない。加えて、岩田さんが道元を深く理解し、かつ京大での学生時代に西田幾太郎や鈴木大拙の授業をうけ「京都学派」につらなることも岩田再評価の要因だろう。
今テーブルの上に岩田慶治が90年代の頭に出した『花の宇宙誌』と『道元の宇宙』の2冊の本があり、夜中に目がさめた時に少しづつ読んでいる。
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