僕にとっての写真は

十勝の田舎町で暮らしている。僕はきのこ農家だ。収穫は毎日。故に休みの日は無いのである。収穫が毎日ということは、きのこを発生させるための操作も毎日ある。日々の暮らしのルーチンワークはそれだった。

とはいえ、空き時間はある。そこに季節的な作業を組み込む。春は植菌、夏は伏せ込みと天地返し。秋は間伐と冬支度があり、冬は薪を焚べたり、除雪に追われる。

年間を通して栽培ハウスから離れることはできないが、それでも時間の余裕は少なからずある。僕は写真が好きだ。この暮らしを選んだ理由のひとつでもある。だが、最近は景色を撮らなくなった。十勝の大自然がそこにあるにも関わらず。それは毎日きのこを撮れるからである。

僕は『僕の思う最高の1枚』を目指している。それへと近づくために十勝の絶景は必須ではない。被写体は"きのこ"で充分だ。量をこなせば質は上がる。それが分かった。故に最近は"きのこ"ばかりを撮っているというわけだ。

探求とトレーニングを兼ね揃えた毎日の”きのこ撮影”だが、共感はおろか理解もされない。でも、それでいいと思っている。そのために撮り続けているわけではないからだ。

そもそも、僕の興味関心ごとに合わせてくれる人はあまりいない。美しさの理由が気になる。それも『なぜ美しいのか?』よりも『なぜに美しいと感じるのか?』の方に興味がある。それは写真に限ったことではない。前職で関わっていた実験動物に関してもそうだった。『なにが正しいのか?』よりも『なぜに正しさを主張するのか?』に興味があった。

子供の頃からそうだった。あれは中学2年生の頃。『理科ってなんですか?』。そう先生に問いかけたのは僕の友人。廊下での雑談の中、答える先生の言葉は『ゼロに戻ろうとすること』だった。衝撃だった。たしかにそうだ。おそらく『熱力学の第二法則』の話だったと思うのだけれども、その理が存在する理由が分からず、この世界を不思議に思った。なぜその理と世界は存在しているのだろうと。不思議というか気持ち悪さを覚えたことを記憶している。

あの頃の気持ち悪さと、前職の『なぜに正しさを主張するのか?』は、確実に僕の写真の『なぜに美しいと感じるのか?』に乗っている。その科学的な考察による仮説が僕の写真と言ってもいいだろう。『世界は人が絶望するほどシンプルで美しい』とはそういうことだ。

本当はこんな話を誰かとしてみたい。だが怖くもある。『世界は不思議』。そんな話をすれば、非科学的な人を呼んでしまうからだ。そんな人との話も嫌いではないのだが、僕が話したり聞いたりしたいのは科学的な面からの考察。けれども、そんな話をしてくれる人に出会ったことはない。故に僕は黙っている。『話』として昇華もしない。ますます人に伝えられないというわけだ。

自分の写真を説明する。それは写真を誰かに伝える上で必須なこと。そう教えてくれたのはギャラリーのオーナーさんだった。僕は作家活動の”いろは”が分からないので教えてもらいたく、町のギャラリーを訪れたのだった。

入口で躓いてしまった。僕が毎日きのこを撮る理由。それを人前で説明する術を僕は持ち合わせてはいなかった。それを積極的に外へ出したことはない。ブログで何度も伝える挑戦はしたが、いつも反応は何もなかった。さっぱり伝わってはいないのだろう。非科学的な人と思われることも恐れていた。それが更に”伝わらなさ”を増幅させていたと思う。

僕は変に真面目なのだろう。「自然の神秘」や「きのこの魅力に取りつかれて」とか、なんなら「とにかく好きなんです」でよかったと思う。きっと「この世界は人が絶望するほどシンプルで美しい」なんて理屈は誰も求めてはいない。けれどもそこでは嘘がつけなかった。

僕にとっての写真とは何だろう。それは娯楽だと思っている。誰かに向かって何かを表現したいわけではない。考察を深めて、仮説を証明しているだけだ。その一連の流れが楽しい。『僕の思う最高の1枚』を目指しているとはそういうことだ。

とはいえ、人に伝えることは諦めてはいない。そのうちなんとかなるだろう。クリアはしたいのだ。そのときのメリットも大きい。とにかくできることをしよう。そう決めた。僕の写真は止まらないのである。

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