AI画像とフィルム写真

「次はこれか」。そう思った。正直に言うと慣れている。次が来ても変わらないことを知っているからだ。もちろん、はじめは焦った。けれども変わらなかったのである。

あれはサラリーマン時代、2ヶ所目の事業所。オーナー会社へ出向してたときのことだ。はじめてのホワイトカラー業務。任される仕事は多岐にわたった。そのうちのひとつに写真管理があった。記録用の撮影から報告書への掲載まで。それらを任されていたのである。

時代的にカメラの選択肢は無かった。フィルム一択。まだ写真に興味が生まれる前だったから、機種もよく覚えてはいない。たしか『Nicon』の文字が見えてたと思う。それぐらいの認識であった。けれども楽しかった。設定はオートだが、他は手作業。シャターを切った後の巻き上げも手動だ。やたらと撮影スピードに拘っていた。急ぐ必要も無いのにである。それが楽しかった。

それはデジタルカメラ創成期のこと。数十万画素のコンパクト機が高値だった頃の話だ。まだまだ一般には普及していないく、新しいもの好きの間で話題になっていたくらいだ。だが、企業の記録用としては優秀に思えた。僕の職場にも降りてきたのである。

仕事で使うには準備が必要だった。標準操作手順書を作る必要がある。その仕事は僕のものになった。おかげで早々にデジタルカメラに触れることができた。未知のガジェットは楽しい。とても便利だ。おそらく撮影の仕事も捗るだろう。面倒な手続きも無くなった。

けれども、同時に詰まらなさも覚えた。便利とは、そういうことだった。面倒と一緒に消えた楽しさ。そんなことがあったからか、趣味でフイルム写真をはじめたのは、その数年後のことである。

最初は焦った。僕の撮ったフィルム写真は酷すぎたのである。この頃になるとデジタルカメラも一般に普及しはじめていた。僕も所属していた草野球部の記録用に持っていた。そのデジタルカメラで撮った写真と比べると、僕のフイルム写真は酷かったというわけだ。

とはいえ、しばらくして初心者の酷さは克服できた。ISO100のポジフイルムを使うこと、被写体をちゃんと選ぶこと、構図をしっかりと作ること。これらをもって乗り越えた。のっぺりとしながらも、強いシャープネスの掛かったデジタル写真に近づいたのである。

今に思えば、良くも悪くも時代のトレンドに流されていた。僕の"焦り"は流行に乗れてないことに由来していたと思う。結果的にいい方向に進めたが、原動力としては頂けないものであった。自分が無かったと思う。だが、その流れもしばらくは続いた。

すこし経ってPENTAX67をメインカメラに迎え入れた。その頃になるとデジタル一眼も普及。CANONの『EOS 5D Mark II』が発売された頃だった。それまでは利便性やコスパを主張することが多かったデジタルカメラだが、このカメラが出てからは写りの良さをアピールしてきたと記憶している。おそらくフイルムを超えた瞬間だったのだろう。

僕は懲りずに流行りを追っていた。彩度は少し高めのイメージカラー。奇しくも僕が使っていたフイルムはベルビア。超高彩度でシャープネスも強い。だが、フイルムスキャン時に彩度は下げていた。なんとなくそっちの方が好きだったからだ。けれども、流行りに沿って彩度を上げてみたのである。

最初はいい選択に思えた。過去のお気に入り写真もすべて再編集した。けれども、時間と共にその感覚は消えていった。むしろマイナスとも感じるようにもなった。すぐに僕はすべてを以前のものに戻した。フイルムも自然色のプロビアに変えてみた。すると、前にも増して自分の写真を好きになれたのである。

それ以降、流行りを追うことは無くなった。レタッチ、HDR、マルチWB。情報を得て、試してみたり部分的に取り入れてみたりもしたが、焦ったり自分を見失うようなことは無くなった。流行りに乗らなくても写真を続けられることを知ったからだ。

おそらく、プロは大変なのだろう。承認欲求を満たすために取り組んでいる者も然りだ。流行りに乗り続けることが半ば義務付けられている。けれども、すべてのクリエイターがそうではない。むしろ、そうではない僕らが多数派であろう。

上を目指すためには流行りを知ることも大切だ。だが、知ることと乗ることは違う。自分を捨ててまで流行りに乗る必要はない。乗れたとて上がれたわけではないからだ。

故に、AI画像が世に出てきても、「次はこれか」という想いが生まれたわけだ。きっとトレンドにはなるだろう。時代の強い変化だと思う。困る人や心配になる人も多くいるとも思う。けれども、おそらく僕の写真に対するそれは変わらない。変わらずに続けられるだろう。

もちろん触れてみた。おもしろかったし凄かった。可能性もあるし何かが大きく変わる予感もした。だが、僕が写真から離れる理由はどこにもないのである。

「偽物みたいで凄くきれい」。夏に出店していたイベントでお客さんにそう言われた。なんだか嬉しかった。たしかに僕の"きのこ写真"は偽物っぽい。AIの生成画像っぽい気がする。心当たりはあった。生成過程がにているのだ。

毎日写真を撮っている。十勝に来てからの写真は1万枚を軽く超えた。筋トレのようなものだ。トレーニングだとも思っている。故に義務的に撮った日もあった。そこで得られたものは『構図の精度』だと思う。3分割では足りない。とはいえ9分割や81分割を得たわけでもない。グラデーションのようなものと気づいた。0-100ではないのである。

そんな構図はAI生成画像と似ていた。あれも構図がピシッとしている。大量の画像から、被写体と一緒に構図もその平均を出力したものなのだろう。その点ではお手本になった。量が必要となる獲得方法も正解だったのかもしれない。

もちろん、その他の要因もあっただろう。絞りを全開放させた大口径レンズで撮った。マット紙に印刷してむき出しで展示した。それらも「偽物みたいで凄くきれい」の要因だったと思う。けれども、AIによる再生画像における構図の酷似も、その要因のひとつだったであろう。

つまりは、僕は写真をやっているが、AIを脅威に感じたことは微塵もない。むしろ僕を上げてくれる存在だと思っている。きっとこれからもだ。そして、その次に来る存在もそうなるだろう。そもそも、僕らが作り続けているものは、作品ではなく、作品を創り上げられる力だ。世に素晴らしい作品が溢れても関係ない。僕らの写真は止まらないのである。



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