なぜ写真界隈でマウントの取り合いが起きるのか?
𝕏 や Threads の写真界隈の投稿を見ていると、ある言動が頻繁に問題視されている。それはマウンティング(マウントを取ること)である。
今日の note では、なぜ写真界隈でマウントの取り合いが起きてしまうのかを、社会学の名著を頼りにしながら考察していきたい。考察を踏まえて「僕たちはどうマウンティングに向き合えばいいか」も検討しようと思う。
1. 写真界隈におけるマウンティング
写真界隈におけるマウンティングの例として、一番最初に思い出されるのは機材マウントだろう。
機材マウントとは、「高額・高性能な撮影機材を使っている人物が、より廉価な撮影機材を使っている人物に対して上から目線の発言をすること」である。例えば、エントリーモデルのカメラを持って撮影スポットに出かけたカメラ初心者が、その場にいた別の撮影者から「そんな安い機材じゃ、いい写真は撮れないよ」みたいなことを言われる。これが機材マウントだ。ちなみに、機材マウントは実社会に限った現象ではなく、SNS上でも「機材マウント」と思しき投稿はある。
この機材マウントに対して、「写真は感性や技術で撮るものだから、高級な機材なんて不要。機材にこだわる人は単なる機材厨(機材オタク)だ」という発言も見られる。こうした発言も、高額な撮影機材を所有する人を下に見ているという点で一種のマウンティングである(ここでは便宜的に「逆機材マウント」と呼ぼう)。
このほかにも、「趣味はカメラなのか?写真なのか?」というような発言もある。この言葉自体は攻撃的に聞こえないかもしれないが、実際には「カメラ趣味の人は手段が目的になっている」と「カメラ趣味」を見下す意図で使われることが多い。つまり「写真趣味はカメラ趣味より優れている」ということを暗に主張しており、一種のマウンティングである(上で紹介した逆機材マウントの亜種とも言える)。
このように、SNSの写真界隈には色々な形のマウンティングが存在している。なぜ異なる立場の人たちが仲良くできないのだろうか?
2. 趣味におけるマウンティングを考察した本
趣味におけるマウンティングについては、既に世界的な有名な研究がある。
これがその本である。
フランスの社会学者・哲学者のピエール・ブルデュー(Pierre Bourdieu)が著した『ディスタンクシオン』(La distinction)である。
以下では、この『ディスタンクシオン』の考え方に沿って、なぜ写真界隈でマウントの取り合いが起きてしまうのかを考察したい。ここでは議論を簡潔にするために、ブルデューの主張をかなり大雑把に引用する。正確なニュアンスや論理に興味を持たれた方は、記事の最後に載せた参考資料をご覧いただきたい。
3. 趣味・趣向にはその人の人生が表れている
突然だが、あなたは自分の趣味をどのように選んだだろうか?
直感的には、僕たちは自分の好き勝手に趣味を選んでいるように思える。しかし、ブルデューの考え方は違う。ブルデューは、ある人の趣味(hobby)や趣向(taste)は、その人が生まれ育った環境(例えば家庭や学校)の影響を強く受ける、と考える。一見すると突飛な考え方にも思えるが、「小さい頃からクラシック音楽を聴く習慣がなかったから、どの曲がバッハでどの曲がベートーヴェンか分からない」とか「親が本を読まないので、読書週間が身に付かなかった」みたいなことを考えれば、割と納得いく主張ではないだろうか。近年「子どもの体験格差」が問題視されていることからも、生まれ育った環境の影響の強さが伺われる。
ブルデューは、大規模に実施した聞き取り調査の結果をもとに「こういう属性の人はこういうものを好む」という大まかな傾向を図解している(下図)。
ここで出てくる「経済資本」とは「金銭的な資産の多さ」を指し、「文化資本」とは「知識・教養・技術などの形の無い資産や絵画などの文化財資産などの合計」を指す。図中で、上に行くほど総資本量(経済資本+文化資本)が多く、右に行くほど総資本に占める経済資本の割合が多い。
この図によれば、例えば「経済資本中心に総資本が多い人」(成金)はオークションで家具を買ったり、ホテルでバカンスしたりすることを好みがちである。逆に「文化資本中心に総資本が多い人」(インテリ)にはフリーマーケットに参加したり、セーヌ川左岸の画廊に足を運んだりする人が多いらしい。
(もちろん、これは「調査データ上、そういう傾向がみられた」という話なので、ホテルでバカンスするのが好きなインテリ人がいることを否定するわけではない。また、ここではブルデューの図例に沿って「経済資本 vs 文化資本」の対立に注目したが、もちろん別の要因を軸として設定することもできる。)
4. 人々は無自覚に卓越化を図る
先ほどの図は、人々の趣味・趣向を「経済資本」と「文化資本」という2つの要素で分類しただけであり、特定のポジション(例えばインテリ)が良い/悪いと価値判断するものではないことに注意してほしい。ブルデューは、例えば「絵画鑑賞は客観的に他の趣味よりも優れている」というような本質主義を否定している。
むしろブルデューは、「絵画鑑賞は他の趣味より優れている」というような発言は、自分が属しているポジションを持ち上げるためのポジショントークだ、と考える。つまり、僕たちは自分自身の知覚・行動様式やポジションの価値を上げるために、趣味を通じて価値観の押し付け合いゲームをしている、というのがブルデューの主張だ。書名にもなっている「ディスタンクシオン」とは、この「自身のポジションの価値を高める行動」を指す。日本語では「卓越化」と訳されている。
「あなたたちは趣味を通じて卓越化を図っている」と言われると、なかなか実感が持てないだろうし、「そんなつもりは全くない」と反論したくなる。しかし、次のような例を考えてみたらどうだろうか。自分が好きな映画がボロクソにレビューされているのを見つけたとしよう。自分はその映画の関係者ではないし、酷いレビューによって実害を被ることはない。「色んな感想があっていい」と受け流すことも可能だ。それでも、自分が好きな映画が酷評されていたらショックを受けるだろう。仮にその映画が人生で最も思い入れがある映画だったとしたら、まるで人格攻撃をされたような気持ちになるかもしれない。
なぜ僕たちは、自分自身の「好き」を否定されるのを嫌がるのだろうか。上で述べたように、僕たちの趣味・趣向には自分自身の人生が表れているからだ。すなわち、自分の好きな映画が否定されるというのは、単にその1作品が否定されたという事実以上の意味を持つ。自分の好きな映画を否定した人物は、自分と好みが合わない以上、自分が好きな本や食べ物なども否定してくる可能性がある。そうなると、自分の趣味・趣向に影響を与えたこれまでの人生全てを否定されることに繋がりかねない。
そう考えれば「趣味を通じて卓越化を図っている」というのも奇抜な発想だとは言い切れないのではないか。僕たちは趣味を通じて自分自身の存在の正当性を守り高めようとしているのである。
5. 僕たちはマウンティングにどう向き合えば良いか
ここまでの議論で分かるように、写真界隈におけるマウントの取り合いは、ブルデューが提示した「卓越化」の現れだと解釈することができる。
では僕たちはマウンティングに対して、どのように向き合えば良いだろうか。
ブルデューの見方を信じるのであれば、「マウントはとらないようにしよう」とか「みんな仲良くしよう」と呼びかけるのは見当違いだ。「マウントを取る(卓越化を図る)」という行動は、人間社会の構造的な問題であり、一朝一夕の意識改革でどうにかなるレベルの話ではない。
では、どうすればいいか。僕なりの答えはこうだ。「僕らはマウントをとってしまうものだ」という不幸な現実を意識した上で、不毛なマウント取り合戦に発展しないようにSNSの運用を気を付ける、というものだ。より具体的に意識していることは2つ。① 過度に一般化した議論を無視すること、② 達観することだ。
① 過度に一般化した議論を無視する
例えば「安いカメラじゃダメだ」という機材マウントを見かけたとしよう。『ディスタンクシオン』の議論を踏まえれば、「腕があれば機材は関係ない」と真っ正面に反論するのが効果的ではないことは明らかだろう。そういう反論も卓越化(マウンティング)でしかないからである。
もちろん異なる考え方を持つ人同士が議論して有益な場合もある。しかし、それは議論の前提となる条件・仮定がしっかり共有されており、お互いが建設的に議論をしようとしている時だけである。こうした良質な議論の条件が整っていない場合には、ポジショントークのぶつけ合いになり、結局お互いに疲弊するだけだ。
写真趣味とカメラ趣味の間に貴賤はないし、撮影時にどんな機材・設定・手法で撮るかは前提条件次第だ。このあたりを無視して一般化した投稿(「カメラじゃなくて写真を語るべきだ」や「エントリー機じゃ良い写真は撮れない」、「ISOオートは使うべきではない」など)は、卓越化のためのポジショントークとみなして、無視してしまっていいだろう。
② 達観する
そうは言っても、SNS上のマウンティングが目に入ってしまうこともあるし、自分自身が急にマウンティングを仕掛けられることもある。
そんな時は「ああ、この人は頑張って卓越化してるんだな」と達観してしまおう。そう思えば「なんかムカつくことを言ってくる人」も「自己の存在の正当性に自信が持てない人」に見えてきて、なんだか可哀想にすら思えてくる。そうして達観した上で、投稿を無視したり適当に受け流してしまえば良い。
(参考)『ディスタンクシオン』に興味を持たれた方に
ここまで、プルデューの考え方を踏まえて「なぜ写真界隈でマウンティングが横行するのか」を考察してきた。
プルデューの主張を大雑把に引用してしまったため、『ディスタンクシオン』の細かな論理展開や用語のニュアンスまでは伝えることができなかった。プルデューの主張の骨子を捻じ曲げるよなことはしていないつもりだが、過剰に単純化してしまった可能性はある。この note で『ディスタンクシオン』に興味を持たれた方は、ぜひ原著に当たっていただきたい。
…と言いたいところだが、『ディスタンクシオン』は非常に難解な本である。ボリュームも非常に多い。ブルデュー自身が「必要以上に難しく書いた」と認めているほどで、フランス人ですら読み解くのが困難とも言われる。ましてや、僕たちは日本語訳で読むことになる。日本語訳の原著を買っても、数ページで挫折することは火を見るよりも明らかだ。
そこで、まずは入門書から入ることをオススメしたい。最もお手軽に読めるのは『ブルデュー:ディスタンクシオン』(岸 政彦、NHK出版)だと思う。「100分de名著」シリーズなので非常にコンパクトにまとまっている。
原著の日本語訳者である石井洋次郎先生の『ブルデュー「ディスタンクシオン」講義』(藤原書店)も初学者向けである。「100分de名著」よりボリュームはあるが、その分丁寧に論旨を追うことができる。「大学の一般教養の講義で『ディスタンクシオン』を取り扱ったら、こんな感じになるだろうな」という雰囲気の一冊だ。
『ディスタンクシオン』を解説した YouTube 動画もある。専門家が書いた本より厳密性は落ちると思うが、気軽に内容を学べる。
例えば、「ゆる哲学ラジオ」は、東京学芸大学時代に哲学を専攻していた平田トキヒロさんが哲学素人のよしのぶさんに、哲学や社会学などを語る番組だ。会話調のラジオ形式で進むので聞きやすい。『ディスタンクシオン』を取り上げた以下の回では、「なぜブルデューは「趣味」を分析しようと思ったのか」という点から説明してくれており、哲学・社会学に馴染みがなくても聞きやすい。
ちなみに、導入部分は前回(#63)の伏線を回収したものなので、この回単体で聴くと文脈が分かりづらい。手っ取り早く本題を聞きたい方は 4:05〜 聴くと良いと思う。