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エモさ≒あなたのことであること
・前書き
写真を撮るずっと前から考えていることがひとつあって、それは「エモい」という言葉に換言されているものの細部が掴みきれないな、ということなのですが、
もちろんこれは言葉の使いやすさにも通じることなので、実際には言葉を意味づけてしまうほど野暮な話であったり意味のない話になってくるのではないか、とも思うので今回の「エモい」論もまた私論であると捉えてください。
・本文
「エモい」という言葉は色んなシチュエーションで使われる言葉ではあります。音楽を聴いてエモいと感じたり、映画やドラマ・アニメや小説なんかの物語創作を観てエモいと感じたり、ふだんより赤い夕暮れを見てエモいと感じたり、手を繋いで歩く買い物帰りの親子とか、ときにはほんとうになにげない木漏れ日ひとつ、でもそういうものでも「エモい」のスイッチが入ることはあります。
「エモい」という言葉の起源は「感情的である」という「エモーショナル」から来ているという話もありますが、言葉の流行の起源としては音楽流行のほうの「エモ(エモーショナル・ハードコアなど)」の辺縁であるという説も結構強いとか聞きます。
いちいち起源とかまで遡るのには理由があって、最初に「どういうものをそう呼んだか」というものに言葉の意味する根っこがあるんじゃないかということですね。
音楽をあまり聴かないかたが読まれることもあると思うので説明しておくと、「エモ(Emo)、エモーショナル・ハードコア」あたりは1990年代後半から2000年代前半頃主にUSロックシーンから入ってきた音楽流行のひとつで、メロコアやポップ・パンクだったりパワー・ポップはたまたグランジなんかの影響も受けたりしながら、パンキッシュなスタイルと叙情的なメロディー、抑制の効いたメロに、一気に派手なディストーションが入ってヴォーカルもシャウトっぽくなったりする音楽ジャンルのこと(あくまで大雑把に言うと)です。
日本で言えばELLEGARDENの「Space Sonic」、
洋楽で言えばJimmy Eat Worldやもっと遡るとThe Get Up Kidsやアルバム『Pinkerton』期のWeezerなんかもその枠内に入る気はするんですが、まあ音楽業界あるあるというか、適当な括りつけて流行らそうとしていたラベリングなので、この辺厳密さを求めるのはめんどうです。
要は、「私事」程度の話をなんかやたらセンチメタリズムマシマシでなんか派手目に歌ったロックバンド、くらいに捉えてくれれば大丈夫です。(マジで悪意はありません。エモコア含めてエモ大好きっ子です)
90年代から2000年代のUSUK含めた海外の音楽流行ってのは割と絶妙で、内省的な人間はとことん暗いほうに自己表現を求めていったり、それぞれの自分の出自からポリティカルな考えを持って歌ってるひとたちは、攻撃的でエッジの効いた音や、逆に大人ぶったというか知的(スノビズムかも知れない)な壮大さをもって音楽表現していったりしていました。
意外と空白になっていたのが大衆に届く「パーソナルな音楽」であり、このあたりは日本でも意外と類似した空白が存在していました。
ダンスグループの流行、ロックではB'zなんかのスタジアム・ロック型だったり、ビジュアル系のひとたち(というと怒られますが)はなんか世界観を歌ってるもののその中身はそれぞれが比較的抽象表現を用いていて意外と捉えづらかったり、みたいなところがありました。
転換点は意外と2000年代を目前にしたフォーク・デュオとしての「ゆず」のブレイクなんかが、音楽の「私事」への回帰なんじゃないかなあと思う次第です。
そっから小っ恥ずかしいくらいに自分のことを歌うミュージシャンというのはきちんとメジャーシーンで評価されていくことになります。
「私事」というのは、ひとの心を揺さぶった瞬間に「あなたのこと」と共振します。
些細な失恋のセンチメンタリズム、夏が来たことをやたらと解像度高く喜んでみたり、些細な感動を伝えるために一生懸命である、というストレートさは(そういう活動をしていたグループはいたとしても、大衆に届くレベルで発せられたのは)ちょうど間隙にあった気はします。
斉藤和義とか居たりしたやろ、とかピロウズなんかの話も言われるかも知れないんですが、どこかでカウンターカルチャー気味な受容をされていた気がするんですよね。
エモい音楽としてあの時代に久しぶりに大衆受容されたのは「ゆず」がやっぱり象徴的だったかなあ、と。
まあ、音楽談義はそこまでにして「私事」というものの伝えかたは、「写真表現」において割と行いやすい媒体であると思います。
自分の思い出のアルバムを見たときに、少なくともその体験を共有してる身近な人物であれば、その時の色んな感情や思い出が解像度高くよみがえったりするものです。
たとえ、それが誰かの子どもの成長記録であったりしても、そのパーソナリティに僅かにでも触れていたら、見るひとにもよりますが色んな感情が浮かんでくると思います。
その時に私事と他人事は、共感や共振という接続詞をもって感情を伝える心の言葉につながっていきます。
これを自分は写真なりの「エモい」の根っこなんじゃないかなと思うわけです。
それは日常的な表現をそのまま伝えて通じる相手というのもいるのかも知れないのですが、現実問題「表現媒体」として発表する場合において話は変わってきます。
共振のない「私事」はいつまで経っても基本的には「私事」です。
大衆に伝えるポピュラリティが、音楽の場合は作曲技術だったりすることもあるのでしょうが、
写真における「エモさ」はもっとこう技術的な部分ではない気はします。
自分が知っていること、見たことあるものの見方のズレであったり、
たとえば、「毎日通勤のときに見ているビルのガラスであっても、ふとある日、目を留めたらそこにクジラのような形をした雲が浮かんでいた」みたいな些細な瞬間の些細な感動を収めても、
たとえ見るひとが同じ場所を歩いたことがなかったとしても「どこか似たような経験」を通じて共感し、それが写真として感情を揺さぶるような「エモさ」になっていく気はします。
この辺は若干すっ飛ばして良いのですが、川内倫子さんが受容された、佐内正史さんが受容された、HIROMIXが受容された時代背景には似たような共振がそれぞれの世代であったんじゃないかなあ、と写真文化を後追いで知った世代ながら思うところではあります。
無論、それは作家ごとにアプローチの違う形なのですがそれぞれの世代のリアルであったり視点としての「私事」を捉える目の鋭さや、社会的な意味の乗せ方(この辺は自覚的なひともそうでないひともいるとは思います)なんかもあります。
閑話休題、「エモい」といものは「私事の伝え方に対する共感性」というものが大きく絡んでくると思います。
それを内的表現としてやっていくことで、自分の側に引っ張り込める作家もいれば、一方で「伝わりやすく誇張した派手な表現」として自分の側に引っ張り込むのもまた表現だとは思います。
新海誠監督作品で描かれるような夕陽や、オールドレンズを使ったような独特の表現がエモいという向きもあるでしょうし、もうちょっとパーソナルな表現が刺さってくるひともいます。
ちゃぶ台をひっくり返すようですが、それぞれの体験や未体験、感動のスイッチはなんだかんだで他人が制御できるものではありません。
では、写真でできることはなにかといえば、いろんなアプローチはありますが、まずは「自分が感動できること」を大事にする。
それだけで瞬発的にシャッターを切れる人間がカメラを使いたがるものです。
それから一歩踏み込んで、自分がどこに感動したかをもう一度見直して、より感動した部分を選択的に選んでシャッターを何度も切り直す。
その結果、最初の写真とどちらが自分にとって感情を揺さぶる写真になったかについては感覚にお任せするとして、感動を捉える努力というのは「自分に感動の細部を伝える作業であり」、一方でまたその一生懸命さが「他の誰かが見たとき、あなたの『私事』を誰かの『エモい』に繋げる選択肢」を与える作業になるはずです。
それはきっと行動としては簡単かもしれないけれども、きっと多くの「私事」はスルーされることだと思います。
やり続けて成功する失敗する、というのは別に考えなくてもいいのです。
「あなたのこと」が「あなたの感動」に輪郭を変えた時点で、あなたの『私事』は表現の土台に乗ると思います。その一歩こそが表現としては大事なことだと思うので。
まあ、そんな小難しく物事を考えなくていいんですけどね。
なにはともあれ、レッツエンジョイカメラライフ、なので!
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