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演出された、そのキスって本当にロマンチック? | ドアノーの愛したパリ「何必館」
かなり今さらではあるが、なぜかロベール・ドアノーの写真展に行ってきた。最近、モダニズム期の写真を見ることは、そういう感覚と距離感である。
「パリ庁舎前のキス」を見ると、確かにロマンチックな雰囲気だなぁ、と改めて感じる一方で、「この内容でこのチケット代?」と思ってしまう自分もいた。ロベール・ドアノーの写真集なら、古本屋を探せば2000~3000円程度で見つかる気もするし、額に飾られた写真をわざわざ展示で見ることの意味や価値ってどこにあるのか、悲しいけどそんなことを考えてしまった。意味を問うとキリがないのかもしれないけれど。
(昔、執筆した関連記事)
写真に潜む「真実」の幻想
ロベール・ドアノーの写真展を見たとき、美しい写真を純粋に楽しめなくなっている自分に少し悲しさを感じたが、同時に「写真の正体」に気づき始める喜びと絶望も湧き上がってきた。写真が表現する「真実」とは一体何なのかという問いに気づいたからである。アンリ・カール・ブレッソンが語った「決定的瞬間」という概念に疑問を投げかけ、写真に潜む「真実」の幻想の正体に辿り着くためには、まずヴァージニア・ウルフ、スーザン・ソンタグ、ジュディス・バトラーといった思想家たちが写真についてどのように思索を展開してきたかを考察することが必要である。
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写真は「ありのまま」を写している?ウルフの視点
ヴァージニア・ウルフは『三ギニー』の中で、スペイン市民戦争の戦場を写した写真に触れている。彼女はこれらの写真が「事実をそのまま提示し、視覚に訴える」ものであり、視覚が「あなた」と「わたし」の間に「融合」をもたらすことに着目している。この戦争写真を通じて「おぞましく厭わしい」と感じさせることで、写真は事実をそのまま提示し、戦争の野蛮さを強く認識させると述べている。
写真はプロパガンダを生む、ソンタグの視点
一方、スーザン・ソンタグは『他者の苦痛へのまなざし』において、ウルフの姿勢に異を唱え、写真が感情を煽り、特定の視点を押し付けるプロパガンダとして利用されうる危険性を指摘している。彼女はキャプション(言葉)による「説明」や「偽装」が写真に付与される必要性に注目し、戦争写真が視覚的な麻痺を引き起こしうると考えた。実際、クロアチア戦争では、爆撃で亡くなった子供の写真が両サイドでプロパガンダに使われた事例を挙げ、写真が「事実」をどのように歪めるかを警告している。このあたりは、現在のウクライナ戦争の報道にも通じるだろう。
鑑賞者の倫理的義務としての感受性に訴えるバトラーのアプローチ
ソンタグの議論を踏まえたうえで、ジュディス・バトラーは『アセンブリ』でソンタグの主張を批判し、写真に対する感受性の倫理的義務について述べている。バトラーは、写真が「圧倒」することで「麻痺」を引き起こすというソンタグの意見に対し、圧倒されながらも麻痺を拒否する感受性こそが、私たちの倫理的義務であると考える。
スマートフォンというデバイスのせいで、日々、過激でスペクタクルなイメージにさらされやすい私たちにとって、バトラーの主張は非常にリアリティがある。倫理的な結びつきや時間的な横断性を生み出す可能性を持つものとして再解釈される。
バトラーの主張の上で、ロベール・ドアノーが「演出」したロマンティックな写真を見てみると?
結局、写真は一見「ありのままの瞬間」を映し出しているように見えるが、実際には撮影者の視点や選択が影響している。スナップ写真の「決定的瞬間」は、撮影者が意図的に選び出したものであり、キャプションやテキストによる解釈が大きく影響する。
ロベール・ドアノーの写真も例外ではなく、彼が「パリのロマンス」を象徴するように意図して撮影したものであり、それが私たちにロマンティックな幻想を抱かせるのだ。彼が広告デザインの仕事をしていたことや、フォトジャーナリストで構成された写真集団「マグナム」の創設メンバーであることを考慮すると、演出した写真という視点で見ても良いだろう。実際、そのような目線で彼の写真を見ると、ナイーブにパリのロマンティックなイメージに浸ることはできなくなる。
真正性は、写真ではなくコンテクストにあるのでは?
ソンタグやバトラーが述べたように、写真に添えられる「言葉」や「コンテクスト」が鑑賞者の解釈に与える影響は絶大である。展示や写真集において、キャプションや紹介文があることで、鑑賞者は「こう解釈すべきだ」と促されやすくなる。
たとえば、ドアノーの「パリ庁舎前のキス」が「パリのロマンス」を象徴する作品として紹介されることで、観客は無意識にその「美しさ」や「ロマン」に心を寄せることになる。『写真は創るものではなく、探すものだ』というキャプションが本当のことならばの話だが。少し嘘くさいと思ってしまう。
そもそも、こうした写真をキュレーター側がどう捉えているのかも、時代性がある気がする。モダンアートをモダンなままに消費するマーケットは、ある程度安定して形成されているため、モダンなアウラ、すなわち真正性をどう形成するかは、いくつか「美術館ぽいルール」をつくれば容易にできるのである。たとえば「写真撮影禁止」とか。1点ものだとか、そんなのはむしろ暴いた方が楽しいと思うのだが、観客に「真正性バイアス」を働かせている。
この展示形式が写真に一種の神聖さを付与する一方で、展示空間や演出が「作られたものである」という現代的な視点もある。また「京都」という街中に展示のチラシが貼られる様子を見ても、「展示の売り方」や「写真で稼ぐロマンス」という皮肉も感じ取れる。必ずそこには、つまらない時代のつまらない政治が絡んでいると辛口で言いたくなるのだ。全く新規性がない。
日々「写真らしきもの」にさらされる私たちは、その裏に潜む多層的な意味や意図について考察することの重要性を痛感する。写真はただ「美しい真実」を映し出すものではなく、そこに隠された撮影者の視点や社会背景が鑑賞者にどのように作用しているのか、今一度、つまらない展示を見て再考する機会を得た。
参考文献
・スーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』北條文緒訳、2003年、みすず書房。
・ジュディス・バトラー『アセンブリ』佐藤嘉幸、清水知子訳、2018年、青土社。
・ヴァージニア・ウルフ『三ギニー』片山亜紀訳、2017年、平凡社。
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