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表現としてのスナップ写真を思考する

すべてのスナップ写真には批評性が宿っている。撮る者にはあらゆる理由があるが、いずれにせよ社会に対する何かしらの思いが写されている。それは犬、猫、花、標識、友だち、家族、自宅の部屋などのありきたりな被写体だけが写っていようと、他者に向けるまなざしには社会への視線が入っている。「いやいや、私は自分が好きと思える写真を撮っているだけですよ」と意見する人がいるだろうが、「好き」は、撮影者が社会に向けているまなざしそのものであり、そして「好き」な写真を公表するということは、それが社会への態度となる。

しかし、多くのスナップ写真は無意識で撮られているため、撮影者は自身が持つまなざしに気づいていない(あるいは目を逸らしている)。それに、おおよそスナップ写真の多くは日記のおまけであり、余計に批評性が薄れて見える。いわば自身のセンスを見せつけるような写真になりかねない。つまり、写真ではなく「こんな写真を撮れる私のセンス」を見てほしいという千倍希釈のガーリーフォト然となってしまう。だから、ほとんどのスナップ写真は「ここには◯◯が写っている」という、表現から離れ去った現場写真のようになる。

やはり、表現としてスナップ写真を公表したいのならば、「わけがわからない」とか「こんなの写真じゃない」と評されるほどの写真を大量に見せることが有効だと思う。もちろんそれだけでは単なるサボりで、「写真が語っている」と言うのは詭弁でしかない。それは巨匠のみに許される方法だ。肝心なのは、テーマやステートメントとセットで説得力を持たせることだと思う。当然ながら写真が技術的に優れていることが前提となる。

僕としては、スナップ写真にテーマだとかコンセプトだとかを持たせるのは好きじゃない。スナップ写真は無意識で撮るからすばらしい。個人の持つまなざしは、スナップ写真における最強の武器となる。しかし、スナップ写真を"表現"にするならば、アートとして成立させる高度な技術が必要になる。スナップ写真の世界で評価をされている写真家は、その技術のレベルがずば抜けている。ロバート・フランクやウィリアム・クラインが今でも最高レベルで評価されているのは、「私が見た世界」という誰にも理解されない極私的世界観を圧倒的な技術力で"表現"しているからに他ならない。だから、技術を極めることが他者を引き離す最大の要素になるであろう。

ここまで暑苦しく語ってきたが、あくまでアートや表現としてのスナップ写真に対する思考だから、スナップ写真は日記や趣味としてSNSでバンバン流すのが実は正解だと思う。「生き方=写真」というのでなければ、写真を自分の暮らしのセンスの一部と見なして他者に広げていくのが精神的にも健全である。

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