写真撮影のトリレンマ──あるいはソンタグ『写真論』の書評
写真を撮ることと引き換えに、僕たちは何を失っているのだろうか?
そんな問いが頭をよぎったのは、ある本を読んでいたときだった。
スーザン・ソンタグの『写真論』。
原著である On Photography が刊行されたのは1977年、もう半世紀近くも前のことだ。写真論を語る上で欠かせないこの本は、ロラン・バルトの『明るい部屋』やヴァルター・ベンヤミンの『写真小史』などと並び称される名著だ。写真というメディアの本質に迫った一冊として、今でも色褪せることのない輝きを放っている。
そんな古典的な本をなぜ今になって手に取ったのか。それは、僕が参加している「積読サロン」という読書コミュニティで、この本の名前が挙がったからだ。YouTube番組「積読チャンネル」のパーソナリティであり、プロの選書家でもある飯田光平さんが話題にしてくれたのがきっかけだった。
実を言うと、この本は大学生の頃に一度読んだことがあった。だが、飯田さんのコメントと同様に、僕も記憶力が皆無なので何が書いてあったかを覚えていなかった。しかし今回、改めてページをめくるうちに気づいた。この本の考え方が、僕が写真について考える時の無意識の土台になっていたのだと。
今日はそんな示唆に富んだ本を紹介するとともに、この本が僕に考えさせてくれたことを、ここに書き留めておきたいと思う。
ソンタグの『写真論』
スーザン・ソンタグの『写真論』は、単なる写真評論ではない。写真そのものを哲学的かつ社会的な文脈で掘り下げた一冊だ。本書の中で、ソンタグは、当時のアメリカ社会の価値観や人間の物事の捉え方などについて鋭く切り込んでいく。
半世紀も前に書かれたからといって、この本の内容が時代遅れというわけではない。それどころか、現代の写真文化に通じる記述が随所に見られ、思わずハッとさせられる瞬間がある。
たとえば、19世紀のアメリカについて言及したこの部分を読んで欲しい。
どうだろうか。19世紀の話だと知りつつも、同じようなことが現代の観光地でも起きてように思えてしまうのは僕だけだろうか。「映え」を追求するあまり、観光客がマナーやモラルに反した振る舞いをしてしまう──それは、時代を越えて繰り返される行為のように感じられる。
さらに、こんな一節もある。
現代でも「最近のデジタルカメラは写りすぎる」「カメラに写真を撮らされている」などと感じて、あえてフイルムカメラを使ったり、マニュアルレンズやレンジファインダー機を使うフォトグラファーも少なくない。
こうして見てみると、写真という文化を取り巻く根本的な構造は昔も今も驚くほど変わっていない。そして、それを踏まえたソンタグの洞察もまた、鮮やかなままだ。『写真論』は、社会にとって写真とは何なのか、私たちは写真を通じて何を見ているのか、そういった問いを本気で考えたい人にうってつけの一冊である。
とはいえ、この本が簡単に読めるかといえば、そうではない。ソンタグの議論は哲学的で抽象的だ。読むには、ある程度の読書筋力が必要になる。でも、その知的な戦いに挑むだけの価値は間違いなくある。
ここから先では、そんな『写真論』を読む中で考えたことを書き留めてみたいと思う。
「写真を撮る」とは何か
『写真論』の中で、ソンタグは「写真を撮る行為」に込められた意味を、さまざまな角度から掘り下げている。それらのうち、今まで僕が無意識に思考の土台にしていたのは、次のふたつの特性だ。
写真を撮ることは、写真に撮られた対象を自分のものにするということ
写真を撮ることは、過去を消費の対象物に変えるということ
もちろん、現実の世界で、他人のものを勝手に自分のものにすることはできないし、人そのものを所有するなんてことは許されない。そんなことをしたら大問題だ。でも、写真というメディアの中では、その所有の感覚が擬似的に成立する。シャッターを切るという行為は、目の前の光景や瞬間を「これは私のものだ」と心の中で宣言するようなものなのだ。
そして時間についても同じだ。僕たちは誰もが時間の流れに抗えない。過去は過ぎ去り、未来はまだ来ない。それが世界のルールだ。でも、カメラはそのルールに対抗するかのように、時間を切り取り、凍結させる。過去は写真という形で「消費できる記憶」に変わり、僕たちの手元に残る。
つまり、写真を撮るという行為は、社会のルールや倫理、そして自然の摂理を擬似的に超越する力を撮影者に与える。カメラを手にした人は、ほんのわずかの間だけ、世界をその手で支配する感覚を味わう。
写真を撮ることのコスト
では、そんな「力」を手にする代わりに、僕たちは何を失っているのだろうか。写真を撮るという行為は、果たしてコストのかからない錬金術や魔法のようなものなのだろうか。それとも、何か大切なものと引き換えに成立しているのだろうか。
もちろん、撮影には目に見えるコストが伴う。撮影機材を買うためのお金、撮影に費やす時間、それに少しばかりの労力や情熱も含まれるだろう。写真を撮るという行為は、決して負担がないものではない。けれど、それらのコストは、撮影者が──擬似的にではあるにせよ──「世界を支配する力」を手にするための対価としては、どこか軽いように思える。
僕たちが本当に支払っているものは、もっと別の次元にある。
フォトグラファーは、写真を撮ることと引き換えに、「写真に収めるまさにその光景を自身の目で見る」という権利を放棄している。
国際金融のトリレンマ
少し話が逸れるが、これからの議論に重要な手がかりとなる概念を紹介しておきたい。「国際金融のトリレンマ」というものだ。これは、経済学の基礎的な命題であり、貿易理論などを扱う分野である国際経済学の教科書では必ず登場する。
簡単に説明しよう。国際金融のトリレンマとは次のような定理である。
これら3つは、それぞれ魅力的だが、全てを同時に手に入れることはできない。たとえば、金融政策の自由を追求しつつ、海外とのお金のやり取りも自由にすると、海外との金利差を意識した為替取引によって為替レートが変動してしまう。逆に為替レートを固定したいのであれば、① 自国の金融政策を海外の金利動向に合わせることで為替取引の需要を抑えるか、② 海外とのお金のやり取りを強制的に制限することになる。
このように、国際金融の分野では、何かを達成するためには何かを犠牲にしなければならないという「選択」の問題がある。これと同じようなことが、写真撮影にも存在しているように思える。いわば「写真撮影のトリレンマ」だ。
写真撮影のトリレンマ
フォトグラファーが突きつけられるトリレンマは次のようなものだ。
たとえば、一眼レフカメラを使う場合を考えよう。シャッターを切れば、もちろん写真は記録される。そしてファインダー越しに、写真に写る光景そのものを正確に見られる。けれども、シャッターが切られる瞬間、一眼レフの仕組み上、ファインダーは一時的にブラックアウトしてしまう。つまり、撮影者はその瞬間の被写体を見ることができない。シャッター音が響くその刹那、撮影者は世界から締め出されるのだ。
たしかに、最近のミラーレスカメラには、ブラックアウトフリーを謳うモデルもある。けれども、撮影者が見ているのは被写体そのものではなく、モニターに映し出された映像だ。リアルタイムに見えるそれは、あくまでデジタル信号が生み出した複製物であって、「被写体を直接見る」という行為とは微妙にずれている。
撮影の瞬間に、被写体そのものを観察し続けたいのであれば、レンジファインダーのようなカメラを使えばいい。こうしたカメラでは、ファインダーを通じて、被写体を直接観察し続けることができる。けれども、カメラの構造上、ファインダーに映るものと写真として残る光景は完全には一致しない。写真として写る構図をベストだとするのであれば、ファインダーでのぞいている光景は妥協の産物でしかない。
理想的な形で被写体を観察し続けようと思ったらどうすればいいだろう?答えは単純だ。写真を撮ることを諦めて、自分の目で被写体を観察し、その瞬間を心の中に収めるしかない。けれども、それでは「写真を撮る」という行為そのものが成り立たない。
写真を撮る者は常に選択を迫られている。撮影の瞬間に被写体を見ることを諦めるのか、それともベストな構図で被写体を見るのを諦めるのか。あるいは、そもそも写真に収めることを諦めるのか。そのどれかだ。
写真を撮るという行為には代償がある。僕たちはカメラを通じて、ある瞬間を永遠に封じ込める力を得る。その力の裏には、「写真に収めるまさにその光景を生で見る権利」を手放したという事実が隠されている。それこそが、僕たちが写真を撮るたびに支払っている、目には見えないコストなのだ。
僕たちが撮った写真に写る光景。それは、僕たち自身が見ることを諦めた世界の断片だ。
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