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#日本史がすき

日本史がすきだと感じたエピソード、学習の記録、勉強法など、日本史にまつわる投稿を募集します!

急上昇の記事一覧

【歴史小説】花、散りなばと 1/6【加筆修正・リマスター版】

 この度、kindleで初の作品集『室町・戦国三都小説集』を発売させていただきました!  それに当たり、一番古い作品だった「花、散りなばと」を一部加筆修正いたしました。  主な変更点は、 ●ルビの追加 ●細かな言葉遣い です。  やはり現代からすると馴染みのない言葉、地名、人名などが頻出する割にはルビが少なかったため、もう少し読みやすくなればと思い、ルビを増やしました。  また、いくつかの箇所について、当時の雰囲気を壊さない言い回しに変え、文章全体を整えました。 (Kin

皇后、摂津の港から出航するの巻

神功皇后の伝承地を巡る ② 城南宮 平安京遷都に際し、国常立尊を、八千矛神と息長帯日売尊に合わせ祀って城南大神と崇め、都の守護と国の安泰を願い創建された城南宮。関西では方除けの神社として有名です。 「曲水の宴」が催される城南宮の神苑は、いま放送されているNHKの大河ドラマ『光る君へ』の主人公・光源氏の四季の庭を備えた大邸宅「六条院」に触発された白河上皇が造営し、院政の拠点とした場所(城南離宮)でもあります。 その城南宮の東の鳥居をご覧ください。  『日本書紀』は、仲

京都検定2024受験記「磁器と陶器の違いとか」

皆様にご報告したいことがあります。 これまで『真夏の嵐山日帰り旅』を週二回ペースで投稿していました。先週から週イチにしたのは、京都検定二級対策に集中したいのと九月に行なう予定だった京都旅を十月に延期したからです。真実を申しますね。ネタ切れを避けるため投稿頻度を減らしました。嵐山以外の旅画像はただいまゼロです。 なぜ旅を延期したのか。 九月の過酷な暑さが一番の原因になります。大谷翔平の50-50より先に京都市の猛暑日と熱帯夜が「50&50」になったと京都新聞が記事にしてい

【物語の種とは】 大河ドラマ 「光る君へ」 第35回

あからさますぎない?!大丈夫?!と思った回でした。不義の子まで言っちゃったら、流石に道長も気づくのでは?!とヒヤヒヤしたけれど、これまでも、「それ言っちゃうの?!」みたいな正直さはまひろの十八番でしたから、今更です。 それくらいの方が嘘がなくていい、と、気兼ねして言えずじまいになりがちな自分を顧みて学ぶこと然り。言わずじまいにしてしまうと、後々逆噴射してしまう。秘すれば花、はケースバイケース。飲み込んでしまう練習は十分に出来ているので、次に練習するとすれば、相手を信じて正直

本能寺の変1852 その一因 2(1)光秀の素性3 そ第158話⑦ 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 2(1)光秀の素性3 そ第158話⑦ はじめに ←目次  ←その一因 目次大 目次中 2光秀の年齢と嫡男光慶 (1)光秀の素性 ←  →重要 ◎目次  →重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次  →テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次  →【シリーズ】  信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5  →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607  →【 重要史料 】 【 重史一覧 】 【 人物 】  *◎=重要ヶ所 P=

本能寺の変1852 その一因 2(1)光秀の素性3 そ第158話⑥ 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 2(1)光秀の素性3 そ第158話⑥ はじめに ←目次  ←その一因 目次大 目次中 2光秀の年齢と嫡男光慶 (1)光秀の素性 ←  →重要 ◎目次  →重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次  →テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次  →【シリーズ】  信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5  →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607  →【 重要史料 】 【 重史一覧 】 【 人物 】  *◎=重要ヶ所 P=

JW664 拝鷹天神

【景行征西編】エピソード35 拝鷹天神 第十二代天皇、景行天皇の御世。 西暦83年、皇紀743年(景行天皇13)5月。 景行天皇こと、大足彦忍代別尊(以下、シロ)の一行は、熊襲を平定するため、襲国(今の鹿児島県)を訪れていた。 ここは、鹿児島県の高屋宮。 肝付町北方の天子山。  シロ「ついに、襲国を平定したぞ!」  やぁちゃん「おめでとうございます。残党狩りも終わったのですね?」  シロ「その通りじゃ。」  いっくん「ほな、国中に帰られるんですね?」  シ

本能寺の変1852 その一因 2(1)光秀の素性 240920 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 2(1)光秀の素性 240920 はじめに ←目次  ←その一因 目次大 目次中 2光秀の年齢と嫡男光慶 ←  →重要 ◎目次  →重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次  →テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次  →【シリーズ】  信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5  →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607  →【 重要史料 】 【 重史一覧 】 【 人物 】  *◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チ

遠野の郷の、中世(阿曾沼氏の時代)

 江戸時代、遠野南部氏に統治されていた遠野の郷ですが、南部一族が統治する以前の領主は、阿曾沼(あそぬま)氏でした。 🔥阿曾沼氏のルーツ 阿曾沼氏は、藤原秀郷の子孫である足利有綱の四男だった広綱が、下野国安蘇郡阿曾沼郷(現在の栃木県佐野市浅沼)に居住して「阿曾沼氏」を称したのが始まりです。  ちなみに、足利有綱が称していた「足利氏」は下野国足利荘(現在の栃木県足利市)に支配権を持っていたことで足利氏を称していましたが、歴史的には、同様に足利荘に支配権を持っていた「源姓足利氏

【歴史小説】天昇る火柱(8)「旅立」

この小説について  この小説の主人公は、赤沢新兵衛長経という男です。  彼は、信州の小城に庶子として生まれ、田舎武士として平凡な一生を送るはずでした。  しかし彼には、二十歳近くも年の離れた兄がいました。  兄は早くに出家して家督を放り出すと、諸国を放浪し、唐船に乗って明国にまで渡ってゆきました。  そして細川京兆家の内衆となり、やがて畿内のほとんどを征服することになります。  神も仏も恐れぬ破壊者、赤沢沢蔵軒宗益。  その前に立ちふさがるのは、魔王・細川政元への復讐に全

30年日本史00995【南北朝前期】直義、将軍御所に逃れる

 正平4/貞和5(1349)年8月9日。高師泰は甲冑で完全武装した兵3千騎と、軽微な楯で武装させた人夫7千人を引き連れて、さながら合戦のような姿で入京しました。弟・師直を守ろうとの気概を示したのでしょう。  8月11日夕方。赤松円心とその子の則祐・氏範は、700騎で高師直の屋敷を訪ねました。師直の危機を知って、応援に駆け付けたのです。  師直は 「三条殿(直義)が理由もなく我々を滅ぼそうとしている。既に事は切迫しているので、将軍殿(尊氏)へ内々に事の次第を嘆き訴えた。すると将

少年院に来る子は「三角食べ」ができない子が多い?【シリーズ教誨師 第2回】

【第2回】教誨師の歴史①前史 宗教教誨が制度化されるのは明治に入ってからですが、それ以前から仏教者による先駆的試みが種々の伝記に残っています。古くは聖武天皇の時代に、仏教精神に基づき囚人に対する宗教教育が行われたと伝えられ、平安時代には踊り念仏の祖といわれる空也が獄舎の傍らに卒塔婆を建て、尊像を奉安し、抜苦の因となしたという伝記が伝えられています(『佛教大辭彙第二巻』)。 江戸時代には老中・松平定信が江戸の石川島に人足寄場(更生施設)を創設し、授産のほか心学講義が行われま

【中秋の名月 🎑】 今日は「中秋の名月」ですね。 住吉大社さんでは毎年この日に「観月祭」が催されます。 昨年は間に合いましたが、今年は忙しくて間に合いませんでした。(>_<) 【昨年の記事】 「住吉大社の観月祭(中秋の名月)」 https://note.com/m_9joh/n/nb0c9d8ee3550

重伝建地区「塩田津」訪問        @佐賀県嬉野市(2024/9)

今回は町並みについての投稿です。 先日のことですが、佐賀県嬉野市にある重要伝統的建造物群保存地区「塩田津」を訪問したのでレポートします。 佐賀県の南西部に位置する嬉野市。塩田津はその有明海寄りに位置する河川港のあった街です。 2005年に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された塩田津。 江戸時代は長崎街道の宿場町として、河川港として栄えました。 先ごろご紹介した嬉野忍者の1人、蓮池藩の「細作」をつとめた田原安右衛門良重は、この塩田の頭人(=長官)にまで至ったということです

【源氏⑨】源義経が京都入り! ヒーロー伝説のはじまりダッッ!!

歴史のヒーローたちの物語を「人物相関図」で、少しでも分かりやすく楽しく紹介できれば、という気持ちでつくっているnoteです。 今回のシリーズは源頼朝&源義経ブラザーズにまつわる物語。 シリーズをまとめたマガジンはコチラから↓ 前回の記事では、頼朝&義経のライバル・源義仲が京都から平氏を追い出して、入京するまでを書きました。記事はコチラ↓ 今回はついに、頼朝の弟・源義経が京都にやってきます! さぁ、伝説が始まるゾーーーーーーー! 頼朝、義経に対し兄弟の甘やかしゼロ

本能寺の変1852 その一因 2(1)光秀の素性3 そ第158話⑤ 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 2(1)光秀の素性3 そ第158話⑤ はじめに ←目次  ←その一因 目次大 目次中 2光秀の年齢と嫡男光慶 (1)光秀の素性 ←  →重要 ◎目次  →重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次  →テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次  →【シリーズ】  信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5  →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607  →【 重要史料 】 【 重史一覧 】 【 人物 】  *◎=重要ヶ所 P=

本能寺の変1852 その一因 2(1)光秀の素性3 そ第158話④ 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 2(1)光秀の素性3 そ第158話④ はじめに ←目次  ←その一因 目次大 目次中 2光秀の年齢と嫡男光慶 (1)光秀の素性 ←  →重要 ◎目次  →重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次  →テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次  →【シリーズ】  信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5  →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607  →【 重要史料 】 【 重史一覧 】 【 人物 】  *◎=重要ヶ所 P=

豊臣秀吉は諦めていたんじゃないかと思う話

あなたは豊臣秀吉をご存じですか? 豊臣秀吉は戦国時代に活躍した武将です。 織田信長に仕え数々の戦で信長に貢献し、 信長が本能寺の変で自害した後は、本能寺の変を起こした明智光秀を山崎の戦いで倒しました。 その後は織田家に代わって秀吉が力をつけ、ライバルの柴田勝家を賤ヶ岳の戦いでやぶりました。 それからは他の大名を従わせるために、秀吉に従うことを拒否した大名に対して秀吉は戦いを仕掛けて降伏させることを繰り返しては、次々と大名たちを従わせることに成功しました。 その成果

皇配 | 天皇制について思うこと

 いま、自由民主党の総裁選と立憲民主党の代表選がニュースの話題になることが多い。  経済、防衛、子育て支援、災害対策、年金制度など様々な論点がある。  アメリカでは、共和党のトランプさんと民主党のハリスさん。大統領選挙が話題になっている。  日本は議院内閣制で、アメリカは大統領制だから、総理大臣と大統領を単純に比較することは出来ないけれども、アメリカ大統領も総理大臣も、どちらも基本的には任期は4年程度。 (*実際には聞いたことはないが、総裁ではなくなっても、総理大臣を辞

竪櫛と横櫛 〜櫛の歴史〜

九條です。 先日、出かけた先でちょっとマイナー(ローカル)な100円ショップさんへ入ってみました。 そこで「おやっ!」と思う商品を見つけました(写真)。 木製(桃の木製)の横櫛ですね。ひとつ100円(+税)でした。 私はこのような櫛は使わないにも関わらず、思わず買ってしまいました(衝動買い)。また要らぬものを買ってしまった…。^^; ◎竪櫛と横櫛 櫛はその用途別に梳櫛(スキクシ)や解櫛(トキクシ)、挿櫛(サシクシ)などがありますが、その形状で分類するならば大きく竪櫛

30年日本史00993【南北朝前期】兼好と徒然草

 正平4/貞和5(1349)年頃、兼好が「徒然草」を執筆しました。ここで徒然草のエピソードやその特徴について紹介しておきましょう。  兼好は吉田神社の神職の子として産まれたといわれていますが、その生涯については不明な点が多く、そもそも吉田神社の関係者であること自体が後世の創作との可能性が濃厚です。そのため、近年は吉田姓ではなく「卜部兼好(うらべかねよし)」と呼ばれています。  徒然草は243段からなる随筆で、笑い話、エスプリ話もあれば、「もののあはれ」を描いた美的情緒あふれる

JW663 国見をしよう

【景行征西編】エピソード34 国見をしよう 第十二代天皇、景行天皇の御世。 西暦82年、皇紀742年(景行天皇12)12月。 景行天皇こと、大足彦忍代別尊(以下、シロ)の一行は、熊襲を平定するため、襲国(今の鹿児島県)を訪れていた。 ここは、鹿児島県の高屋宮。 肝付町北方の天子山。  えっさん「して、残党狩りは、順調にあらしゃいますか?」  シロ「うむ。そうであろうな。」  えっさん「そうであろう? 曖昧な物言いにあらしゃいますなぁ。」  シロ「詳らかな伝承

【歴史学】 通史を学べば、個人的に色々と思う事は多い。 しかしそれを思ったまま好き勝手に文字や言葉にすることはできない。 なぜなら歴史学という学問は科学(人文科学/実証主義的科学)であるから。 歴史学は諸学問の中でもとくに高い倫理感や理性(自制)が求められる学問であるから。

■大河ドラマ『光る君へ』第32~35話を深掘りしたい人のための参考本

えりたです。 在宅ワーカーな私は、昨日とのから「三連休」ということばを言われるまで気づいていませんでしたが、世の中はただいま絶賛三連休中なのですね。最終日ではありますが、大河ドラマ『光る君へ』に関する本を探しに書店へGOするのも良いのではないでしょうか。 今回は、第32話から昨日放送された第35話までのお話に関連する本をご紹介いたします。 その前に各話の感想記事はコチラです(あ、第35話はまだ私のアタマのなかに収納されています💦)。 ■第32話 「誰がために書く』―大

本能寺の変1852 その一因 2(1)光秀の素性3 そ第158話③ 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 2(1)光秀の素性3 そ第158話③ はじめに ←目次  ←その一因 目次大 目次中 2光秀の年齢と嫡男光慶 (1)光秀の素性 ←  →重要 ◎目次  →重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次  →テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次  →【シリーズ】  信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5  →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607  →【 重要史料 】 【 重史一覧 】 【 人物 】  *◎=重要ヶ所 P=

たとえばさ “お国”は年内での保険証廃止を宣言していて撤回する気配はまるでなく しかし、地方の役所は “まったく協力的ではない” わけでしょう? 普及率10%だっけ? え?上意下達は?? じつはね、 国はすでに滅びていて “敗戦処理”が粛々と進行中、 日本政府終了のお知らせ

本能寺の変1852 その一因 2光秀の年齢と嫡男光慶 240914 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 2光秀の年齢と嫡男光慶 240914 はじめに ←目次 ←「その一因」 目次大 目次中 ←  →重要 ◎目次  →重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次  →テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次  →【シリーズ】  信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5  →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607  →【 重要史料 】 【 重史一覧 】 【 人物 】   *◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓

本能寺の変1852 その一因 2(1)光秀の素性3 そ第158話① 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 2(1)光秀の素性3 そ第158話① はじめに ←目次  ←その一因 目次大 目次中 2光秀の年齢と嫡男光慶 (1)光秀の素性 ←  →重要 ◎目次  →重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次  →テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次  →【シリーズ】  信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5  →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607  →【 重要史料 】 【 重史一覧 】 【 人物 】 

■大河ドラマ『光る君へ』第34話「目覚め」感想―誰にも縛られたくないと逃げ込んだこの夜に

えりたです。 大河ドラマ『光る君へ』も第34話。気が付いてみれば、着々と時は過ぎ、次世代の子たちが育っています。 あの、達者な口で倫子さまを(# ゚Д゚)ってしてた田鶴君は「頼通」になり、父に超叱責されてた松君は「道雅」になり。定子さまの忘れ形見である「敦康親王」も幼いながらも少年の姿になりました。 現在の最高権力者である、道長どんが髭をたくわえた姿であることを思えば、「あの三郎がねぇ…」と感慨深さも湧いてくるというもの。こうして、物語は「終わり」へ向けて加速していくの

JW662 三つ目の候補地

【景行征西編】エピソード33 三つ目の候補地 第十二代天皇、景行天皇の御世。 西暦82年、皇紀742年(景行天皇12)12月。 景行天皇こと、大足彦忍代別尊(以下、シロ)の一行は、熊襲を平定するため、襲国(今の鹿児島県)に来ている。 前回は、城に籠る熊襲を討ち、オリジナル設定で、頭となった、川上(以下、カワ)と弟建(以下、おとたけ)が降伏したのであったが・・・。  カワ「それで? これから、どうするの?」  シロ「うむ。船路を進もうと思うておる。」  いっくん「

本能寺の変1852 その一因 目次大 240915 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 目次大 240915 はじめに ←目次 ←「その一因」 ←  →重要 ◎目次  →重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次  →テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次  →【シリーズ】  信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5  →その一因 目次中 1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶   3光秀という男 4光秀の苦悩 5志向の相違 信長の油断  →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607  →【

和歌山城~御三家の名城を隅々まで歩く

 江戸時代の大名家のうち、徳川将軍家の血を引くのが親藩です。その中でも、徳川の姓を名乗ることができたのが水戸・尾張・紀伊の「御三家」でした。  和歌山城は、御三家の紀伊藩の政庁にふさわしい堅固な名城です。戦前には天守など11棟が国宝に指定されていましたが、太平洋戦争で惜しくも焼失しました。  和歌山城観光といえば天守に登ると思いますが、広大な敷地には興味深い遺構がたくさん残っています。  和歌山駅から一番近い吹上口は、かつて紀ノ川とつながっており、物資の搬入に使われた出

徳川家康の子孫たち

 265年に渡る泰平の世を作り出した天下人「徳川家康」 その徳川家康の子孫は現在いるのでしょうか。 執権北条氏のように族滅せず明治維新を乗り切ったので、もちのろんでいます。 では、その子孫の人たちを紹介したいと思います。 ・徳川宗家の子孫 徳川宗家  徳川家広という人が19代目の当主です。 メディアなどにも出演されているので、知っている人もいるのではないでしょうか。 家広さんは、文化活動や執筆活動を行なっているそうです。 2019年に北海道の知事選に出馬しようとして断念

30年日本史00992【南北朝前期】桟敷倒壊事件

 太平記は、さらに観応の擾乱の前触れとなったある悲劇を伝えています。  正平4/貞和5(1349)年に入ると、1月には流星・彗星が現れ、2月には清水寺で火災、6月には金星・水星・木星が並ぶという不吉な兆候がみられました。こうした状況にもかかわらず、尊氏は洛中で田楽を楽しんでおり、家臣たちは 「かつて得宗・北条高時が楽しんでいたものではないか。よくない兆候だ」 と噂しました。  そして6月11日、決定打となる事件が起こります。  ある僧侶が四条に橋を作ろうということで、その資金

【血縁関係シリーズ⑧】島津斉彬は織田信長の子孫だった

島津斉彬(1809~1858)は幕末の薩摩藩主として藩の近代化を進めた他、幕政にも関わった人物です。 当時から色々な人に名君だと評価されており、 幕末の四賢侯の一人として数えられています。 将軍継嗣問題では、 一橋派につき徳川慶喜(一橋慶喜)を次期将軍にすべく動いたのですが、 徳川慶福を次期将軍にしようと考えていた 南紀派の筆頭井伊直弼が大老に就任したことにより南紀派が勝利し、慶福が次期将軍に決まりました。 これをうけて斉彬は大軍を率いて、直弼に抗議しに行こうと

【さが戦国武将隊結成(勝手に)応援企画】嬉野忍者について②

前回の続きです。 この度佐賀県で龍造寺隆信を中心とする「さが戦国武将隊」が結成されました。その応援企画として、佐賀県嬉野市に実在した3人の忍者(田原安右衛門良重、弁慶夢想、古賀源太夫)をご紹介したいと思います。 *前回のnote記事はこちらです。 (註:この記事は嬉野忍者調査等の研究発表を拝読し纏めたもので、私のオリジナル研究ではありません。末尾に参考文献等を明示。) ー第2回 弁慶夢想の巻ー 弁慶夢想(生没年不詳/山伏) 慶安4年(1651)、藤津郡吉田村(現在の

「至高の虚像」&「哀しき実像」

少し前に出た↓の売れ行きが好調です。 出版社は河出書房新社。「新資料を中心に、秋霜烈日の裏の生身のあたたかさに迫る」との紹介文に惹かれました。ドラマや小説でお馴染みの「鬼の副長」像しか知らないので。 同じ著者による↓は読了済み。 斎藤一といえば、やはり和月伸宏「るろうに剣心」の印象が強いです。同作における斎藤は「悪・即・斬」という己の信念を貫く孤高の狼。実際はどうだった? 忠誠を捧げた対象は幕府か、同志か、信念か、それとも。 興味のある方はぜひ。 ところで新選組のフ

本能寺の変1852 その一因 目次大 240916 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 目次大 240916 はじめに ←目次 ←「その一因」 ←  →重要 ◎目次  →重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次  →テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次  →【シリーズ】  信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5  →その一因 目次中   1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩   5志向の相違 信長の油断  →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607  →【 重要史料 】 【

核による戦争の抑止力。議論する時期に来ている⁉️ 日本は戦前 原爆実験に成功していた⁉︎ 韓国世論は核武装70%以上賛成⁉︎ 近藤大介youtube https://bit.ly/4dWrss5

江戸の敵を長崎で討つ

「江戸の敵を長崎で討つ」。 (えどのかたきをながさきでうつ)  高校の日本史の授業で聞いた記憶のある言葉。先生は「江戸の敵を長崎で討つ」という言葉の由来を話してくださったのだが、今では忘れてしまった。  言葉の意味は「筋違いのことでリベンジを果たすこと」みたいな意味のはず。たまに思い出す言葉なのでネットで調べてみるのだが、諸説あるようでどれが正しい由来なのかわからない。  「江戸の敵を長崎『で』討つ」で私は記憶しているが、 「江戸の敵を長崎『が』討つ」が正しいとする解

■大河ドラマ『光る君へ』第35話「中宮の涙」感想―よかったね。初めてほんとに君の笑顔を見た気がする。

大河ドラマ『光る君へ』第35話が放送されました。もう……彰子さま推しとしては神回でございまして……感涙に噎ぶ至福の時間でありました。 史実としては、もう来年には敦成親王や敦良親王が産まれることを知ってはいても。でも、まさかの懐仁親王(一条天皇)と同じ扱いに…と((((;゚Д゚))))ガクガクブルブルしてた部分もありました。できるならば、彰子さまには幸せに笑う時間があってほしいと心から願っておりましたので、第35話の神展開はほんとうにほんとうにうれしかったです。 ・

本能寺の変1582 【重史54】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史054】 「多聞院日記」 はじめに ←目次 ←【重要史料】 【重史一覧】 ←   →重要 ◎目次  →重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次  →テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次  →【シリーズ】  信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5  →その一因 目次大 目次中  →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607  →【人物】  *◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済  そ=その一因 テ=テーマ別  *

【写真館718】あかくともる

今日の一枚はコチラです。 以前も撮っていたのですが、写真館に出せないまま日が経っていました。そんなことを思いながら、もう一度撮ったのが今日のお写真です。 名古屋城東門を出ると、金シャチ横丁が広がります。名古屋ならではのモノがいただける、飲食店の並ぶ界隈です。こちらは「宗春ゾーン」。えぇ、某将軍の座を狙う尾張のあの方の名を冠した飲食店街です。 ちなみに、正門を出たところにも金シャチ横丁はあり、そこは初代城主である、家康公の九男坊な「義直ゾーン」と呼ばれています。 さて、

本能寺の変1852 その一因 2(1)光秀の素性3 そ第158話② 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 2(1)光秀の素性3 そ第158話② はじめに ←目次  ←その一因 目次大 目次中 2光秀の年齢と嫡男光慶 (1)光秀の素性 ←  →重要 ◎目次  →重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次  →テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次  →【シリーズ】  信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5  →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607  →【 重要史料 】 【 重史一覧 】 【 人物 】  *◎=重要ヶ所 P=

天之御中主神・別天津神は天を駆ける

古事記本文は、「天地の初発のとき」の書き出しです。しかし序文第一段は「天と地が初めて分れて」と記します。中国神話では、盤古が天を押し上げて天地を分離しました。古事記冒頭の天之御中主神の登場は、天地が分れた後です。前話では天地創造は盤古、最初天地は一緒だったの暗号から、天地は天神地祇の略、天津神と国津神に分れたと復号した。 【やまとみずほの国に生まれて】第三十七話と憤怒話にて、仁徳天皇の国見歌を天津神が阿波に上陸した決定的証拠と語りました。そして上陸したのは秦氏、ひょっとして

【さが戦国武将隊結成(勝手に)応援企画】嬉野忍者について①

佐賀県嬉野市には忍者村がありますが、嬉野には3人の忍者(田原安右衛門良重、弁慶夢想、古賀源太夫)が実在したことが史料調査により判明し、専門家からも認定されています。 2018年に嬉野市で開催された第2回国際忍者学会でも発表されました。 その佐賀県において、この度、3人の忍者も含めた「さが戦国武将隊」が結成されたそうです。しかも、龍造寺隆信役と御付の武将足軽役はオーディションで決定されるとか。 そこで 「さが戦国武将隊結成(勝手に)応援企画」 として、まずは嬉野にいた3人の

【共感とは】 大河ドラマ 「光る君へ」 第34回

彰子さま、あまりにも大切に育てられすぎていたのね、な回でした。 表面的なご挨拶やご機嫌伺的なお話ではなく、お互いに腹を割って話すとか、くだらないことをくっちゃべって笑いあうとか、そういうことを一切してこなかったから、人との接し方が分からない姫様だったのかあ。元祖コミュ障。 御簾の向こうから「素」の父親を目撃して人に対する興味を少し抱いたのは、大きな一歩のようでした。これから周りに対する関心が高まり、顔をあげる機会が増えるのかな。だといいな。これをきっかけにしてまひろとの距

大和、新たな展開へ。

欠史八代 第七話 第五代 孝昭天皇 ヘッダー画像は、向かって右から孝昭天皇陵、大和葛城山、金剛山。  初代から第四代、神武、綏靖、安寧、懿徳天皇の御陵は畝傍山に築かれました。そして前々回の記事で、系譜をサザエさんに例えて、大和の 大地主神である大己貴神の血統を全て受け継いだことを書きました。 そしてこの第五代孝昭天皇から、新しいフェーズに入ったことを、『記紀』の記述から読み取ることが出来ると考えています。 宮の伝承地  まず宮の伝承地と御陵を確認しておきましょう。『日本

本能寺の変1852 その一因 2(1)光秀の素性3 そ第158話⑧ 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 2(1)光秀の素性3 そ第158話⑧ はじめに ←目次  ←その一因 目次大 目次中 2光秀の年齢と嫡男光慶 (1)光秀の素性 ←  →重要 ◎目次  →重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次  →テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次  →【シリーズ】  信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5  →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607  →【 重要史料 】 【 重史一覧 】 【 人物 】  *◎=重要ヶ所 P=

30年日本史00991【南北朝前期】上杉重能・畠山直宗の讒言

 ここで太平記は、直義と師直の対立の原因となった妙吉(みょうきつ)という僧の話を取り上げています。  この頃、夢窓国師は天龍寺を建立して、多くの者から布施を集めていました。それを見た弟子の妙吉は羨み、 「自分も多くの布施を集められる法力を手にしてやろう」 と思い立って、仁和寺で熱心に祈祷の修行を行ったところ、見事これが功を奏して評判を呼ぶほどの腕前になり、師からも注目されるようになりました。  その後、夢窓国師は禅に傾倒していた直義から講釈を依頼され、こう回答しました。 「あ