倫子さまの貫録に気圧されて
道長がいつもの通り、藤式部に今後の身の振り方を相談していると、突然現れた嫡妻の倫子さま(黒木華)。
その場の二人だけでなく見ている私たちも一瞬、背筋が凍る思いがしました。
倫子:「お2人で何を話されていますの?」
道長:「政の話だ」
倫子:「政の話を藤式部にはなさるのね」
この会話には思わず固唾をのんでしまい、注視せずにはいられず、
いったい倫子さまはどこまでお見通しなのだろう?
あまりにも堂々としたふるまいに気圧されましたね。
思わず一気に言ってしまいたい衝動に駆られたのは私だけではないでしょう。
そんな事実をどこまで倫子さまはご存じなんだろう??
倫子さまの事だから、裏から手を回して調べ上げて、すべてを知っているかもしれないとさえ思わせ、いつ修羅場になってもおかしくない状況です。
もっとも、この時代は他所で子供を作ったところで、
現代のような大事にはならないですが。
あとは、道長が藤式部の娘・賢子の父親が自分だとさえ気付いたら、またドラマも面白くなりますね。
倫子さまのあの貫録を見ると、道長も知らないその真実さえも、すでに知っていると感じさせてしまいます。
今回はそんな倫子さまの事を中心に振り返りたいと思います。
倫子がどうしても掴めなかったもの
順風満帆な人生
すでに故人の父・源雅信(益岡徹)は、59代・宇多天皇の孫にあたり、左大臣でした。
母の藤原穆子(石野真子)は三十六歌仙の一人である中納言・藤原朝忠の娘。
倫子さまは生まれながらに強い後ろ盾を持ち、生まれた時から天皇へ入内させるべく育てられました。
だからこそ藤原北家とはいえ、出世の見込みのない当時の五男であった道長を婿にするなど考えられないことですが、ドラマでは倫子の方から望み、母・穆子の助言もあって、婿に向かい入れました。
父の雅信が最後まで「不承知」だったのも仕方がありません💦
その後、夫の道長は公卿のトップである摂政・左大臣にまで昇りつめ、おまけに二人の間には2男4女を授かり、その孫の代で「帝」を輩出しただけでなく、今回のような「一家三后」も実現したのですから前代未聞の快挙と言えます。
「大当たりだったわねぇ」
という穆子のセリフはそのすべてを物語っています。
夫の愛だけは得られなかった
生まれよし、子宝よし、夫運よしと、はたから見れば倫子の人生はトントン拍子ではありますが、ただ一つ「夫の愛情」だけは手に入れることができません。
そんな事はずっと以前から倫子さまはわかっておられたのですが、それを確実に決定付けたのが、やはり敦成親王の誕生から50日目での「五十日の儀」の出来事。
道長が藤式部と歌を交わすという息の合った様子を目の当たりにした時、さすがに倫子さまも平静ではいられず、退出してしてしまったのは、「殿のお心を掴む女子」が誰なのか、はっきりした瞬間だったからではないか?
こんな風に堂々と見せ付けられては、いつもゆとりをたたえていた倫子さまも、さすがに表情を曇らせてしまうのも無理はありません。
それでも、彼女はそれ以上追求することなく日々を過ごし淡々と嫡妻としての責務をこなしています。
嫡男・頼道に、”妻をもう一人もつ覚悟を決めろ”とか、3女の威子(佐月絵美)が9歳も年下の甥にあたる後一条天皇への入内を拒んだ時も、”帝の最初の女になれ”と言い切ったりと、いつもここぞという時に有無を言わせないほどの強い発言をしています。
これは自分が結婚に関して愛情だけではない割り切りが必要であり、お前たちも「割り切れ」ということなのでしょう。
みなそれぞれ藤原摂関家の人間であることを十分に理解し、その責務を全うしろという事です。
彼女は家長であるはずの道長より度胸があり、発する言葉はさらに重い。
それにしても、あれだけ入内させて政治に子らを巻き込みたくなと言っていた二人でしたが、こうも変わるのですね。
というより、一歩足を踏み入れたら決して後戻りできない。
中途半端では終われない世界なのでしょう。
調子に乗って詠んだ「望月の歌」
「一家四后」も確実だったはず
今年初の「光る君へ」の投稿記事で、「望月の歌」の新解釈について触れさせていただきました。
この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の
欠けたる ことも なしと思へば
記事内に引用した新説によると、この日は十五夜の望月(満月)ではなくて、少し欠けた十六夜だったというのです。
考え過ぎかもしれませんが、四女・嬉子とのやり取りを思い出すと、この時すでに敦成の弟で東宮となった敦良(後の後朱雀天皇)に嫁がせることは内々では決まっていたので、道長と倫子にとっては「一家四后」はすでに確約されたものだったのではなかったか。
だからこそ、それを見越して、
道長は「俺の人生絶好調だぜ!」と調子に乗って歌い、
倫子さまはご満悦の笑みを浮かべていたのです。
~しかしまだ「望月」の時ではなかった~
というのもこの嬉子は夫の東宮・敦良が即位する前に亡くなってしまったため皇后にはなれず東宮后のままで終わり、その野望は露と消えてしまいます。
その上嬉子の産んだのちの後冷泉天皇には子ができず、藤原摂関家は外祖父にもなれずで家運は大きく傾いてしまうのを思うと、この時がまさしく絶頂期だったのです。
家の繁栄は子だくさんと長生き
この後の時代もそうですが、政権が長続きするために不可欠なのは、
・子だくさん
・長生き
という2つの条件です。
どちらが欠けてもだめ。
江戸幕府を創設した徳川家康は、その典型ではないか。
道長は倫子のもとに婿入りしたからこそ、財産と子宝に恵まれ、それらが彼の出世を大きく後押ししたことは間違いありません。
しかし、倫子さまの90年もの長い人生には、彰子以外の娘らを相次いで見送らねばならないという悲劇や、藤原摂関家の陰りも見てしまった波乱万丈の人生だったのです。
倫子さまが没した13年後の1068年、即位した後三条天皇は宇多天皇以来、
実に170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇でした。
後世に伝えたのは実資
ドラマ終了のあと、今回は実資について触れ、この「望月の歌」が伝えられたとする『小右記』に関しての説明もありました。
光る君へ をしへて!倉本一宏さんによると、以下のような偶然が重なって後世に残されたのだそうです。
・実資が威子の立后の儀のあとの「穏座(二次会)」に参加したことが珍しい。
・『小右記』は漢文日記なので歌など記すものではないと、実資は考えていたようなので、この歌を書くことは極めて稀だった。
・一家三后は未曽有の出来事なので、今後のために意識して「前例」として書き残した。
いずれにしても後世の私たちが「望月の歌」を知る事ができるのはこの実資のおかげですね。
それにしても同じ藤原一族でも、もとは実資の方が嫡流だったのですが、祖父の代で枝分かれして道長の家系に主導権が移ってしまいました。
もし彼が、かつての甥の伊周(三浦翔平)のような執念深い性格であれば、歴史もまた違っていたのかもしれません。
誰が天皇になろうが、誰が朝廷を牛耳ろうが、あくまでも中立を守り、かといって自分の意思は曲げずに職務を全うする彼は、ある意味、この時代を上手く切り抜けた公卿でした。
倫子さまも実資も、ともに長生きし、周りの事に流されずに、自分のやるべき責務を全うする姿勢は尊敬するに値し、結局は一番確かな生き方だったと私は思います。
【参考・引用】
・をしへて! 倉本一宏さん