![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/161910848/rectangle_large_type_2_8de267a3f647d70fcc59aa1b4e3cb743.jpeg?width=1200)
江戸の仕掛人“蔦屋重三郎”とは何者か?
天下泰平の江戸で、次々と大ヒット作を世に送り出した蔦屋重三郎。歌麿も北斎も広重も、なぜ“蔦重”のもとで才能を開花させたのか? そんな謎に迫る一冊『江戸の仕掛人 蔦屋重三郎』城島明彦 著(2024年11月20日発売、ウェッジ刊)が、ついに発売となりました。つきましては、本書に収録されている“口上”をお届けします。
![](https://assets.st-note.com/img/1731641236-e86RbsOhFx074ZyWlKNYw3mA.jpg?width=1200)
さて、これから皆々様にお披露目いたしまするは、江戸中期を疾風怒濤の勢いで天馬のように駆け抜けた痛快無比な“稀代の快男児”の物語であります。
男の名は蔦屋重三郎。人呼んで“蔦重”、本屋の重三郎、縮めて“本重”と呼ぶ人もおりましたが、元禄文化の中心地となった上方風にいえば「ツタやん」でございますが、蔦重はその時代には生きておりません。井原西鶴や近松門左衛門らが活躍した元禄時代は1688年から1704年までありますが、蔦重がこの世に生を受けたのは1750(寛延3)年正月7日。元禄より半世紀も後なのでございます。
親が名づけた本名は「柯理」でありまして、「かり」と読むのかと思いきや、長ずるに及んで用いた狂名は「蔦唐丸」ですから、「からまる」と読んで、ちょいと洒落るなんぞは朝飯前。それが「江戸っ子のきっぷのよさ」と申しましょうか、当時の人たちから見れば、「粋」で「いなせ」で「通」で、たまらない魅力だったのでございます。
しかし、天は二物を与えませんで、蔦重の生涯は48年という短いものでありました。元号で申せば、寛延、宝暦、明和、安永、天明、寛政、享和、文化、文政、天保と移り変わった10もの時代を早足に生き急いだのでございますが、その足跡たるや、驚き、桃ノ木、山椒の木どころではありません。
これぞまさしく縦横無尽の大活躍と申すべきで、今では電通もしっぽを巻く“江戸文化の仕掛人”との評価が定まっているのでございます。
そんな蔦重、東映映画で片岡千恵蔵や小林旭が七変化を演じた名探偵多羅尾伴内のセリフ風にいえば、「あるときはトレンド・クリエーター、あるときは敏腕プロデューサー、あるときは逸材発掘人兼スポンサー、またあるときは歩く広告塔、あるときはコラボの達人、またあるときは出版界の革命児、そしてまたあるときはヒットメーカー、しかしてその実態は、誠意と革命の人、蔦屋重三郎」でございまして、もっと具体的に申しますと、多羅尾伴内も顔負けの、次のような“7つの顔”があったのでございます。
①時代を読み、「戯作・浮世絵ブーム」を創出した“トレンド・クリエーター”
②着想力抜群で、写楽に大首絵を画かせた企画者にして“敏腕プロデューサー”
③大衆の心を鷲づかんだ曲亭馬琴・歌麿・写楽らの“逸材発掘人&スポンサー”
④商魂逞しく、自身も宣伝材料にした“歩く広告塔”
⑤人脈づくりの天才で、「狂歌師+浮世絵師」を仕掛けた“コラボの達人”
⑥奇想天外なアイデアで人々を熱狂させた“出版界の革命児”
⑦新ジャンル「黄表紙」で旋風を巻き起こした“ヒットメーカー”
お客様のなかには「蔦重って、現代人が知っている有名人でいうと誰?」と思われた方もおいででしょうから、申し上げます。大きくいえば、「菊池寛と小林一三を足して2で割った男」。それが蔦重であります。
菊池寛は、売れっ子作家だけで終わらず、文藝春秋を創設し、友人でもある芥川龍之介や直木三十五を顕彰するために「芥川賞」や「直木賞」を設けて新人を育成したほか、芝居の台本も書き、映画会社「大映」(のち角川グループが買収)の社長にも就任して映画制作も行っており、いってみれば“メディアミックスの元祖”たる傑物であります。
対する小林一三は、阪急東宝グループの創業者で、阪急電鉄を創設した実業家ですが、それだけで満足しない人で、鉄道の沿線に住宅地を開拓し、宝塚歌劇団や阪急百貨店をつくるなどして集客力を高め、東宝を創設して映画・演劇という娯楽部門にも進出、多角経営を展開することでブランド力を高めるという今日では当たり前のようになっている“相乗効果重視の多角経営の先駆者”でありました。もう一つ付け加えるならば、テニスプレーヤーから人気スポーツキャスターに転じた松岡修造の曽祖父でございます。
そんな偉人2人を足して2で割ったような痛快な男。それが蔦重なのです。生きた時代こそ違え、2人と同じ時代に生きていたらきっとそうなったに違いありません。かつては、「おいら、生まれも育ちも江戸っ子だい」と胸を張る御仁が数多いましたが、蔦重のような“生粋の吉原っ子”は、そうはおりません。なんせ、蔦重は幕府公認の江戸随一の色町「新吉原」で産湯を使い、「蔦屋」を名乗る引手茶屋を営む親戚筋も多かったことから、廓は我が家の庭先みたいなもの。幼児の頃から、あっちの花魁、こっちの花魁に遊んでもらっているうちにすっかり顔なじみとなり、22歳で本屋を開いた場所も新吉原大門口なら、最初に扱った本も「吉原細見」という吉原のガイドブックでありました。
一言で表現するなら“吉原の申し子”ですから、顔なじみの遊女や禿たちからは「カラちゃん」「カラマル兄さん」と気軽に声をかけられ、遊郭の主人たちからは「蔦さん」「蔦重さん」と親しげに呼ばれておりました。そうした特別な人脈があったればこそ、蔦重は誰にも真似のできない“江戸の仕掛人”として八面六臂の大活躍をすることができたのであります。
では一体、彼はどんな仕掛けをしたのでしょうか。
もったいぶった言い方をお許し願うならば、それを解き明かすのが本書であります。
というわけで、おのおの様には、これから始まる蔦重の波瀾万丈のお話を綴った“令和版戯作”とでも申すべき本書を、なにとぞ隅から隅までズズイーッと御贔屓くだされたく、ひとえに願い奉ります。
なお、本書では歌麿の最高傑作『青楼十二時』に倣って、章に十二時(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)を用いましたことを最後にお伝えして、蔦屋ならぬ拙いご挨拶に代えさせていただきます。
令和六つ戌の好日
篦 棒之介こと城島明彦
▼本書のお求めはこちらから
いいなと思ったら応援しよう!
![ほんのひととき](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/60908834/profile_cafffbf2e1a6f824037beffb3289dd9b.png?width=600&crop=1:1,smart)