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『日本書紀』に神武天皇より先に天降ったと記される饒速日命を遠祖とする物部氏。伝承地を巡りながら古代史の謎にせまってみたいと思います。
社寺を訪れる目的はそれぞれだと思います。私はどうしても歴史目線になってしまいがちなのですが、数行く中で、心地よく感じたり、空気が違っていたり、また次も来たい!と思えるところがあります。そうした社寺を皆さまに紹介させていただきたいと思います。
はじめに 今年の大河ドラマ「光る君へ」で脚光をあびる紫式部ですが、「源氏物語」を書いた時、人びとは、式部は「日本紀」(日本書紀)をよく読み取られたと感心してほめたそうです。 ご存知のように【記紀】とは「古事記」「日本書紀」をあわせた総称で、「古事記」は712年、「日本書紀」は720年に奏上された歴史書。特に「日本書紀」は六国史の第一にあたる我が国最古の正史です。 私は歴史が好きで、特に国の成り立ちに興味があります。きっかけは古墳です。文字も無かったと言われる時代に「
欠史八代 第十二話 第七代 孝霊天皇 ⑤ 皇女 倭迹迹日百襲姫 欠史八代シリーズ、第八代 孝元天皇へ進もうと思ったのですが、四国へ行って、孝霊天皇の皇女 倭迹迹日百襲姫を祀る神社を訪れたので紹介しておきます。香川県東かがわ市にある艪懸神社と水主神社、高松市の田村神社と船山神社の四社です。そして最後に伝説について考えてみましたので、よろしければ最後までご覧ください。 艪懸神社(艪縣大明神) 倭迹迹日百襲媛命は倭国の争乱を避けて大内郡馬篠浦に着き、その艪を掛た場所に祠をたて
神功皇后の伝承地を巡る旅 ⑤ 香川編 香川県坂出市に五色台という瀬戸内海に張り出した山塊があります。そこに神功皇后ゆかりの喜佐波神社と梅宮八幡神社があり、王越山という秀麗な神奈備の南北に位置します。今回はその王越町に伝わる伝承から神功皇后を考えてみます。 喜佐波神社 仲哀天皇が神功皇后と共に征西の途中、この木澤浦に軍船を泊め、当地で天神地祇を祀ったのが始まりと伝わります。御祭神は天照皇大神、伊弉諾尊、伊奘冉尊。 梅宮八幡神社 社伝によれば、神功皇后が三韓征伐の折、
欠史八代 第十一話 第七代 孝霊天皇 ③ 今回は、吉備津彦の物語から「製鉄」を考えてみたいと思います。 あらすじ 阿曽の里人々が幸せに暮らしていたところ、百済の王子である温羅がやってきて、足守川流の新山に城を築き岩屋に住みついた。温羅は悪行の限りを尽くし、里人たちを苦しめた。そこで、里の人々は朝廷に陳情し、吉備津彦が派遣された。吉備津彦は吉備の中山に陣を据え、西に石の楯を築いた。そして温羅との戦いに勝利し、再び阿曽の里に平和が戻った。というお話です。 この物語では
岡山県倉敷市にある弥生時代の王墓、楯築遺跡。この遺跡は「古墳」ではなく「墳丘墓」になります。奈良県桜井市の纏向遺跡にある箸墓古墳で前方後円墳が定型化される約半世紀前、2世紀後半に造られた弥生時代最大級の墳丘墓です。 場所楯築遺跡は、岡山市北区との境に位置する倉敷市矢部にあります。遺跡の東側を流れる足守川流域は多くの弥生集落が点在し、このエリアは古代吉備の王都とも言える場所です。遺跡はその全体を見渡せる標高45mの小高い丘の上にあります。 時代墳丘墓の築造年代は2世紀後半
欠史八代 第十話 第七代 孝霊天皇 ② 今回は少し違った角度から「欠史八代」を考えてみたいと思います。『古事記』と『日本書紀』本文に記される欠史八代天皇の皇后・妃、皇子、皇女の数を数えてみました。それぞれの皇子を見ると、一柱は次の天皇になられた方ですので、全26柱から8柱を引いて18柱。今回はその十八柱の皇子の封ぜられた地方、その皇子を祖とする氏族が本拠とする地域について考えてみたいと思います。 天皇 后妃 皇子 皇女 ② 綏靖天皇 1
神功皇后の伝承地を巡る旅 ④ 吉備編 岡山県の神功皇后の(往路)伝承地は、岡山市・倉敷市・玉島市などにありますが、未見のものもあるので、今回は一番有名な瀬戸内市牛窓の伝承を紹介したいと思います。 牛窓神社 五香宮 元は住吉宮でしたが、江戸時代寛文7年(1667)、藩主池田光政公の命により、京都の御香宮から神功皇后と応神天皇の神霊を勧請し、五香宮と改称したそうです。
欠史八代 第九話 第七代 孝霊天皇 ① 黒田廬戸宮 六代までは伝承地が南部に集中していましたが、第七代 孝霊天皇はいよいよ奈良盆地の中央部に移ります。磯城郡田原本町黒田の法楽寺には孝霊天皇黒田廬戸宮伝承碑が立っています。また、法楽寺から南東へ500mほどのところには、孝霊(廬戸)神社があります。 唐古・鍵遺跡 黒田廬戸宮の近くには、奈良盆地最大の弥生遺跡である 唐古・鍵遺跡があります。皇紀を単純に西暦で表すと、孝霊天皇の在位は紀元前290−215年ですが、私の考える時代は
神功皇后の伝承地を巡る旅 ③ 播磨編 1 敏馬泊(前回記事参照)を出航した神功皇后一行は、明石へ向かいました。明石海峡を通過するには潮の流れをよく知る者が必要です。おそらく「野島の海人」が案内したのではないかと思われます。 明石海峡を拠点とするのが「野島の海人」、鳴門海峡を拠点とするのは「御原の海人」と呼ばれていました。そして、それら淡路島に点在する海人を統率したのが、倭直氏であったと考えています。 倭直氏は、神武天皇東征の水先案内人椎根津彦を祖とする氏族で、『日本書
欠史八代 第八話 第六代 孝安天皇 孝安天皇 『日本書紀』に記される歴代天皇の中で、最も長い寿命と在位期間を持つ天皇として記されています。 和風諡号は「日本足彦押人天皇」です。父は第五代の孝昭天皇、母は尾張氏の世襲足媛です。 皇后は、姪にあたる押媛(『古事記』では忍鹿比売命)で、皇子は第七代 孝霊天皇お一人(日本書紀)。(『古事記』は兄に大吉備の諸進命を記します)。 宮は葛城之室秋津嶋宮、陵は玉手丘上陵と記されています。 皇紀を単純に西暦に換算すると在位期間は紀元
神功皇后の伝承地を巡る ② 城南宮 平安京遷都に際し、国常立尊を、八千矛神と息長帯日売尊に合わせ祀って城南大神と崇め、都の守護と国の安泰を願い創建された城南宮。関西では方除けの神社として有名です。 「曲水の宴」が催される城南宮の神苑は、いま放送されているNHKの大河ドラマ『光る君へ』の主人公・光源氏の四季の庭を備えた大邸宅「六条院」に触発された白河上皇が造営し、院政の拠点とした場所(城南離宮)でもあります。 その城南宮の東の鳥居をご覧ください。 『日本書紀』は、仲
欠史八代 第七話 第五代 孝昭天皇 ヘッダー画像は、向かって右から孝昭天皇陵、大和葛城山、金剛山。 初代から第四代、神武、綏靖、安寧、懿徳天皇の御陵は畝傍山に築かれました。そして前々回の記事で、系譜をサザエさんに例えて、大和の 大地主神である大己貴神の血統を全て受け継いだことを書きました。 そしてこの第五代孝昭天皇から、新しいフェーズに入ったことを、『記紀』の記述から読み取ることが出来ると考えています。 宮の伝承地 まず宮の伝承地と御陵を確認しておきましょう。『日本
神功皇后の伝承地を巡る① ヘッダー画像は、木津川 水主の渡し碑 天皇と考えられていた 神功皇后 『日本書紀』全三十巻の中で、通常一巻を与えられるのは天皇だけですが、神功皇后だけは一巻が割かれています。このことからも、特別な存在であることが伺えます。和風諡号は気長足姫尊。『古事記』では息長帯比売命と表記されます。 そのため、『扶桑略記』(平安時代)などでは、「神功天皇」 と記され、第十五代天皇として、 治世69年を全うし、応神天皇を生んだ初の女性天皇として描かれていま
欠史八代 第六話 第四代 懿徳天皇 欠史八代の中でも、懿徳天皇は記事書くネタに困るだろうなと思って、『出雲国造神賀詞』を温存していました(笑)。 『出雲国造神賀詞』とは? 『延喜式』巻八の「祝詞」に収められている文書で、天穂日命に始まる出雲国造が新たに任命された際、朝廷で天皇の治世を祝して奏上した賀詞です。 この賀詞では、大己貴神の和魂を「大物主」という名で三輪山に祀り、御子神たちの御魂もそれぞれの神奈備に祀って、皇孫の守護神としていますという内容です。出雲か
欠史八代 第五話 第三代安寧天皇 後編 「安寧」とは、穏やかで平和な状態を表します。安寧天皇の時代は、果たしてそのような平和な時代だったのでしょうか?この「漢風諡号」は、奈良時代後期に淡海三船により、神武天皇から持統天皇までの諡号(死後におくる名前。おくりな)を一括撰進したと考えられています。 便宜上、私も漢風諡号を使いますが、『古事記』や『日本書紀』が奏上された頃には、神武天皇の名はなく、『日本書紀』には「神日本磐余彦火出見天皇」と記されています。同様に、安寧天皇に
欠史八代 第四話 第三代 安寧天皇 前編 記事を書くのが難しい欠史八代シリーズ。第三代安寧天皇についても事績が残っていません。そこで何を書こうかと考え、『古事記』を読み返してみると、なんということでしょう! 何度も読んできたはずなのに、今まで完全に見逃していた記述がありました! ・・と言うのは冗談で、以前からその記述は知っていましたが、どう解釈すればいいのか答えが見つからず、自分の中で放置していたのです。 淡道の御井宮 『古事記』によると、安寧天皇の第三皇子であ