神功皇后、四国に上陸する
神功皇后の伝承地を巡る旅 ⑤ 香川編
香川県坂出市に五色台という瀬戸内海に張り出した山塊があります。そこに神功皇后ゆかりの喜佐波神社と梅宮八幡神社があり、王越山という秀麗な神奈備の南北に位置します。今回はその王越町に伝わる伝承から神功皇后を考えてみます。
喜佐波神社
仲哀天皇が神功皇后と共に征西の途中、この木澤浦に軍船を泊め、当地で天神地祇を祀ったのが始まりと伝わります。御祭神は天照皇大神、伊弉諾尊、伊奘冉尊。
梅宮八幡神社
社伝によれば、神功皇后が三韓征伐の折、備前牛窓の海中にて牛鬼を討ち、木澤に上陸して王越山を越えて宮山に上られ、天神地祇に安胎平戎を祈願されたとあります。「王越」の地名はその事に由来するそうです。征韓後、無事皇子(応神天皇)が誕生。その後、宮山山上の白雲の中に八幡大神が示現されたのを以てその地に祠を建て、社を白雲梅宮八幡宮と称したとします。
牛鬼を討ったのは、牛窓の伝承では帰路の事ですが、こちらでは穴門の行宮(山口県下関市)へ向かう途中と伝わっているようです。位置関係からすると、「牛鬼」じゃなくて「塵輪鬼を討った」とすれば、二ヶ所の伝承は繋がるんですけどね。
牛窓伝説については以前の記事をご覧ください。
!!
「安胎を祈願された」ということは、王越へ停泊したとき、神功皇后はすでに妊娠していた ということになりますよね?!
◇仲哀2年正月11日
気長足姫尊(神功皇后)を皇后とされた。
◇仲哀2年3月15日
天皇、皇后を残して紀伊行幸
◇仲哀2年6月10日
天皇、穴門豊浦津に到着
◇仲哀2年7月5日
皇后、穴門豊浦津に到着
◇仲哀2年9月
宮居を建てる。穴門豊浦宮
この旅程でいくと、王越に停泊したのは穴門に着く1ヶ月ほど前の5月下旬から6月上旬と思われるので、共にすごした角鹿の筍飯宮で3月14日までに受胎すれば、王越で妊娠3ヶ月ですから、身体の変化に気づいた頃であった可能性があり一概に根拠の無い伝承とも言えません。
穴門豊浦宮での暮らしぶりは『日本書紀』に記載がありません。次に記されるのは実に5年4ヶ月後の事です(各地に、温泉に行ったとか、船の木材を探しに来たなどの伝承が伝わりますが・・)。
◇仲哀8年正月4日
筑紫に行幸
◇仲哀8年9月5日
熊襲討伐を協議
◇仲哀9年2月5日
仲哀天皇崩御
日付無し(出陣直前か)
神功皇后臨月で腰に石をはさんで
出産を遅らせるよう神に祈る
◇同年 10月3日
神功皇后対馬から出陣
◇同年 12月14日
神功皇后新羅征討を終え、筑紫で誉田天皇(応神天皇)を産む
『日本書紀』本文に従えばざっとこんな感じです。で、神功皇后が架空の人物だと主張する人は、「臨月で出陣するなんて無理だろう」、「石をはさんで出産を遅らせるなんてできやしない」等、
「だから創作」だと。
否定する部分に関しては『日本書紀』を正確に読んでおられます(笑)。
皆さんはこの話を神功皇后の英雄譚だと思いますか? 私はまだ胎内にいるうちから国の政を行った「胎中天皇」、つまり応神天皇の偉大さを示す誕生秘話だろうと思っています。
洋の東西を問わずこの手の誕生秘話はあります。「処女マリアが聖霊の力によって超自然的に身ごもりイエスを産んだ」、「釈迦は摩耶夫人(母)が自分の中に白象がはいってくる夢を見て右脇から生まれた。生まれた途端に、七歩歩いて〝天上天下唯我独尊〟と言った」など。
異常出生だからイエスも釈迦も実在しないんでしょうか? 古代の偉大な宗教家や英雄と呼ばれる人達に誕生秘話はつきものだとも言えます。
文献にはどこにも書いていませんが、王越の伝承などを元に妄想すると、本当のところは、応神天皇は穴門に着いてしばらくして生まれていたのではないかと考えられますし、穴門豊浦宮に居る5年余りの間に全く受胎せず、新羅征討に向う直前に妊娠したとするほうが不自然な感じもして、応神天皇の誕生秘話として話しを盛ってる気がします。
応神天皇の出生秘話は他にもあります。『住吉大社神代記』に「秘め事があった」と記されていることで、本当は仲哀天皇の子ではないんじゃないかとかですね…。
まぁ、そうした詮索は置いておいて、このあとも『記紀』が記す歴史の流れに違わず話しを進めていきたいと思います。
おまけ
讃岐へ来たら、やっぱりうどんかなということで、昼はこちらのお店へ。
最後までお読みいただきありがとうございます。次回は愛媛編です。