【感想】NHK 歴史探偵「宮沢賢治と銀河鉄道の夜」を視聴しました
2024年11月20日(水)22:00~22:45 歴史探偵「宮沢賢治と銀河鉄道の夜」を視聴しました。
<NHKのあらすじ>
宮崎駿監督や米津玄師に影響を与えた宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」。
CG再現した銀河鉄道に乗り、作品の魅力を調査する。
梶裕貴、鬼頭明里による賢治作品の朗読も必聴!
■プロローグ
●スタジオで
宮沢賢治のプロフィール
・1896年 岩手県花巻市で生まれる
・1918年 童話の創作を始める(22歳)
・1924年 「銀河鉄道の夜」執筆開始(28歳)
・1933年 結核を患い亡くなる(37歳)
童話100作、詩800作大変な数の作品を遺します。
佐藤所長「売れっ子作家だったのですか?」
生前は無名作家で、銀河鉄道の夜は戦後人気に火がついたのです。
■最先端の科学知識が反映
●生まれ故郷の花巻市
宮沢賢治記念館へ
・牛崎敏哉さん
原稿「銀河鉄道の夜」の1枚目、大正13年から9年間直し続け、未完のまま原稿が残りました。
ものすごい修正が書き加えられているのです。
死後、遺族が原稿を発表、戦後人気が高まり今も人気です。
●銀河鉄道の夜
主人公はジョバンニ、銀河鉄道に乗っていることに気づきます。
カムパネルラも乗っています。
白鳥の停車場、その後も、星座にちなんだサウザンクロス、南十字星に到着。
しかし、友だちのカンパネルラが川で命を落とし亡くなっていたのです。
ファンタジーに身近な人の死という深いテーマが織り込まれた傑作です。
どのように壮大な物語を思いつくことができたのでしょうか?
●ヒントを得た場所
国立天文台水沢(岩手県奥州市)
緯度観測所:世界6ヶ所に設置された観測所の一つでした。
・大江昌嗣さん
賢治は最先端の観測で、宇宙や銀河について学んだといいます。
●重大なヒント
8月6日10時55分の夏の夜空を観測します。
はくちょう座のど真ん中のサドルが天頂に来ました。
白鳥の停車場も到着時刻は11時でした。
8月6日は旧暦の七夕の時期、七夕を連想させる星祭が行なわれています。
ハクチョウ座が来る日を最初の駅に決めたと考えられます。
●CG再現
CGの銀河鉄道に乗り込んで調査します。
・渡部潤一さん(国立天文台)
物語と実際の宇宙はどう関係するのか?
物語の舞台、天の川銀河、銀河系になっています。
真横から見ると、大きな両面の凸レンズと物語で表現しています。
この事実が確認されたのは「反射天体望遠鏡」による20世紀初めのことでした。
『天文界之智嚢』天文学の専門書をいち早く読んで最先端の宇宙科学を学び物語に反映させていたのです。
帯状になった天の川、さらに星座を出してみます。
星座も巧みに物語に取り込んでいました。
・白鳥の停車場:ハクチョウ座
・わしの停車場:わし座
・くじゃく座:くじゃく座
・蠍の火:さそり座、赤い星アンタレス
星座のエピソードを順番通りに美しいストーリーにまとめていました。
渡部さん「賢治は研究し尽くして物語をうまく組み立てていったんですね」
●人生の生と死
終着駅のサザンクロス、十字のみなみじゅうじ座
家庭教師と幼い姉弟が乗ってきます。
タイタニック号事故で死への旅をするクリスチャンでした。
「十字架から十字架への旅の物語でした」
最新科学で人の生と死について描いたのです。
●スタジオで
佐藤所長「壮大な世界観、驚きです」
大島丈志さん(文教大学)
「賢治は好奇心が強い、星が好きで晩ごはんにも帰ってこなかった」
「国立天文台まで往復60キロ歩いて通いました」
「鉄道オタク乗り鉄です。新しい路線ができると理由をつけて乗りに行きました」
人の生と死に向き合うという魅力
「生と死のはざまの世界が舞台で、普遍的な生と死のテーマに切り込んでいます」
『千と千尋の神隠し』宮崎駿監督が銀河鉄道の夜をやりたかった。
米津玄師も影響を受けています。
佐藤所長「多くのアーティストに影響を与えているんですね」
そもそもどういう人物だったのか?
■どのような人生を辿ったのか?
●花巻の賢治
質屋を営む裕福な家庭の長男として生まれました。
宮沢賢治記念館に賢治の性格を物語る遺品があります。
愛用した「チェロ」1926KMというサインがあります、ケンジミヤザワ。
●チェロ
羅須地人協会へ
・大島さん
「チェロを弾いたり、オルガンを弾いたりした部屋です」
吉野淳さんにチェロを特別に演奏してもらいました。
ベートーベン交響曲第6番田園
「そんなに得意ではなかったと言われています。ゴーゴーと鳴らしたと言っています」
『セロ弾きのゴーシュ』
興味を持つとのめり込むタイプだったようです。
岩手医科大学(盛岡市)へ
・熊谷達也さん
手術のため入院した病院に当時の部屋が遺されています。
看護師に恋をしたと言います。
朗読:梶裕貴さん「十秒の碧きひかりの去りたればかなしくわれはまた窓に向く」
両親に結婚をしたいと訴えますが、却下され、初恋は実らなかった
25歳のとき父親と対立して東京へ行ってしまったことも。
■生き方を変える出来事
2歳年下の妹・宮澤トシ
一番の理解者ですが、トシが結核で24歳で亡くなってしまいました。
『永訣の朝』
朗読:梶裕貴さん、鬼頭明里さん「けふのうちにとほくへいってしまふわたくしのいもうとよ・・・」
「あめゆき取ってきて賢治」
トシの言葉に衝撃を受けました。
「うまれでくるたて こんどは こたに わりやのごとばかりで くるしまなあよに うまれてくる」
今度生まれてくる時は、自分のことばかりで苦しむのではなく、人の役に立つ生き方がしたい。
・栗原敦さん(実践女子大学)
「病気で自分のことだけで苦しんだ人生ではなく、人の役に立てるように生まれ変わりたいを受けて、現実行動への決断に大きく影響を受けたと考えられます」
●スタジオで
大島さん「銀河鉄道の夜もトシの死がきっかけとなった可能性があります」
賢治をより深く知るためのキーワードを集めました。
・肥料製造
・セメント原料採掘
・石材販売
・漁師
・人造宝石製造
大島さん「家業を継ぐのではなく、あれこれ模索して、東京で起業したいと言い出しますが父に反対され却下されます」
雨ニモマケズはどのように生まれたのか?
■雨ニモマケズはどのように生まれたのか?
●手帳
・宮澤和樹さん(賢治の弟の孫)
手帳のなかで、深刻な問題に触れていました。
「稲が育たない寒さの夏、しょっちゅうあったのです」
●冷夏を再現
・渡邊麻由子さん(岩手県農業研究センター)
田んぼに冷たい水を流して冷夏を再現、稲に及ぼす影響を調べています。
渡邊さん「実が入っていない、薄くてぺしゃんこになっている感じです」
やませの影響で夏でも最高気温が20度を下回り稲が育たないこともあります。
松庵寺餓死供養塔
・小川雄英さん(住職)
江戸時代から冷害による飢饉で死んだ人たちの供養の塔です。
明治35年凶作であったと言われています。
飢饉で人身売買の誘拐が横行します。
賢治は農家の惨状に胸を痛めていました。
●教師を辞め農村へ
・松田廣邦さん(下の畑保存会)
「下の畑」ここで、白菜、トマト、チューリップの栽培を始めます。
寒い土地でも育つ野菜や花を作って売ることで現金収入を増やそうと考えました。
農家をすくうためにとりくんだことがもう一つあります。
・板垣光彦さん(農家)
「陸羽132号、賢治が冷害に強い品種として推奨していたのです」
土壌学を学んでいた肥料指導をしました。
「まず田んぼの土をなめたりしていたんです。肥料が何が足りないのか分かっていたほど五感が優れてたんです」
肥料設計書
チッ素、リン酸、カリの割合が細かく記されていました。
肥料相談所を設け、朝から晩まで農家の相談を受けます。
田んぼを調査、設計書の数は2000枚に上ったといいます。
・横田紀雄さん(岩手県農業研究センター)
「化学肥料が普及しつつあるときでもありました」
ところが活動は思うように広がりませんでした。
「現金収入にはならなかった、最初のお金が捻出できなかったと思われます」
■挫折
なれない農作業に連日の肥料設計、ついに病に倒れ、40日間熱に苦しみ、結核でした。
活動中止、再び病状が悪化していきます。
手帳に書き留めたのが「雨ニモマケズ」でした。
宮澤さん「情けないな、役に立ちたかったけどできない、自分の願望を自分に向けて書いた言葉だったのです」
「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ 夏ノ暑サニモ負ケヌ 丈夫ナカラダヲ モチ・・・・」
2年後亡くなります、賢治37歳
●スタジオで
佐藤所長「ちなみに雨ニモマケズは原稿ではなく手帳?」
大島さん「完全にメモです。後に発見されて評価されたのです」
「心象スケッチ、心に映ったもの見たものをそのまま書く、読者がわからなくてもいい、読者はそこを埋めたくなる」
ーーーおわりーーー
次回は「美子皇后の明治」12月4日(水)22時放送です。
■感想
名前だけは教科書とかに出てきた記憶がありますが、読んだことはない宮沢賢治の作品。
番組としては賢治の人生が垣間見えて面白かったです。
ですが、捻くれ者の私としては、そんなにすごい人だったのか?という疑いの目で見ずにいられません。
昭和8年に亡くなっているので、生前に作品は評価されていないようです。
頭も良くて優等生ですが、お坊ちゃん育ちだった賢治は、道楽で何でも手を出すけど中途半端に挫折しています。
裕福な人によくあるのが、裕福な境遇の自分への批判です。
宮沢にとって貧農家を救うための営農指導も当時の流行のひとつだったから手を出したのでしょう。
ぼっちゃんの道楽と批判されたそうです。
飢饉の東北を嘆き、結核で亡くなる年は、東北も豊作だったとか。
経歴だけみていると、そんなに大したことはしていないし、作品も知られていない。
そして、無名の宮沢賢治が突然評価され始めるのは戦後のことです。
ここからは私見ですが、早逝だったこと、貧困層を救おうとしたこと、有名人が再評価し二次的作品を出したこと、これらの条件が重なって一躍脚光を浴びることになったのではないでしょうか。
NHKが急に取りあげる人物には「なにか魂胆あり」に思えてくる今日このごろです(笑)。