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小倉時代の細川氏とキリシタン

一年半以上前に書いた記事なのですが、upしてみようと思います。


 以前、佐々木小次郎キリシタン説を検証する記事を書いた。そこで、山口県阿武隈町にある佐々木小次郎のお墓がキリシタンらしきものに見られているということと、佐々木小次郎は細川小倉藩の剣術師範であったが、ガラシャ夫人の夫であった細川忠興氏の小倉領ならキリシタンがいてもおかしくないのではないかということを書いた。また、巌流島の戦いは、キリシタンへの取り締まりが厳しくなる原因となった岡本大八事件の直後に起こっていることも書いた。↓

今回は、その続編というか補記である。

 レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』やそれに負うところの多いシュタイシェンの『切支丹大名記』を読んでいたら、予想通り、小倉藩時代の細川忠興の領内には、たくさんキリシタンがいたということが書いてあった。それらの記述によると、1603年には忠興の娘二人がこっそり洗礼を受け、1604年には小倉で400名が洗礼を受けたという。1605年頃に日本には何とキリシタンが75万人もいて、若干の大名はキリシタンに好意を寄せており、忠興もその一人で、小倉藩内には司祭や修士がおり、忠興の息子の忠利もキリシタンに好意を寄せ、この年も新たに600名の受洗者が出たらしい。1610年には、小倉領内で2000名が受洗した。しかし、1611年、かつてガラシャの面倒をみたセスペデス司教が亡くなると、忠興は、突如、領内に宣教師や教会堂、キリシタンたちを置くことを望まない旨を宣言した。ただ、この時期は、まだ新規の受洗者などが400名以上おり、忠興の息子・忠利は引き続きキリシタンに好意を寄せていた。忠興のこの心変わりに宣教師たちは驚いたようだが、この時期は、まさにキリシタン二人が絡む岡本大八事件が発覚した頃であるから、元々キリシタンと近しい関係にあると思われている自覚のあった忠興は、セスペデスが亡くなったのを機に、いっきにキリシタンたちの追い出しにかかったのかもしれない。『切支丹大名記』には、細川の子二人は、1632年までは宣教師を保護していながら、重臣に迫ってキリシタンを若干殺させたと書いてある。「細川の子二人」が誰を指すのかよくわからないが、そのうちの一人は忠利のことだろう。この年、忠利は、改易となった肥後加藤家の跡をうけて、熊本城主となり、忠興は隠居として八代城に入っている。宮本武蔵は、その4年後の1640年に忠利の客分として招かれている。カトリック中央協議会のHPには、高山右近に仕え、右近追放後は、細川忠興に仕え、小倉の総家老にまでなったキリシタンの加賀山隼人が、1611年以降、信仰を貫いたため、家老職を解かれ、1619年に小倉郊外で斬首されたこと、またこの加賀山隼人の娘たちが、細川氏の熊本への移封に際し、同行を命じられ、1636年に殉教を遂げたと書いてある。↓

尚、加賀山隼人が1619年に処刑されたのは、同年の元和の京都大殉教の影響によるようだ。

 こうして見てくると、細川氏と宮本武蔵の動きは、キリシタン情勢と やはり関連していたのではないかと思えてくる。今後、佐々木小次郎方面からも
考察をすすめてみたいが、こちらは時間がかかりそうだ。

(標題は、永青文庫所蔵の細川忠興の肖像画)

改易に至った肥後加藤家のお家騒動の関連記事はこちら。↓

 (参考資料
①『日本切支丹宗門史』(上)(中)(下)、レオン・パジェス著、クリセル神父校閲、吉田小五郎訳、岩波文庫、1991年
②『切支丹大名記』シュタイシェン著、吉田小五郎訳、大岡山書店、1930年
③「ディエゴ加賀山隼人とその家族」カトリック中央協議会HP
④「細川家最後のキリシタン重臣である加賀山隼人と小笠原玄也の殉教に関する一次資料の発見」熊本大学HP)


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