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戦国時代の一途な愛!?:側室を持たなかった戦国武将

戦国時代において、家を守ること、つまりは男の子を産み跡を継がせることは重要なことでした。そのため、戦国武将は1人の妻だけをもつのではなく、側室を持つことが一般的。
しかし、そんな時代において側室を持たず、妻だけを愛した武将たちがいます。貧乏に共に耐えてくれたためや、妻の尻に敷かれていたなど、その理由はさまざまです。
今回は、側室を持たなかった戦国武将を4人ご紹介します。


夫の留守を守る妻と一途な夫:黒田官兵衛


黒田官兵衛は、豊臣秀吉の軍師として活躍した人物です。非常に頭がきれ、三木合戦や備中高松城の水攻めなどで活躍しました。
そんな官兵衛の妻は「光姫(てるひめ/みつひめ)」。
赤松家の重臣・櫛橋伊定の娘で才色兼備な女性だったと伝わっています。
夫の官兵衛が敵に幽閉され1年間音信不通になった時も、太閤:秀吉の軍師として各地を巡っているときも、夫のいない黒田家を支えていたようです。

官兵衛はそんな光姫のみを愛し、側室を持たなかったと言います。
その背景には、官兵衛がキリシタンであったことがあるようです。
キリスト教では重婚は禁止なため、側室を持つことに抵抗があったのではないか、と言われています。そのため、熱心なキリシタンであった官兵衛は、側室を持たなかったとされているのです。
さらに光姫が才色兼備な優秀な女性であったため、お家のことを1人で任せやすかった、という側面もありそうです。

光姫は浄土宗の信者でしたが、夫の官兵衛がキリシタンであったため、先だった夫の葬儀はキリスト教の宣教師を招いて行いました。
互いが互いのことを尊重し、信頼していた夫婦だったようです。

主君は裏切っても妻は裏切らない:明智光秀と煕子


明智光秀は、足利義昭や織田信長の家臣として活躍した人物です。
本能寺の変を起こしたことで裏切り者のイメージが強いですが、天王寺の戦いや丹波攻めなど、信長の家臣として活躍した人物でもあります。

そんな光秀の妻は「明智熙子(あけちひろこ)」。
美濃国妻木氏の娘で、非常に美しい女性だったと伝わっています。その美しさは、あの織田信長もその美しい顔が見たくて、後ろから抱きしめてしまうほど。これに対し、熙子は扇で打って信長を撃退。しかしこの時すでに、光秀と結婚していたため、信長は光秀に嫌がらせをするようになったとも伝わっています。この出来事が、本能寺の変を起こした動機の一つだと考える歴史家もいます。

そのような美女と伝わる熙子ですが、結婚前に「天然痘」にかかり、左ほほに痘痕が残ってしまいます。そのため熙子の妹を替え玉として光秀に送りますが、光秀はそれを送り返し、煕子を改めて妻に迎えたとされています。

その後光秀は、仕えていた主君が死に、浪人(無職)に。しかも、国にいられなくなり、家族ともども隣の国へ逃げることになってしまいます。この時の熙子は妊娠中。身重の体での逃避行を余儀なくされます。

無事に越前国に逃げ延びますが、仕官先が見つからず厳しい生活が継ぐ明智家。そんな時、光秀が越前国の戦国大名「朝倉義景」(あさくらよしかげ)の家臣と連歌会を行う機会に巡り合います。しかし貧しい明智家には、連歌会を開くお金がありません。そこで熙子は、自分の長く美しい黒髪を切って売り、資金を用意したといいます。連歌会は無事成功し、仕官に成功した光秀。その後何度か主君が変わり、生活も向上しますが、光秀は側室を持たず熙子のみを愛したと言います。

2人の間には三男四女を授かり、その中には、美女として有名な細川ガラシャ(お玉)も含まれています。
煕子は1576年に光秀を残し死去。当時は妻の葬儀に夫が参列することはまれでしたが、光秀は葬儀に参列した記録が残っています。

光秀の女性関係にはさまざまな説があり、側室が2人ほどいたとも言われています。しかし、貧しい時代を支えてくれた熙子への光秀の愛は、相当大きかったことが伺えます。

男児が産まれずとも側室は取らない:前田利長と永姫


前田利長は、織田信長や豊臣秀吉に仕え、数々の合戦でその勇猛さを発揮した武将です。特に『槍の又左』の名で知られ、九州征伐や浅井畷の戦いで活躍しました。

そんな利長の妻は「永姫(えいひめ)」。
織田信長の娘で、わずか7歳で利長の正室になっています。(利長は19歳)
利長と永姫は、互いに深い信頼と愛情をもって結ばれ、夫婦仲は非常に良好でした。しかし2人の間には男児を授かることなく、側室を持つことを勧められますが、利長は側室を持ちませんでした。
そのため、異母兄弟である「前田利常(まえだとしつね)」を養子に迎え、家督を相続させました。その後、1614年に享年53歳で、妻を残し亡くなります。

利長が側室を持たなかった理由は、定かではありません。結婚当初は妻が幼く、主君である信長の娘であることから側室を持ちにくかったとは思いますが、信長死後も側室を持たなかった理由はわかりません。いずれにせよ、利長と永姫の間には、強い絆があったことは間違いないでしょう。

妻の尻に敷かれた2代将軍:徳川秀忠とお江


徳川秀忠は、江戸幕府の2代将軍であり、徳川家康の3男として産まれました。
戦においては大きな活躍は残っていないものの、2代将軍として「武家諸法度」や「禁中並公家諸法度」を徹底し、徳川幕府の基盤を固めました。

そんな秀忠の妻は浅井長政の3女:「お江(おごう)」です。
姉に秀吉の2人目の妻として有名な、「茶々(ちゃちゃ)」、のちの「淀殿(よどどの)」がいます。
徳川将軍家と言えば、華やかな大奥が有名ですが、秀忠は公的には側室を持ちませんでした。なぜなら、秀忠は恐妻家として知られ、側室を持つことすらできないほどお江に圧倒されていたのです。

秀忠は17歳で6歳年上のお江と結婚。それまでのお江は、すでに2度結婚しており、いずれも豊臣秀吉の意向によるものでした。お江は当時、豊臣秀吉の養女となっており、秀忠との結婚も家同士の関係強化が主な目的だったと考えられます。
お江は23歳にして多くの経験を持ち、しかも関白の養女という立場もあって、忠は側室を持つことやお江を軽視することはできなかったのでしょう。

とはいえ、夫婦仲が悪かったと言うわけではないようです。2人の間には、ニ男五女に恵まれています。最初の4人は女の子であったため、秀忠は側室を持つことを勧められていますが断ったようです。
その後、無事男の子が産まれ、のちの3代将軍:家光となります。

一方で唯一の例外がありました。秀忠はお江以外に公式な側室を持ちませんでしたが、女中との間に男の子を1人もうけています。この子は、お江の目に触れぬよう、養子に出されました。秀忠の「恐妻家」ぶりに揺らぎがなかったことを物語っています。

お江の尻に敷かれていた秀忠ですが、夫婦仲は良く、信頼関係はあったようです。

まとめ

ここまで、側室を持たなかった戦国武将を紹介しました。
戦国時代の夫婦関係も多少多様。価値観や文化が現代と異なるとはいえ、順風満帆な夫婦生活を送るのは、いつの時代も難しいようです。


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