【漫画】「望月の歌」ってどんな意味? ー 藤原道長は傲慢な歌を詠んだわけではなかった!?
平安時代の有名人、藤原道長の和歌 ー この世をば 我が世とぞ思ふ望月の かけたることもなしと思へば ー。
摂関政治の絶頂を極めた彼が、「この世は自分のものである。望月に欠けたところがないように私にも欠けたところがないのだから…」と自らの栄華を誇りに詠んだ傲慢な歌と言われてきましたが、果たしてそうなのでしょうか?
近年この和歌に新しい解釈がなされ、私たちにこれまでと異なる道長像を見せてくれています。
この「望月の歌」の新釈は、当時の政治状況とそこに関わるキーパーソン・藤原実資、そして紫式部と道長の関わりを知るとより深く理解できます。
ますは「望月の歌」を詠んだとき道長が置かれていた状況から、順番にみていきましょう…!
摂関政治の絶頂を極めた道長 ー 「望月」の夜に三后独占を果たした
「望月の歌」が詠まれたのは寛仁2(1018)年10月16日。
道長の三女・威子が、時の後一条天皇の中宮(最も位の高い后)となった祝いの宴でのことでした。
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この時代の貴族たちは権力を得るため天皇の外祖父となることを目指しています。自分の娘を天皇に嫁がせ、その娘が産んだ孫を次の天皇にすることで、天皇の祖父として摂政・関白の地位につき意のままの政治をしようというのです。
道長は、父そして二人の兄が相次いで亡くなったあと、20年間左大臣(国政を与る公卿のトップ。現代でいえば内閣総理大臣)を務めてきましたが、摂政や関白ではありませんでした。
当時の帝、一条天皇もその次の三条天皇も、道長の甥で血縁ではあるのですが、やはりスムーズな関係というわけにはいかず…道長も権力を盤石にするため摂政の座を目指します。
まず長女・彰子を一条天皇に、続いて次女・姸子を三条天皇がまだ東宮のころに入内させ、それぞれ中宮の地位につけることに成功しました。
運も味方したのでしょう。寛弘5(1008)年、彰子が男児を産んだことで道長に外祖父の道が開けます。
その後、強引に自分の孫を東宮にし、2人の天皇に退位を迫り…念願叶って孫(わずか9歳!)が後一条天皇として即位し、道長が摂政に就任したのが寛仁元(1016)年のことでした。
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こうして摂関政治の絶頂を極めた道長ですが、同年12月に左大臣を、翌3月に摂政を辞し、息子・藤原頼通に跡を継がせました。
50歳を目前にした道長は病気で体調を崩すこともしばしばで、自身に力のあるうちに後継体制を整えておきたかったのでしょう。
寛仁2(1018)年、道長の孫・後一条天皇が11歳で元服すると、三女・威子を入内させ、中宮としました。
当時「后」と言われた地位は以下の三つ。
道長の長女・彰子、次女・姸子、三女・威子が三后を独占するという未曾有の事態を実現させたのが、「望月」の夜だったのです。
「望月」の夜の様子と歌の意味 ー 盤石な後継体制のために…気になる藤原実資の存在
寛仁2(1018)年10月16日の夜ー。
内裏の紫宸殿で立后の儀が行われたあと、道長の家・土御門邸で祝いの宴が開かれました。
参加者は、まず庭に列立し慶賀を述べ、次いで寝殿の東側の建物で宴に招かれます。その後、新中宮・威子の御前の南の簀子の間に公卿たちが召され、二次会的な宴が始まりました。
食事が出され、音楽が入り、皆の酔いもまわってすっかり盛り上がった頃、道長は、公卿の一人・藤原実資に「我が子に酒を勧めてくれんか?」と戯れをもちかけます。
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この藤原実資という人物。
一般的にはあまり知られていないかもしれませんが、長年参議を務め、道長にも忌憚のない意見を言える貴重な存在でした。
彼は『小右記』という日記(現代のような”日記“ではなく、儀式や政務の詳細を子孫に伝えるため漢文で書かれた古記録)を残しており、私たちが道長の「望月の歌」を知れるのも、彼の記録があってこそなのです。
そして道長が酒を勧めてくれと言った「我が子」とは藤原頼通。道長の後を継いで前年に摂政になりましたが、まだ27歳の若者です。
道長は、酔いに乗じて、わざわざ実資を名指しし息子・頼通に酒を注いでくれと言ったのです。
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実資はこれに快く応じ、道長の息子・頼通に酒を注ぎました。
そして頼通は左大臣・藤原顕光に、顕光は道長に、道長は右大臣・藤原公季に酒を注ぎ、盃が5人の間を巡ります。
その後、参加者に禄を賜る際道長は「親がもらう子からの禄はあるかい」と冗談を言うご機嫌ぶり。そして会がお開きになる頃実資を呼び、こう言いました。
そうして詠まれたのが「望月の歌」だったのです。
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歌を聞いた実資は「優美な歌で返歌のしようがない。皆でただ詠じてはどうか」と提案し、一同で繰り返し「望月の歌」を吟詠します。
これまで絶対的権力者・道長への追従、媚びなどと解釈されてきた場面ですが…それもこの歌が、空に浮かぶ満月に自身に準えた栄華を誇る意味に解釈されてきたためでした。
ところが、この日は16日。十五夜、つまり”望月”の夜ではないのです。
「少し欠けた十六夜の月が浮かぶとされた16日に望月を読むのは不自然ではないか?」「道長の”望月”には何か別の比喩が込められているのではないか?」
そうした視点でこの歌を見直した際、盃を酌み交わした様子が和歌と共に詳しく記載されていることが注目され、道長は「望月」に「盃」と「后」の二つの意味を込めたのだという説が唱えられました。
「望月」は「皆で回した盃」と「3人の娘が揃って后になったこと」、そして和歌の定石通り「このよ」は「この夜」と「この世」、「我が世」は「わが生涯」や「わが世の春」といった意味だとすると「望月の歌」は次のような意味になります。
山本淳子氏の新釈に沿ってこのように捉え直すと、和歌の印象は自身の栄華を誇る傲慢な歌から、皆の協力を喜ぶ協調の歌にガラリと印象が変わるでしょう。
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このとき既に孫・後一条天皇を即位させ、息子・頼通に跡目を譲り、3人の娘を后の地位につけた道長。左右の大臣をはじめとするほとんどの公卿は彼の味方でしたが、実資だけはどう出るかわかりません。
これまで道長を批判することもあった実資が、若くして摂政となった息子・頼通を支えてくれるのか、自分の作った後継体制に協調してくれるのか…道長はそのことを懸念していたからこそ実資に息子・頼通に酒を注いでくれと頼んだのでしょう。
田中智子氏の論文によると、和歌の世界で「この世」は「あの世」を意識させる語、「我が世」は確かに「わが世の春」といった意味なのですが、「時めくことを待ち望みながらもかなうことなく、年老いたときに悔恨の念で嘆じるもの」であり、どちらもネガティブな雰囲気を感じさせる言葉だったようです。
それを踏まえて「望月の歌」の上の句「この世をば我が世とぞ思ふ」を見ると、少し不安な響きも感じられます。
「望月の歌」は栄華を誇る驕りを読んだ歌ではなく、強引に築いた体制がいつまで続くかという不安と、その不安を払拭するかのような、「盃を回した参議たちの結束」と「三人の后」の慶びを込めたものだったのかもしれません。
10年前に紫式部が詠んだ「望月の歌」 ー 実際は人前で詠んでいない??
最後に紫式部について触れておきましょう。
道長の「望月の歌」のように「月」に「后」と「盃」の両方を掛けた歌の数少ない例として挙げられるのが、紫式部の次の歌。
この歌は道長の孫・のちの後一条天皇の誕生祝いの際に詠まれたものと記録されているのですが、『紫式部日記』によると、彼女はこれを考えただけで人前では披露していないようなのです。
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誕生五日の産養の酒宴の席で、紫式部をはじめ女房たちは、自分たちにも酒が回ってきて一芸を披露するよう命じられるのではと緊張します。そのときのために皆それぞれに歌を捻るのですが、紫式部が考えたのがこの歌です。
「月」と「后」そして酒を注いだ「さかづき」を皆で「もち」、「めぐらす」…といくつもの意味が掛けられた祝いの歌でした。
『日記』をそのまま読めば、結局女房たちに酒は巡ってこず、紫式部がこの歌を詠ずることもなかったようなのですが…道長はどこかでこの歌に出会っていたのでしょうか?だとすると『紫式部日記』を読んで覚えていたのか、別のところで耳にしたのか…紫式部と道長の関係を考えるとなかなか興味深いです。
いずれにしても和歌に通じ、良い歌を記憶するというのも、道長のあまり知られていない面かもしれません。
【参考】
田島智子(1995)「道長詠「この世をば」歌の背景:長和・寛仁年間の道長と実資」『詞林』第17号、大阪大学古代中世文学研究会
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/67364/shirin17_001.pdf
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