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倭迹迹日百襲姫伝説

欠史八代 第十二話 第七代 孝霊天皇 ⑤ 皇女 倭迹迹日百襲姫やまとととひももそひめ

 欠史八代シリーズ、第八代 孝元天皇へ進もうと思ったのですが、四国へ行って、孝霊天皇の皇女 倭迹迹日百襲姫を祀る神社を訪れたので紹介しておきます。香川県東かがわ市にある艪懸神社と水主神社、高松市の田村神社と船山神社の四社です。そして最後に伝説について考えてみましたので、よろしければ最後までご覧ください。

艪懸ろかけ神社(艪縣大明神)

 倭迹迹日百襲媛命やまとととひももそひめのみことは倭国の争乱を避けて大内郡馬篠浦に着き、その艪を掛た場所に祠をたてて奉じたと伝わります。水主神社の旧社地という説もあるようです。

一の鳥居
首途神かどでのかみとも言われ、海を行く者は必ず参詣したそうです
由緒書
小高い丘の上にあります。往時はこの当たりまで海だったようです。
艪掛松 新しく植え替えたのかな?
海が見渡せなかったので
500mほど先の馬篠漁港まで行ってみました。



水主みずし神社


 社伝によると、「倭迹迹日百襲姫は、今から二千有余年前、奈良の黒田廬宮くろだのいおどのみや(孝霊天皇の宮)を出て、「うつぼ船」に乗って西へ流れて、安堵あどの浦(香川県東かがわ市引田町)に流れ着いた。そして水の清い所を求めて水主の里宮内に移り住み土人とちのひとに米作りを伝え、水路を開き、雨祈で雨を降らせた」とされます(要約)。

一の鳥居
社号標と本宮ほんぐう
由緒書 熊野信仰に注目したいです
御神木
うつぼ船
拝殿
本殿祭神 倭迹迹日百襲媛命、右殿  (うしろから撮っていますので画像では左)に 母 倭国香姫命を祀る「国玉神社」、左殿は水主三社(後述)が祀られています。
本殿の真裏に父 孝霊天皇を祀る孝霊神社
国玉神社 御祭神 倭国香姫命



田村神社


 高松市にある讃岐国一宮で、式内社(名神大)、国幣中社、神社庁別表神社。御祭神は田村大神。倭迹迹日百襲姫、五十狭芹彦命(吉備津彦命)、猿田彦大神、天隠山命(高倉下命)、天五田根命(天村雲命)の五柱を総称して田村大神とされます。

高倉下命は「熊野三党」の祖神でもあります。


手水舎
『延喜式神名帳』に載る古社ですが、本来は水神を祀る社であったと考えられています。
拝殿
ところ狭しといろんな神様を祀る社がありました。まるで神様のテーマパークのよう。それぞれに賽銭箱が用意されていますので、小銭は多めにご用意を(笑)



船山神社


 御祭神は田村神社と同じ五柱です。水主神社の地で過ごした倭迹迹日百襲姫は、この地へ移り住み、さらに前述の田村神社の地へ移ったとされます。

讃岐にも吉備津彦信仰があって、それがいつしか姉である倭迹迹日百襲姫と水神を結びつけた信仰へ変わっていったと考えられているようです。

由緒書
拝殿
本殿と天然記念物のクスノキ
香川県指定天然記念物の「クスノキ」



今回紹介した香川県の神社4社と吉備津神社、淡路島の五斗長垣内遺跡・御井の清水・大和大国魂神社



 香川の倭迹迹日百襲媛命伝説を考える


その一 熊野信仰とのかかわり


 増吽僧正ぞううんそうじょう(1366-1449) は、讃岐国与田村の生まれで「弘法大師の再来」と称され、岡山県や香川県の荒廃した寺の復興に尽力した人物と伝わります。

水主は中世は増吽僧正によって、那智山・本宮山・虎丸山を水主三山(熊野三社)とする熊野信仰の社であったようです。水主神社本殿左には水主三社として本宮・新宮・那智神社が祀られています。

水主三山と水主神社の位置
那智山


 熊野と言えば、熊野速玉大社の神職を務めた榎本氏・宇井氏・穂積氏(藤白鈴木氏)を「熊野三党」と呼びます。この熊野三党の祖神は、神武天皇東征の折に熊野で窮地を救った高倉下命たかくらじのみことです。


和歌山県新宮市 神倉神社 ことびき岩
由緒書


 田村神社と船山神社の御祭神は、倭迹迹日百襲姫と吉備津彦命、そして高倉下命と天村雲命で(導きの神は八咫烏ではなく猿田彦神になっていますが・・)、今回紹介した四つの神社が熊野信仰でつながっていることがわかります。


    他の地域で、熊野信仰と倭迹迹日百襲姫が結びつく例を私は知りません。


なぜ倭迹迹日百襲姫なのでしょう?


香川にも桃太郎伝説がありますが、増吽僧正ぞううんそうじょうによって吉備の吉備津彦信仰が伝えられ、元々水神であった地主神が、「彦」「姫」一対の開拓神へ発展したとも考えられます。あるいは、往古から当地に倭迹迹日百襲姫命の伝承があってそれが熊野信仰と習合したのでしょうか?

 

その二 もし古い伝承があったとすれば・・

 【記紀】には倭迹迹日百襲姫に関する讃岐の記述は見当たりません。しかし、『古事記』に、第三代安寧天皇の孫である和知都美命わちつみのみことが「淡道の御井宮に坐しき(いらっしゃった)」とあり、そのみこには二人の娘、蠅伊呂泥はえいろね蠅伊呂杼はえいろどがいたと記されます。「イロネ・イロド」は同母の姉と妹を指し、ハエの娘の姉と妹ということになります(詳細は以前の記事を参考にしてください)。


 姉の別名を意富夜麻登久邇阿礼比売命おおやまとくにあれひめのみことといい、『日本書紀』では倭国香媛やまとのくにかひめと記されています。彼女が倭迹迹日百襲姫の母です。

 和知都美命が淡道の御井宮にいたことから、娘である倭国香媛もそこで生まれ育ったと考えられます。淡路島から孝霊天皇の黒田廬宮くろだのいおどのみやに嫁し妃となった倭国香媛ですが、その立場は「きさき」であり、第八代孝元天皇の母である細媛命くわしひめのみことが「皇后」です(日本書紀)。


 あくまで想像にすぎませんが、「皇后」と「妃」の関係はどの時代も複雑です。倭迹迹日百襲姫命は「妃」の子として生まれ、幼少期に宮中での災厄を避けるため、母の故郷である淡路島に避難し、その後讃岐へ流れ着いたというストーリーもありえなくはないと思います。


 幼少期のことは文献に記載が無く想像するしかありませんが、 『日本書紀』は、崇神天皇の御代に倭迹迹日百襲姫やまとととひももそひめが占いによっておおいに天皇を補佐し、大物主神の妻となって、箸墓はしのみはか(大市墓)に眠ることを記します(古事記には記載なし)。


ここからが本題なのですが、下書きしているとかなり文字数が多くなりそうなので、この続きは「古墳を訪ねる ④ 箸墓古墳」としてまとめたいと思います。近日公開します。


最後までお読みいただきありがとうございました。


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