親鸞聖人が「念仏」を信じた理由とは【英語で歎異抄】
鎌倉時代の書物ながら、現代にも通じる教えが記された『歎異抄』。親鸞聖人のお言葉を収めたものですが、その内容はときに難解だと評されることも多いです。本連載では、全十八条の中からその一節を抜粋し、英語と日本語で解説します。英語版『歎異抄』に触れる事で、仏教・浄土真宗をよりさまざまな角度から見ることができ、新たな気づきが見つかるはずです。
『歎異抄』第二条
A Record in Lament of Divergences, 2
As for me, I simply accept and entr ust myself to what my revered teacher told me, “Just say the nembutsu and be saved by Amida”; nothing else is involved. I have no idea whether the nembutsu is truly the seed for my being born in the Pure Land or whether it is the karmic act for which I must fall into hell. Should I have been deceived by Master Honen and, saying the nembutsu, were to fall into hell, even then I would have no regrets. (Collected Works of Shinran, p.662)
【原文】
親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。(『註釈版聖典』832頁)
【現代語訳】
この親鸞においては、「ただ念仏して、阿弥陀仏に救われ往生させていただくのである」という法然聖人のお言葉をいただき、それを信じているだけで、他に何かがあるわけではありません。念仏は本当に浄土に生まれる因なのか、逆に地獄に堕ちる行いなのか、まったくわたしの知るところではありません。たとえ法然聖人にだまされて、念仏したために地獄へ堕ちたとしても、決して後悔はいたしません。(『現代語版聖典〈歎異抄〉』5頁)
【今回の英単語】
entrust : 信じまかせる、ゆだねる
my revered teacher : 私の尊敬する師(=浄土宗の宗祖・法然聖人のこと)
the seed for my being born in the Pure Land : 浄土に生まれる因(タネ)
the karmic act for which I must fall into hell : 地獄に堕ちる行業(おこない)
deceive : だます、あざむく
no regrets : 後悔がない
自身の信仰について、真摯で厳しい姿勢
はるばる訪れた東国の人たちに対し、親鸞聖人は意外にも、「『ただ念仏して、阿弥陀仏に救われ往生させていただくのである』という法然聖人のお言葉をいただき、それを信じているだけで、他に何かがあるわけではありません」と言い切られます。そこまで言い切られる理由はどこにあるのでしょうか。
親鸞聖人は九歳で天台宗僧侶になり、比叡山で過酷な修行に励まれたことで知られています。しかし、それでも自力で仏になれない、仏の境地に近づくこともできない我が身であると言われます。
I am incapable of any other practice, so hell is decidedly my abode whatever I do. (Collected Works of Shinran, p.662)
いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
(『註釈版聖典』832頁)
(どのような行も満足に修めることのできないわたしには、どうしても地獄以外に住み家はないからです。『現代語版聖典〈歎異抄〉』5頁)
他の行に励むことで仏になれたはずの自分が、それをしないで念仏したために地獄へ堕ちたというのなら、だまされたという後悔もあるでしょうが、あらゆる行も満足に修めることのできない聖人ご自身にとっては、どうしても地獄以外に住み家はないという心持ちだったのです。
その認識のなか、「ただ念仏して、阿弥陀仏に救われ往生させていただくのである」という法然聖人のお言葉に出遇い救われたのですから、たとえ法然聖人の教えが嘘で地獄に落ちる結果だったとしても、「そもそも自分は地獄行き間違いなしのわが身なのだ」とおっしゃるのです。ここに親鸞聖人の信仰の据わりを感じます。
今回の範囲は、Seed を種ではなく因と翻訳していたり、practice を練習ではなく行と翻訳していたり、仏教の特徴がうまく表現された翻訳が目立ちます。以前も出てきましたが、believe という語を使わず、entrust という語を使うことによって、他力的なニュアンスを強めているところも注目です。
南條 了瑛(なんじょう・りょうえい)
龍谷大学大学院文学研究科博士後期課程修了、博士(文学)。専門は真宗学。現在、東京都中央区法重寺住職、武蔵野大学仏教文化研究所客員研究員、築地本願寺英語法座運営委員、東京仏教学院講師や複数の大学で非常勤講師をつとめている。本願寺派布教使、本願寺派輔教。