私自身の場合は、<私>それ自体を創出する力をこの<私>の方から探究する。つまり無限を有限それ自体の内部から探究するという方向に近いが、無限を有限に切り替える力としての自由を無限それ自体<>との関係において探求する。この点が永井哲学とも入不二哲学とも違う点
入不二哲学は有限を探究する場合にも無限それ自体の内部から探究する。永井哲学も無限を探究するがそれを有限それ自体の内部から不可能なものとして探究することになる。つまり永井哲学は物自体を残している。
哲学の力とは、今ここで、この私が世界の果ての彼方の無限遠点 (point at infinity)へと到達し、同時にその到来に出会う自由という力
拙稿『形而上学』は、永井 均氏の助言に従って「中高生ぐらい(まあまあ頭はよいけど知識はまったく何もない)を読者に想定して」(永井氏の言葉)リライトしていくことになります。かなり大変な仕事になりますが、これかはやって来る艱難の時代を前向きにサバイブしてやり遂げようと思います。