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試論「私はすでに死んでいる」Ⅰ

 普段科学技術を親の仇の如く憎んでいる私も、死に対する恐怖だけは如何ともしがたいので、お願いだから私の寿命(おそらくあと60年くらいだろうか?)が来る前に、科学技術による人間の不死を人類が達成することを祈ってやまない。

 なぜ死を怖がるかについての説明はすでに何度も記事で書いてきたが、要するに、私が死ぬという事態は実は世界の消滅を意味しており、その事態だけはあらゆる犠牲を払ってでも成し遂げなければならないと考えているからだ。

 私が死ぬという事態は実は世界の消滅を意味している、というのは独我論のことか?お前の独我論的発想など初歩的な哲学の問題に過ぎないのではないのか?人の死によって世界は消滅したことなど無いことは、現実が日々実証しているではないのか?と人は訝しく思うかもしれない。

 しかし、まず私が死を恐れている理由は私が独我論にコミットしているからではない。私は極めて常識的に、私の意識から離れた外界や他者の存在を認めている。哲学的な思考実験としてならまだしも、(哲学的センスの無さが功を奏して?)本気で独我論的思考に囚われたことは一度も無い。

 だが、問題なのは、たとえ外界や他者の存在が私の意識抜きに存在していても、その「外界や他者の存在が私の意識抜きに存在している」という意識はどのみち私の脳内で起こっていることである。その意識自体が私の死によって停止するのならば、その際私には「ああ、私の意識が停止した後も、ちゃんと外界と他者の存在は持続しているなあ!」と確認する方法が無い。ということは、それは外界も他者の存在も消滅することと同じではないだろうか?

 こうした考え方に対して人は、「お前の意識にとってはそうかもしれないが、お前の意識の外では、外界も他者の存在も『本当は』持続しているのだ」と反論するかもしれない。しかし、その「本当は」とはどういうことだろうか?私の意識の中では全てが消滅するが、私の意識の外では「本当」は外界も他者の存在も持続する、という事態を意識するためには、結局私という意識主体の存在が必要である。しかし、繰り返すが、私の意識が消滅するということは、そうした「私の意識の中では」とか「私の意識の外の『本当の』世界では」といった枠組み自体も消滅することである。よって、「いや、人の死によって世界は消滅したことなど無いことは、現実が日々実証している」といった反論は反論になっていない。私からすればそんな証明は何の慰めにもならない。

 これらの理由から、私は私の死というものを時に気が狂いそうなレベルで恐れている。よって、例えば、私のこれまでの記憶を全てコンピュータ上に移植する技術などが将来達成されたりでもしたら欣喜雀躍するだろうが、ここで困ったことがある。当然、次のような疑問が私の頭をもたげてくるからである。私のこの唯一性、独在性は、コンピュータ上に完全に移植できるものなのだろうか?つまり、コンピュータ上に「移植」した後、そのコンピュータが私の全記憶、全嗜好を完全にシミュレーションできても(つまり、外部からは生前の私と全く区別がつかない)、その私は生前の私が持っていた、「その目から実際に世界が見え、その体が叩かれれば実際に痛みを感じる」というあの唯一性を持っていた〈私〉なのだろうか?

 少なくとも、コンピュータ上に移植された後の私は、「おお、この目から実際に世界が見え、この体が叩かれれば実際に痛みを感じるぞ!私は死を克服したぞ!」と欣喜雀躍するだろう。そしてそれはコンピュータによる嘘でもなんでもなく、移植された「それ」の本心からの叫びであるだろう。しかし、それは本当に、「その目から実際に世界が見え、その体が叩かれれば実際に痛みを感じる」というあの唯一性を持っていた〈私〉なのだろうか?たとえ外部から捉えられた状態や言葉のレベルでの一致が見られても、「それ」はもはや〈私〉ではない(もちろん、〈私〉であり続ける可能性もある)可能性がいくらでもあり得る。なぜなら、もともと私に備わっていた〈私〉という独在性は、外部から捉えられることも言語で他者へ伝達することもできないものであったため、記憶や脳の状態という物質的要素によってその存在・不存在が左右されるものではなかったからである。つまり、私の記憶や脳の状態を完全に移植できても、それが〈私〉という独在性までも維持できるという確証はないのである。

 そして、そう考えてみると、さらなる問題にぶつかることになる。記憶や脳の状態という物質的要素は〈私〉の存在・不存在までも保証することはできないと私は書いた。しかし、そうだとするとこの問題は、生前の私とその私の記憶や脳の状態を完全にシミュレーションされた新しい私との間だけではなく、違う時間帯における私同士の関係にも存在することにならないだろうか?

 分かりやすい例は、寝る前の自分と起きた後の自分であろう。たしかに、起きた後の自分は寝る前の自分の記憶や脳の状態という物質的要素を受け継いでいる。だからこそ、今の私は、昨日の夜に寝る前の自分との同一性を疑っていない。しかし、今朝に起きた後の私は確かに〈私〉としての独在性を持っているが、寝る前の私には当然それはもはや無く、単に記憶や脳の過程というレベルで一致しているに過ぎないのではないのか?あるいは反対に、朝起きた後の私は、生前の私の全記憶や脳の過程をシミュレーションされたコンピュータと同じように、あくまで「外部から捉えられた状態や言葉のレベルで」寝る前の私と一致しているだけなのでないのか?

 つまり、表面的には、そしてもちろん起きた後の私にとっても何も起こっていないように見えながら、寝る前の私からすれば世界の消滅という出来事がその晩に起きたのではないだろうか?そして、今の私の世界も再び今晩消滅するのではないだろうか?明日起きる私はどうぜ、「いや、世界は消滅などしなかった。私は昨日の私と同じだ」と安心するだろうが、それは死を恐れている人間に対する「いや、人の死によって世界は消滅したことなど無いことは、現実が日々実証している」という慰め程度の役割しか果たさないのではないのか?

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