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文法的世界【4】
【4】ウィトゲンシュタインとスピノザと文法─文法の諸相(3)
初期(論理・写像)から中期(文法)、そして後期(言語ゲーム)へと至るウィトゲンシュタインの思索の推移を、入不二本を基本に概観し、永井本でその転換の勘所を確認します。
あわせて、スピノザの聖書解釈を、敬虔の言語ゲームの運用を規制する聖書固有の文法の解明であったとする上野修氏の論考(ただし、以下に“要約”したのはその前段部分まで)と、最近、本邦初訳本が刊行された『ヘブライ語文法綱要』[*]をめぐる、『中動態の世界』の著者國分功一郎氏の論考を取りあげます。
その4.ウィトゲンシュタインと文法
◎入不二基義『ウィトゲンシュタイン──「私」は消去できるか』
「隣接項のない一なる全体(それがすべてでありそれしかない)」としての「私」の「無主体性」を考察するために、ウィトゲンシュタインは「経験から文法へ」(言語の外から言語の内へ)──すなわち「直接経験という場面から、言語使用のルール(文法)という別の場面へ」──と新たな一歩──写像としての言語という『論考』の言語観からの転換──を踏み出した。
「ウィトゲンシュタインによれば、検証[三人称の場合:「認識-ふるまいという基準-認識対象(他人の痛み)」]がそもそもありえない「一人称の言語使用」とは、「言語外の対象(体験)を描写・記述する」ことなのではなく、むしろ「体験を直に表出する」ことなのである。」
「こうして、「ウィトゲンシュタインの無主体論」は、直接経験という場から言語の内(表現様式の問題)へと移された。そして言語の内において、その多様な「異なる表現様式」の可能性のどこにも表れえないものとして、隣接項を持たない「私」は、消し込まれることになる。」
「(通常とは)異なる表現様式」の問題から見えてくる言語の姿をウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」と呼ぶ。「特異で強力な「私」というあり方についての考察もまた、そのような「言語ゲーム」の実践の中へと投げ込まれている。」
言語ゲームにも文法がある。
「…[「感覚日記」における]記号「E」は、「感覚」の文法(ルール)に従う。そして、そのルールに則って、「E」は私的な感覚を指し示す記号として認められるべきである。…「感覚が私的なものである」ことは、言語ゲームの文法(ルール)に属する事柄なのである。そして、‘文法によって’「私的なもの」であるからこそ、「E」は私的言語‘にはなれない’。」
◎永井均『ウィトゲンシュタイン入門』
初期から中期へ。
「「論理から文法へ」の、そして「写像から検証へ」の、中期ウィトゲンシュタインの推移は、こうして「文法」へと統合され、一元化されることになった。
文法は、確固不抜の規則であって、個々の経験に先行してそれを可能ならしめるという意味では先験的でさえあるが、にもかかわらず、それ自体としては、偶然的で恣意的なものである。それは、その文法の外部にある何ものの内にも根拠を持たない。(略)
ものごとの本質(「~とは何であるか」という問いへの答え)を決めるのは文法であるから、実在そのものの本質と見えるものは、実は文法が映し出す影にすぎない。(略)
そんなことはない、…と反論したくなる人は、その反論に使われる…語もまた、文法に従って使われざるをえないことを忘れている。つまり、根拠づけられるはずの文法に依拠せずには、根拠づけるはずの事実を引証することさえできないのである。それゆえ、われわれは文法の外に出ることができないのだ。」
中期から後期へ、規則(ルール)から実践(プレイ)へ、「文法主義」の最終的な放棄へ。
「われわれは普通、規則そのものの中にそれへの従い方の正しさが指定されている、と考えている。(略)どうしてそう考えないことができようか。しかし、よく考え直してみれば、規則(あるいは意味)という摩訶不思議な力を秘めた実体はいったいどこにあり、それはどのようにして正しさのすべてをあらかじめ決めることができるのであろうか。これはまた、「文法(的規則)」という中期の自分自身の考えへ向けられた懐疑でもあることに注意していただきたい。
言語ゲームの実践そのもの以外の場所に、実体化された文法のようなものがあると考えるのは、(「意味」なるものを最終的なものと見なすのと同じ種類の)原因と結果を取り違える錯覚である。とはいえしかし、もし規則がその適用の仕方を決定できないならば、規則に従うことは、その都度その都度の「暗闇の中での根拠なき跳躍」(S・A・クリプキの表現)となるであろう。そんな馬鹿なことがあろうか。」
その5.スピノザと文法
◎上野修『デカルト、ホッブズ、スピノザ 哲学する十七世紀』
第3章「スピノザと敬虔の文法――『神学政治論』の「普遍的信仰の教義」をめぐって」
『神学政治論』の課題は、「だれが、いかなる権利に基づき、またいかなる権威をより所に、いかなる者を不敬虔と断罪しうるのか」という問いにかんして客観的な基準と定義を与えることでなかったかと思われる。問題の中心は、いかなる信仰が「敬虔」と呼ばれうるのかである。
スピノザは、自分が確定しようとしている基準が哲学的な根拠づけと無縁であることを知っていた。それはむしろ、ウィトゲンシュタインふうに言うなら、人々の生活の形式が依存しているある種の言語ゲームとその規則にかかわる。つまり、敬虔と不敬虔をめぐって何が語られえ、また何が語られえないかを神学-政治論的な文脈において規制している、いわば、「敬虔の文法」にそれはかかわっているのである。
スピノザは聖書を、もっぱら敬虔のゲームが依拠すべき唯一のレファランスと見なしていた。そこに『神学政治論』の孤独がある。スピノザの聖書解釈とは、敬虔の言語ゲームの運用を規制する「聖書の文法」の研究であった。その聖書解釈の方法──聖書をひとつの資料体「ヒストリア」として研究し、聖書の語りの真の意味をもっぱら言表可能性の条件に基いて規定する(聖書が知らない「聖書の文法」を明らかにする)──が真に革命的なのは、この点なのである。
聖書は、ヘブライの民の敬虔をめぐる言語ゲームの歴史的記録にほかならない。だから問わねばならないのは、いかにして預言者は自らの異言を神の言葉として民の前に正当化しえたのか、また、そうした教えのいかなる部分が恣意的改竄を免れ、削除不可能なまま伝承され得たのか、といった聖書の文法なのである。
もし聖書の文法に従って正当に語りうる神の思弁的命題があるとすれば、それは神への服従を隣人愛の実践によって示すべし(「普遍劇信仰の教義」第五項)とする、そのかぎりでの命題でしかあえいえない。こうスピノザは考えるのである。
◎國分功一郎『スピノザ──読む人の肖像』
第七章 2「『ヘブライ語文法綱要』──純粋な知的喜び」
『ヘブライ語文法綱要』に大変興味深い論点が存在する。それは動詞の態についての考察である。
動詞には能動態と受動態がある。ヘブライ語ではそれに加え、行為の強度を強調する表現がある。さらに、使役のような形態も存在する。だから、「不定詞のカテゴリーは、それが行為する者だけにかかわる[例:訪問する・頻繁に訪問をする・何者かを訪問者にする]か、あるいは行為を受ける者だけにかかわる[例:訪問される・頻繁に訪問を受ける・訪問者にされる]限りで、全部で六つになる」(『綱要』第12章)。
ところが、スピノザは以上のカテゴリーに収まらないケース[例:自分自身で自分を訪問する]に言及する。「そういうわけで行為する者と結びつけられた行為、あるいは‘内在原因’を表現するもう一つ別の[第七番目の]不定詞のカテゴリーを考案する必要があったのである」(同)。
「内在原因 causa immanens」は(「表現 expressio」とともに)『エチカ』の要諦をなす概念であった。万物の内在原因である神は自分以外からいかなる影響を受けることもない。神は行為する者であり、且つ、行為を受ける者である。スピノザは内在原因の概念を、いわゆる能動と受動の外側で構想していた。
わざわざここ(『綱要』第12章)で内在原因という用語を用いて説明しているということは、文法についてのスピノザの考察が哲学的な思惟と切り離せないものであったからだろう。実際、内在原因を巡る『エチカ』の言葉遣い──「変状 affectio」という名詞に加えて「変状する afficitur」という動詞表現(「働きかける・刺激する・影響を及ぼす afficio」の受動態)を頻繁に用いる──には、ある特徴が見出せる。
神の内在原因の概念に基づいて afficitur という動詞表現を用いる場合、その表現には、自動詞表現と他動詞表現と再帰表現の三つの意味が込められている。ラテン語にはそのような受動態の用法があり、それは一般に、中動態的受動態と呼ばれている。スピノザの用いる afficitur はこの中動態的受動態に相当する。
スピノザの『ヘブライ語文法綱要』は単なる文法書には留まらないポテンシャルを秘めている。いや、そのような言い方は文法に対して礼を欠く。この水準の哲学的な思惟に到達していなければ、とても文法を論じているとは言えないと言うべきなのだろう。
[*]早速手にして“記念”のため数頁読んで、訳者解説(秋田慧)と附論1・2(手島勲矢)に目を通した。とくに記すことはないが、一点だけ、これも“記念”に記録しておく。
解説で、『ヘブライ語文法綱要』(Compendium Grammatices Linguae Hebraeae)は「20世紀に入るまでほとんど閑却されてきたと言ってよい」が、ここで新旧にこだわらずCGLHへの応答をいくつかの側面に分けて紹介すると、「哲学的な側面では、単純にテクストの取り扱いの困難さが障壁となってか、多くが断片的な印象を受ける。象徴的なものを一つ取り上げるとすれば」(264頁)として、ドゥルーズ『スピノザと表現の問題』第6章注2に言及していた。
《彼の『ヘブライ語文法綱要』において、スピノザはある種の特徴を、つまりヘブライ語の文法上の構造によって表現についての真の論理を形成し、そして命題の理論を基礎づけている特徴を引き出している。注釈をつけた版がないため、この書物はヘブライ語を知らない読者にはほとんど理解されていない。従って、われわれはそのうちから単純なある種の事項しか知ることができない。つまり、一、不定詞の無時間の特徴(第五章、第十三章)、二、諸様態の分詞的特徴(第五章と第三三章)、三、その一つが主要原因に関係づけられた行為を表現する、異なる種類の不定詞の規定(‘支配するために’、‘何らかの支配を構成する構成することと構成されること’とが同義であること、第十二章参照)。》(『スピノザと表現の問題』(工藤喜作他訳)389頁)