推論的世界【9】
【9】夢の原理─“推論”をめぐって(2)
前回の議論を踏まえて、はじまりの言語=夢の言語の“論理”に思いをめぐらせてみたいと思います。
この点については、かつて、論考群「哥とクオリア/ペルソナと哥」において、渡辺恒夫著『夢の現象学・入門』を参照しながら考えたことがあるので、その“成果”を三回にわけて、切り抜きのかたちで紹介します。
1.夢世界の原理(「哥とクオリア/ペルソナと哥」第50章3・4節)
(1)夢世界のレイヤーは現実世界より次数が一つ少ない
永井均著『私・今・そして神──開闢の哲学』に次のような議論が登場する(140-141頁)。
○夢を見ているとき、われわれはそれが「後で思い出される」ことを意識していない。ところが、現実に生きているとき、われわれはすでにそれが「後で思い出される」ことを知っている。つまり、現実の現在は、可能な現在のひとつにすぎないこと(超越論的構造)が、その現場においてあらかじめ知られている。
○文(命題)は否定できるが、絵(像)は否定できない。同様に、文は時制変換可能だが、絵はそれが不可能だ。同じことは、人称についてもいえる。絵は人称を描けないからだ。対して、文は現実の私を、可能な「私」の一例として把握し、「私は」と語り出すことができる。そのことによって、過去や未来と同様、他我(他者の「私」)もまた必然的に存在することになる。
○客観的時制構造と客観的人称構造を構成することによって、今と私をその内部に含んだ(客観的に位置づけた)客観的世界を成立させることができること、人々が「あたりまえ」のように感じているこの事実は、真に驚くべき事件なのである。
ここには、「文の原理」と「絵の原理」の対比を通じて、(精確には、現実の世界における「文の原理」と「絵の原理」の対比が、「現実の世界」の原理と「夢の世界」の原理の対比との間でパラレルな関係を切り結ぶ、といったかたちで)、鮮やかに、カントの超越論的構成作用に拮抗しうる「夢の原理」の存在が示唆されている。
それでは、その「夢の原理」とはいかなるものか。それを一言で表現するならば、「夢の世界の構造・意識のレイヤーは、現実世界の構造・意識のレイヤーよりも次数が一つ少ない」となる。あるいは、夢の世界では、否定と肯定、過去・未来と現在、他我と私、可能性と現実性とが地続きになる、(精確には、否定と肯定、等々の対立する二項が、いずれも後項のうちに収斂していく)、と言ってもいい。
(ところで、夢の世界とは何か。それはおそらく、不可視の次元における、文字以前のコトバとイメージ(絵文字のような)にもとづく“哥”の世界なのであって、可視的次元における「文の原理」と「絵の原理」が(絵日記のように)合成されて出来あがった「物語」の世界とはその存在様相を異にする。)
(2)現実世界の原理と夢世界の原理
渡辺恒夫氏によると、これまでの夢の研究には決定的に欠けていたものがあった。それは、夢は「世界」であるという認識だ。渡辺氏は『夢の現象学・入門』の「プロローグ」にそう書いている。
夢の世界は、現実世界と対等の「体験世界」である。しかし、まったく同じというわけではない。夢世界を支配する基本的な体験構造、すなわち夢世界の原理と、現実世界の原理とは異なっている。だから、夢は「異界」なのである、と。
こうして著者は、フッサール現象学の方法にのっとって、まず、現実世界との比較のもとで「夢世界の原理」を摘出し、次いで、現実世界における体験構造が夢世界(異界)においてどのように変容しているかを解明している。
以下は、渡辺氏による「現実世界の原理」(知覚の独体制裁、意識の二重構造)と「夢世界の原理」(志向的構造・意識の一重構造)の対比。
〇現実世界にあって、「これが現実だ」という確信を与えている意識作用は知覚である。現実という名の体験世界では、知覚の独裁体制のもとに、さまざまな意識作用が整然と構造化されている。
夢世界の現象学的構造は、これと全く異なる。想起も、予期も、反実仮想の想像も、記号作用に基づくフィクションも、即、知覚となって、「これが現実だ」という確信を与えるのである。
構造的には現実世界は複雑で夢世界は単純だが、内容的には、知覚以外は「仮定に過ぎない」現実世界よりも夢世界の方がはるかに豊饒である。(33頁)
〇現実世界では、意識は二重の構造を備えている。すなわち、想起・予期・空想などの「思い浮かべる」志向的意識は、「思い浮かべられた当の対象像」と「思い浮かべているに過ぎない」という暗黙の気づき(暗黙裏の覚知)との二重構造を備えている。
これに対して、夢世界では、この暗黙の気づきが消滅して、意識は一重構造になる。すなわち、過去や未来や架空存在を思い浮かべると、「思い浮かべられた当の対象像」だけになり、それらを「現に知覚している」のと同じことになってしまう。(40-41頁)