推論的世界【5】
【5】現実性─“論理”をめぐって(4)
前回の話題──独在性という決して伝わらない問題の伝達と理解をめぐる高次の“推論”のプロセス──にも関係する、面白い論考を読んだので、今回はこれを取りあげます。
その4.ジミー・エイムズ(Jimmy Aames)「第二性としての独在性:パースと永井均」https://researchmap.jp/jjaames/published_papers/46466645
著者はこの論文の「はじめに」で、永井均の哲学の中心概念である「独在性[solipsity]」と、チャールズ・S・パースの提唱する普遍的カテゴリーの一つである「第二性」との間には、顕著な類似性があると指摘している。
「いずれの概念も、事象内容(つまり、あるものが何であるか、あるいはどのようなあり方をしているか)の違いとしては決して現れない、「現にある」という仕方でしか語れない端的な現実性にかかわる概念だからである。永井はこれを「無内包の現実性[intensionless actuality]」と呼び、パースは Brute Actuality といった表現でこのことを語っている」。
<パースのカテゴリー論>
パースの「カテゴリー」は「現象のうちの最も基本的で普遍的な要素」──初期において「概念」と定義されていたものが、後に「明確な概念というよりは、むしろ思考の様態(mood)ないしトーン(tone)」として捉えられるようになり、やがてそれが存在論的転回を経て世界そのものに拡張され、自然界に遍在するもの(「思考と自然の根源的カテゴリー」)として描かれるようになった──を言い、次の三つからなる。
①「第一性」(Firstness)もしくは「質」(Quality)
・あるもののあり方が、それだけで自己完結しているという存在様式
・質(クオリア)や偶然といった「第一のもの」、様相的には潜在性(potentiality)ないし可能性
②「第二性」(Secondness)もしくは「関係」(Relation)
・あるもののあり方が、二つのものの関係によって(ただし第三のものとは関係なく)成り立っているという存在様式
・作用・反作用、反発、抵抗、意志といった「第二のもの」、様相的には現実性
③「第三性」(Thirdness)もしくは「代表」(Represemtation)
・あるもののあり方が、複数のものを媒介し関係づけることによって成り立っているという存在様式
:法則、習慣、目的、一般性、連続性、代表といった「第三のもの」、様相的には必然性
<独在性と第二性の類似性>
永井の「独在性」とパースの「第二性」との関係めぐって、著者は三つの類似点を挙げる。
1.インデックスの無内包性
・パースによれば、命題の指示対象は、必ず「インデックス」と呼ばれる記号によって特定される。インデクスの最も純粋な例は、「これ」や「それ」などの指示詞であるが、このような指示詞を含まない命題にも、その命題の主題を特定する何らかのインデックスが必ず含まれている。
・インデックスの特徴は、指示対象を、その対象が持っている特徴についての一般的記述によって指示するのではなく、相手の「注意」をその対象に向けさせるという力によって指示する点である。
それゆえ、インデックスはまったく無内包であり、その指示対象が「何であるか」とか、どのようなあり方をしているかといったようなことは一切特定しない。ただ単に、相手の注意をその対象に向けさせるだけである。
・インデックスは、指示対象との二項関係によって(第三のものとしての解釈項を介在させることなく)その対象を指示する記号であり、その意味で第二性の要素が顕著な記号であり、命題の中で第二性の要素を担う記号でもある。それゆえ、インデックスが無内包的な記号であることは、第二性と無内包性の密接な結びつきを示唆するのである。
2.「このもの性」としての第二性
・パースがその進化的宇宙論の構想を初めてまとまった形で表明した重要な著作「謎を解き当てる」において、第二性はドゥンス・スコトゥス由来の「このもの性」(haecceity/thisness) と結び付けられ、偶然性(第一性)と並んで‘説明不可能な事柄’として特徴づけられた。(パースはスコトゥスの影響を強く受けていた。)
・あらゆる一般的な事実や規則性、つまり第三性は、説明を要求するし、原理的には説明を与えることができる。それに対して、事物や事実の「このもの性」としての第二性は、純粋な偶然性(不確定性)としての第一性と並んで、原理的に説明不可能な事柄である。
・永井は、「ものごとの理解の基本形式」に収まらないことこそが、現実性(独在性)の本質的特徴であると語っている(『世界の独在論的存在構造』第9章)。第二性についても、まったく同じことが言えるのである。
3,現実性のカテゴリーとしての第二性
・パースはカテゴリーの様相的な側面を強調するようになる。第一性は可能性、第二性は現実性、そして第三性は必然性にそれぞれ対応する。なぜ第二性は現実性のカテゴリーなのか。それは、現実存在するものの特徴とは、反発(react) することだからである。
・例えば、可能的な(想像されただけの)机の場合、その性質を、想像の中で任意に変えることができる。それに対して、現実に存在する机の場合、その性質を意志の力だけでは変えられない。こうした意志に対する反発、あるいはコントロール不可能性こそが、現実存在するものを、単に可能的・潜在的なものから弁別する特徴である。反発は、第二性のカテゴリーに属する。
・第二性の根底にある特徴を簡潔に表現すれば、第二性とは「事物と事実の端的な現実性(Brute Actuality)」に他ならない。それはいかなる内包も持たず、事物や事実がどのようなあり方をしているか、あるいはどのような属性を持っているかといったこととはまったく無関係に、「現にある」という仕方でわれわれに迫ってくる剥き出しの現実性である。
そして、永井の論じる〈私〉や〈今〉の独在性の核心を成すのは、第二性とまったく同様に、事象内容の違いとしては決して現れない「無内包の現実性」である。
<第二性としての独在性>
以上の議論を踏まえて、著者は永井の独在性を、パースの第二性の一つの顕現形態であると見なす。すなわち、「第二性はカテゴリーであり、考え得るあらゆる現象に何らかの形で含まれているという普遍性を持っているのに対して、独在性は人称や時間といったいくつかの特定の文脈においてのみ顕在化する」。
そして、永井の独在性の議論をパースのカテゴリー論の観点から眺めることの「ご利益」等々について論じている。そのうち、個人的に興味深かった論点を、二つ取りあげる。
1.独在性の伝達可能性
・独在性をパースのカテゴリー論から眺めることによって、「〈私〉という存在の例外性について、なぜ他人に言語で伝達することができるのか?」という問いに対して、新たな視点が得られる。永井は、この伝達可能性を言語に固有の特徴として語ることが多いように思われる。しかし、パースの立場から言えば、この伝達可能性は言語によるものというよりは、第三性の働きとして捉えられる。
・何かを理解するとは、それを一般的なものの特殊なケースとして包摂することである。そうすることで、その何かは、他のものとの関係のネットワークの中に埋め込まれる。このように複数のものの間に繋がりを作り出す作用が、第三性の働きである。
・しかし、端的な現実性(第二性)は、どうしても一般化を逃れるものである。もちろん、現実性を一般化して概念的思考の対象にすることはできるが、そうすると、その本質的特徴である「端的さ」は、その概念化から零れ落ちてしまう。とはいえ、私たちが現実性について語るときは、まさにそのような概念化を経由している。だからこそ、〈私〉の存在の例外性が他者に伝達可能になるのである
2.醒めることを禁じられた夢
・永井は、「醒めることを禁じられた夢」(『〈魂〉に対する態度』)において、現実とは、決して「夢」として明示化されない夢、外部を持たない夢、「醒めることを禁じられた夢」のようなものである、と論じた。この事態と、ルイス・キャロルのパラドックス(「亀がアキレスに言ったこと」)との間には類比性がある。
・実はパースも、ルイス・キャロルの対話編が発表されるよりも前に、これと非常に似た議論を行っている(「論証の自然な分類について」)。
パースいわく、すべての推論には、前提の一つとして明示化しても決して消去できない「論理的原理」が存在する。論理的原理は、論証の妥当性を担保し、その結論を正当化するものであるが、その原理自身は、論証の中に現れないことによってこそ、その論証を正当化する。しかし、ルイス・キャロルのパラドックスにおける亀は、その原理の明示化を繰り返し要求し、明示化された原理はその都度、推論の中に頽落する。これがいわば、夢からの覚醒に相当するのである。
・それでもなお推論が現に実行されるのは、推論の中には現われない、さらに外側の明示化されない論理的原理が働いているからである。夢から醒めたとき、そのさらに外側に、夢として明示化されない現実が常に立ち上がるのとまったく同様の事態である。
では、現実という夢から醒めることを禁じている力は何だろうか。それは第二性であり、現実を〈この現実〉たらしめる、有無を言わせぬ透明な強制力とでも呼ぶべきものである。推論においては、パースのいう論理的原理がこの透明な強制力に相当する。
──いつにもまして、原文からの‘丸移し’に終始しました。
パースの第二性と永井均の独在性との「顕著な類似性」とは、本来、「現実性(actuality)」という、実存の場、器、形式のごときものに対して第二性が、そして独在性がそれぞれ切り結ぶ関係相互の類比性のことであって、両者の直接的な類似性とは次元が異なるのではないか。
あるいは、私の(勝手な)‘理論’では、第二性の記号であるインデックス(指標記号)は、比喩形象におけるメトニミー(換喩)、推論形式におけるインダクション(帰納)にそれぞれ対応するのだが、そうだとすると、インダクションが無内包で、事象内容にかかわらない推論であるとは、いったいどういうことなのか(あるいは、そもそも“推論”とは事象内容にかかわらない営みなのか)。
その他、掘り下げると面白い(に違いない)論点が浮かんでくるのですが、ここでは、最後に言及した二点のうち、「独在性の伝達可能性」の問題が、まさに前回の話題そのものであったこと、そして「醒めることを禁じられた夢」については、後に、“推論”をめぐる議論のなかであらためて取りあげる予定であることを述べるにとどめおきます。
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