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【読書】永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない』

先日、下の娘が「どうして色を感じることができるのか。そもそも"感じる"とはどういうことか」と問いかけてきました。質問がシンプル過ぎてうまく答えられません。これはもう永井均さんの力を借りるしかないと思いました。

以前、永井均さんの『子どものための哲学対話』という本を読んだことがあります。猫と少年の40の対話という舞台装置を用いて、子どもが持つ哲学的な疑問に対する考察のヒントを示したもので、某テレビ番組で作家の川上未映子さんが中学生に薦める本として挙げていたのがきっかけでした。

それで今回、ひょっとしてもう一冊読んだら、もうちょっとヒントをもらえるかな……と考えたわけです。

本書、『翔太と猫のインサイトの夏休み』は、副題を"哲学的諸問題へのいざない"としています。永井さん曰く「考えることの好きな中学生を念頭に置いて書いた」とのこと。表紙には、少年と猫の可愛らしいイラストが描かれていて、とっつきやすそうに見えました。きっと自分が読んでかみくだけば小学生の娘との対話にも活かせるだろう、場合によっては娘に読んで聞かせようと、当初はそんな風に思っていました。

……ふたを開けてみると、その内容に必死について行こうとする自分がいて、ぜんぜん読み聞かせどころではありませんでした。

解説の中島義道さんは、この本の紹介文で「(著者の意に反して)絶対に中学生・高校生向きの本ではない」と言い、さらに「自分(本書)への挑戦を通じて哲学してもらいたい、という傲慢な(?)永井さんの訴えを真に受けて、彼に議論を仕掛けようと企む読者にとって、本書は大変クタビレル本である」と述べています。

そもそもこの本は安易に解を示すことを目的としていません。永井さんが一貫して言っているのは、自分で考えることこそが哲学のおもしろみだということです。

「もし、すべての子どもに哲学が必要だとすれば、それは裸一貫でものを考える訓練としてであり、それ以外ではないと思う。(中略)世界があり、自分がいて、他の人もいる。物が見え、体が動かせ、言葉がしゃべれる。それだけでも、思考の素材としてはすでにじゅうぶんすぎるほどなのだ」(著者あとがき より)

安直に永井さんに頼っちゃおうと思ったのは、大人の怠慢だったかもしれません。

思えば子どものころは、「宇宙に果て」だの「時間の始まり」だの、そんな疑問に身をよじって、明らかに解に到達不可能な問いがこんなに身近に厳然としてあるのに、なんでみんな平気な顔をして暮らしていられるんだろうと、ある意味、ちゃんと訝しんでいました。宗教というのはこういうことを自分で考るのをやめた人が逃げこむのだなんて小賢しくも考えたりして。

大人になってからはもう少し事情がわかって、信仰が果たした社会的、歴史的な意義に敬意を払うべきと思っています。そもそも、現今おそらくもっとも広く浸透し、かつぼくらにとって重要な拠りどころとなっている国家とか民主主義とか人権とかいった価値観も、ある意味では信仰のひとつだと思いますし。

ただ、「哲学」というのは、こういう「意味」や「目的」とは無関係な次元で、純粋に「問う」営みだということなのでしょう。

「哲学は思想じゃないよ。哲学のいちばん哲学的な部分は、主張じゃないからね。何かが主張されていても、そこで主張されていることではなくて、そういう主張が意味を持つとき前提とされることになる空間こそが哲学なんだ」(第3章 さまざまな可能性の中でこれが正しいといえる根拠はあるか より)

ホントは(特に終章には)引用したい文章がもっともっと山ほどあるのですが、一部だけ切り取って、いかにも結論めいた形に見せてしまうのは、おそらく永井さんの最も嫌うところだと思うので控えておきます。

子どもとの対話のために読んだのに、うかつにも自分が感銘を受けてしまいました。気になる人は読んでみてください。

ただし、子どもの問いに対処するための、手っ取り早い答弁は用意されていません。そして、お察しの通り、結局、娘の問いには答えられていない次第です。

(2017/7/1 記、2024/12/7 改稿)


永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない』筑摩書房(2007/8/1)
ISBN-10 4480090924
ISBN-13 978-4480090928

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