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超越無くして、共同体も政治もあり得ない

 「どうせいつか死ぬのに、なぜ生きるのか?」という問いへの答えは、哲学的にも基礎付けられなければならない。なぜなら、この問いへの答えが欠けている以上、個人の生だけでなく、集団や共同体、さらには人類全体の生までも、無意味さに包まれてしまうだろうからだ。

 なぜ個人の生だけでなくそれらまでも無意味さに包まれてしまうのか?といった疑問があるだろう。しかし、考えてみてほしい。前に記事で書いたように、〈私〉の死は、世界の終わりを意味するのである。〈私〉が死ねば、残された家族も、子孫も、その他の全人類、宇宙そのものの存在も消滅する。〈私〉の死によって、今存在している現代はもちろん、これから存在したであろう未来も、かつて存在していたはずの過去も、全てが無かったこととなる。〈私〉の死というものを、希望的観測無しに眺めてみると、やはりこの世界というものはどこまでも無意味さに付き纏われている。それは世界が暗いだとか、理不尽だとか、希望が無いという意味での無意味さではない。希望に満ちていようが苦痛で溢れていようが、幸福であろうが不幸であろうが、恐ろしいことにこれら全てが〈私〉の死によって消滅してしまうという否定できない事実があるため、この世界は無意味さに付き纏われているのである。

 よって、「どうせ死ぬのだから、頑張る意味などない」だとか、「どうせ死ぬのだから、死ぬまで好きに生きよう」といった態度が現れるのも、ある意味で理解のできることだと言えよう。もちろん、それらの態度は哲学的・本来的に把握されたものではない。〈私〉の死というものを真剣に見つめた場合、「頑張る意味などない」だとか、「好きに生きよう」といった態度を取ることすら実は宙吊りにされてしまうからである。しかしそれは置いておくとして、上のような、一方では虚無主義的な、他方では非常に刹那的・京楽的な態度が現れ始めることにもそれなりの理由はあるのである。そして、こうした態度は個人の生にとってはもちろん、集団、共同体、そして人類の生にとっても非常に危険なのだ。

 なぜなら、「自分が存在する以前にも世界や人類は存在したし、自分が死んだ後も世界や人類は存在し続けるだろう」という、普段私たちが常識的なものとして受け入れている確信こそが、集団、共同体、人類の生を保証してきたものだからである。この確信無くして、あらゆる共同体や政治体の存在は虚しい。つまり、「私が死ぬということは、単に一つの生命体が終了することでしかない」と信じているからこそ、人は過去や未来と結びつくことができるのである。私の死を、比類なき仕方で存在している〈私〉の死としてではなく、その他大勢の一つの死として解釈することこそが、まさに集団、共同体、人類が存続することに意義を与えているのである。

 〈私〉が死ねば世界が終わるのだとしたら、〈私〉が〈私〉の死後に生まれてくる人間へ、あるいは〈私〉が誕生する以前の人間に対して、何かしらの道徳的な責任を感じるべき理由など持てるはずもない。例えば、エネルギーの大量消費による地球温暖化や環境破壊、少子化といった問題に取り組むことも、「自分が存在する以前にも世界や人類は存在したし、これからも世界や人類は存在し続けるだろう」という確信があって初めて可能になるのである。そうした確信を持てない人間に対して、お前たちの生き方は利己的・京楽的だといくら非難しようが、何の意味も無いはずだ。「安心してください。私が死ねば世界も終わるので、未来で苦しむ人間など一人もいませんよ」と返されるのがオチである。〈私〉の死というものの存在を真剣に眺めれば眺めるほど、人は過去や未来との繋がり、過去や未来への道徳的責任を失ってしまう。つまり、共同体の原理、政治の原理が崩れてしまうのである。

 よって、もし、集団や共同体、人類の存続が不可欠であると考えるならば、「自分が存在する以前にも世界や人類は存在したし、これからも世界や人類は存在し続けるだろう」という確信を何とかして固守しなければならないだろう。この確信は普段は常識という装いを持って現れるが、常識ではあまりにも心許ない。だからこそ、「どうせ死ぬのだから、頑張る意味などない」だとか、「どうせ死ぬのだから、死ぬまで好きに生きよう」といった、別の種類の常識による反撃を喰らうのである。仮に、この後者の独我論的な常識を哲学的に反駁できたとしても、今度は〈私〉の死に着目する独在論が控えている。となると、「自分が存在する以前にも世界や人類は存在したし、これからも世界や人類は存在し続けるだろう」という確信を固守するためには、独我論だけでなく独在論も「乗り越え」られなければならないという話になるだろう。

 その「乗り越え」が果たして成功するのか、成功するとして独我論を乗り越えたというのは何を意味するのか、仮にそのような「乗り越え」が成功するとしてそれにどんな価値があるのか、私には分からない。少なくとも言えるのは、この「乗り換え」は、良くて壮大な形而上学として、悪くて宗教的解決としてしかありえないだろうということだ。だが、結局誰かがやらなければならないだろう。なぜなら、〈私〉の死というものをありのままに見つめ続けてていいはずがないからだ。この、パルメニデスの存在の哲学に匹敵する程の禁じられた真理に、人が、人類が、耐えられるはずもない。個人の生にだけでなく、集団、共同体、人類の生が存在することにも意味をもたらすために、人は〈私〉の死から、「私の生まれる前にも死んだ後にも存在する世界」へ、何らかの形で超越できなければならないだろう。繰り返すが、この超越無くして、政治の原理もあり得ないのである。

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