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【ウィトゲンシュタイン入門(永井均)】序盤で挫折した話


これはなに


ウィトゲンシュタイン入門(永井均)を読み始めた。

正確には読み始めようとして挫折した。それも序章で。
せっかくなのでどこで挫折したかを記録しておく。

挫折したところまでの流れ

まず永井均さん(著者)がウィトゲンシュタインに出会うところから始まる。
永井さんは子供のころから

①「私ははぜ、今ここにこうして存在しているのか」
さらに具体的には
②「なぜこの子(つまり永井均)が自分であって、隣にいる子が自分ではないのか」

という問いを持っていた。
ここまで読んで僕は、
「何言ってだこいつ。。。」
と思っていた。
そしてこの問いに対する非共感的な態度が後の挫折につながることになるとは僕はまだ知らない。

永井さんはこの①②の問いに対する回答を求めて現象学や実存哲学の本を読んだが、そこに求める回答はなかった。
そんなときウィトゲンシュタインの「青本」の以下の文章に出会う。


③私は私の独我論を「私に見えるもの(あるいは今見えるもの)だけが真に見えるものである」と言うことで表現することができる。
④ここで私はこう言いたくなる。「私は『私』という語でL・ウィトゲンシュタインを意味してはいない。
⑤だが私がたまたま今、事実としてL・ウィトゲンシュタインである以上、他人たちが『私』という語はL・ウィトゲンシュタインを意味すると理解するとしても、それで不都合はない」と。
(中略)
⑥しかし注意せよ。ここで本質的な点は、私がそれを語る相手は、誰も私の言うことを理解できないのでなければならない、ということである。
⑦他人は「私が本当に言わんとすること」を理解できてはならない、という点が本質的なのである。

「青本」117項

うん。この文章単体では何を言っているか全くわからない。
が、だからこそ「入門書」を買って読んでいるのであり、もちろんこの文章に対する永井さんの解説が続く。

③における「独我論」とは、簡単に言うと

  • 「私だけが存在する」という主張

  • この主張の真意は、もし私が存在しないとすれば、ある意味でそれは何も存在しないのと同じである。

ということである。
つまり③はこの独我論の定義をウィトゲンシュタイン流に言い直しているだけである。

よし!③は理解できた!

理解できないゾーンに突入

次に④である。再掲する。

④ここで私はこう言いたくなる。「私は『私』という語でL・ウィトゲンシュタインを意味してはいない。

最初にここを読んだときは、「あ~名前に意味はないみたいな話?」と思った。しかしそうではなかった。
ウィトゲンシュタインや永井さんは、
「この特定の人間」(永井均という名前を持ち、特定の両親から生まれ、特定の性格や身体を持つ人)との結びつきに必然性のないような「私」。
と言っている。
僕からするとここで「え、ちょっと待って」である。
「私」とは「この特定の人間(僕自身)」であって、そこを分離することなどできなくないか。

ここで①②の問いに戻ってくる。

①「私ははぜ、今ここにこうして存在しているのか」
さらに具体的には
②「なぜこの子(つまり永井均)が自分であって、隣にいる子が自分ではないのか」

なるほど、この問いの感覚が分からないと「この特定の人間」と「私」が分離する感覚も分からないのね。

ということでこの問いについては宿題として目に入りやすい所に張っておきます。
そしてこの問に心底共感できるようになったら再度読み直そうと思います。


いやもうはっきり言って②とかマジで意味わからんもん。どのくらい分からないかというと、どこが分からないかもわからないというか「隣にいる子が自分でない理由」とか脳がバグって何言っているのか分からなくなる。

唯一浮かんだイメージがこれである。

NARUTO

心転身の術とは「私(術者)」の意識が他人の体に入り込み、乗っ取ることができるという恐ろしい術である。
なおその際自分の体は抜け殻状態になってしまうので、仲間に自分の体を守ってもらう必要がありチームプレーが必須な術でもある。
ナルトにおけるヒロインである「サクラ」がこの術をかけられたが、サクラは心に「内なるサクラ」がいたので、術をかけて入り込んできた敵(画像の女の子)に打ち勝つことができたのである。

永井均が心転身の術を使って隣にいる子に入り込んだらどう思うのだろうか。

②「なぜこの子(つまり永井均)が自分であって、隣にいる子が自分ではないのか」

この②の問いが解消されるのだろうか。



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