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【書評】デイヴィッド・ベネター「生まれてこないほうが良かった」

【生まれてこないほうが良かった 存在してしまうことの害悪:デイヴィッド・ベネター:小島和男・田村宜義訳:すずさわ書店:2006】


序およびまとめ

「さすがに人間、哀れすぎでは」
 ……と思わせられるような日々を送っていた当時、「反出生主義」について何か読んでみようと思い立って読んだなかの一冊。

 結論から言うと、議論の前提に首肯しがたいところがあるので議論の全体についても首肯しかねる。

 簡単に述べると、ベネターは「存在しない人」という存在者を想定することで存在することとの対比を考えるが、この想定そのものが無意義なものなのでその議論は成り立たない、というのが結論となった。

 幾分ペシミスティックになっていた当時の自分にとっては、「やっぱ世界ってクソだよね」「生きるってクソだよね」と頷きたくて読んだところが多少あるのだが、その点に関して肩透かしとなったことは否めない。この議論はちょっとおかしいんじゃないか、と単にそういう結論に至った。

 反出生主義というのも、考えてみれば奇妙なものではないか。
 厭世主義ならまだわかる。自分の人生や、自分の生きる世界について否を言うのであればそれは自然なことだし個々人の自由に任せられるところでもあるだろう。
 ただ、「子を産むべきではない」というのは厭世主義から一歩踏み出しているか、あるいは厭世主義とはまったく別の由来としてさえ語ることができるような飛躍があるように思われる。世界がどれだけクソであろうと、これから生まれてくる人間がそう断じるかどうかはわからないし、それは個々人の自由に任せられるべきではないか、と。
 それを「世界はクソだから子どもなんて生まれてこないほうがよい」と展開するのは、おせっかいというものではないか、と今にしてみれば思われる。

 地獄のような環境でせっせと子作りに励む人間も確かにどうかと思いもするが、しかし生まれてこなければ「この世界はクソだ」とさえ言えない、という点は考慮すべきだろう。

 そして、そのような価値評価そのものが、その人の価値観において良いのか悪いのかという点については実のところ留保されるべきなのではないか、とも思われる。
 つまり、「クソな人生」は果たしてクソなのか、となお疑問できるのではないか、と。否定的価値をメタ化してある種の「良き思い出」と化したり、現状を演劇的に捉えたり、というのは誰しもが普通にやっていることだろうし、それ自体が人生の愉しみでもある、とさえ言えるだろうから。
 ――そう言ってみると本書におけるベネターの議論は、生というものをあまりにも皮相的に見すぎではないか、とさえ思われてくるが、どうだろう。

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第一章~第三章概略および考察

 以下に見取り図的な第一章に加え、べネター自身が大事と言っている章のうち第二章、第三章の概略と考察を記していく。

【第1章 序論】

 生まれ存在してしまうことによって、人は、生まれて存在することのなかった人に降りかかるはずのない非常に深刻な害悪を正に被っているのである。

p9

 というのが本書の根本的な考え。その理由を、以降に示してゆく形となる。


 私は非存在者が文字通りよい状態にあると述べるつもりはない。そうではなくて、存在してしまうことは存在してしまう人にとって常に悪い、ということを述べるつもりである。

p12

 非存在者を存在者と同格のものとして比べることはできない。なぜなら、非存在者とは、存在していないから。ベネターはあくまでも「存在してしまうことは存在してしまう人にとって常に悪い」と述べているのだが、それを「存在/非存在」における「快楽/苦痛」の非対称性によって論じている。疑問というのは、そもそも「存在/非存在」という対比自体が不可能なのではないか、という点。


 苦しみがほとんど存在しなかったとしてもそれでも子作りは依然として許されるものではないだろう、と考えている――略――。

p22

 世のなかが苦しみに満ちているから子作りすべきではない、のではなく、存在することそのものが害悪なのだ、という考え。


 最も重要な章は第2章(特に「何故存在してしまうことは常に害であるのか」という表題の節が重要)と第3章である。結論となる第7章のはじめの節もまた、私の議論が非常に反直観的であるという理由で否定されるべきだと考えている意図にはぜひとも、読んでいただきたい。

p25



【第2章 存在してしまうことが常に害悪である理由】


 なぜ存在してしまうことが(人生の内容に関わらず)害悪なのか、ということを説明するにあたって、それぞれの苦痛快楽の有無をどう考えるかが議論される。
「p39:快楽と苦痛の非対称性」においてベネターは、快楽と苦痛が非対称であることから、「苦痛が快楽を上回るのなら存在することに利益があると言えるのだ」という論を退ける。具体的には、快楽と苦痛には以下のような非対称性がある、とベネターは論じる。

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「苦痛あり=悪い(-1)」
「快楽あり=良い(+1)」
「苦痛なし=良い(+1)」
「快楽なし=(その剥奪を意味しない限りにおいて)悪くない(±0)」
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 現に存在している者が享受している何らかの快楽が奪われるとしたら、それは悪い(-1)が、非存在者はそもそも快楽を享受していないので剥奪を意味しない。よって、存在しない場合の「快楽なし」は、「悪くない(±0)」となる。結果的に、
・存在(苦痛あり、快楽あり):1-1=0
・非存在(苦痛なし、快楽なし):1+0=1
 となるため、生まれないほうがよい、というのがベネターの主張の概要であり核だろう。

 しかしもし、快楽がてんこ盛りの幸福な人生を送ることができるとしたら、やはり生まれる価値はあるのではないか。――この疑問にベネターは、「病気さん(S)」「健康さん(H)」を持ち出して答える。Sは病気にかかりやすいが、その代わり回復力が高い。Hは回復力がないが、そもそも病気にかからない。仮にSの回復力を10000、Hの回復力を0としたとき、回復力の高いSのほうがHよりも良い、とは言えない。なぜなら、Hはそもそも病気をしないので、回復力が低いことがデメリットにはならないから。このことを以て、存在することは存在しないことに比べてデメリットが大きく、どれだけ幸福な人生でも存在しないことに比べれば悪い、と述べる(SHの話を「存在/非存在」に敷衍することはできない、と個人的には思われる)。

 次いでシフリンの議論を用い、「腕を切らないと死ぬ場合、本人の同意なしに腕を切る」といった例を引き、大きな害悪を回避するため、より小さな害悪を甘受することは受け入れられるのに対し、逆に大きな快楽を得るために、害悪という代償を払うことは受け入れられない、とする。腕切断の例をそのまま子作りに適用することはできないが、上記したように、現に存在していない者が、存在することで得られるであろう利益が得られなかったとしても、それは剥奪を意味しないので、やはり子作りはしないほうがよい、と結論する。

 次いでフェーイゲの反失望主義的議論を持ち出す。「p64:この見解によれば自分の選好が充足した場合も選好が全く無い場合も等しく良い。それ故、悪いのは選好が充足しない場合のみである」。ゆえに、生まれない限り選好が無いので、生まれないほうがよい、と。

 私たちは存在してしまうことがあり得た人の苦痛を残念に思うが、その人々の快楽が存在しないことを残念に思いはしないということだ。

p45

「存在してしまうことがあり得た人」という表現がわかりづらいが、以下のようなことだろう。仮にAが存在したとして、Aは不遇な家庭環境に生まれて悲惨な人生を送るとする。すると、Aが存在してしまうことは残念に思われる。また例えば、Bという南の島があり、そこは人が住むのには楽園のような環境なのだが無人である。この場合B島に住んでその豊かさを享受するはずだった架空の人々に対して、残念に思うということは(可能ではあるが)一般的ではない。

 よって、苦痛というのはそれを享受する者が存在しなかった場合「良い」と言え、他方快楽はそれを享受する者が存在しなくても「悪い」とは言えず、「悪くはない」と評価すべきだ、と。

 といった論理なのだろうが、どうだろう。「と思うだろう」とか「通常そうは思わない」とか、土台が素朴な直観に基づいており、ズブズブな気がするのだが。

「享受する者がいなくても、苦痛が無いことは良い」というのは、よく考えると論理的に矛盾しているのではないか。享受する者がいないのなら、苦痛もなにもないだろう。だから苦痛が無いのではなく、端的に無い(何もかもが皆無である)と言うべきだ。いや、もっというと、非存在というのは無なのだから、「端的に」もなにも、端なる無、である。いや、そうとさえ言いえない。

 存在しないことによって苦痛が無化されるというのは、すでに存在している者が存在しなくなる際には適用できそうに思われる。そうすると、まだ存在していない者がこれから存在するという想定は、そもそも妥当なものなのか、という点を問いたくなる。
 存在が非存在と化す、ということは客観的に自明のことではある。私から見たら、すべての人間は死にうるし、多くの人間が、自分が生きているうちに死んでゆく。他方で、当然生まれる人間もいるわけだが、そうした人間には、生まれる前の経緯がなく、ただ端的に生じる。

 当然ながら、ここでの経緯とは両親がセックスしたということではない。Aという人間が生まれたとして、「非存在であったところのAが、ある日Aとして存在を始めた」といったような経緯は、世界のどこにも存在しえない。言ってみればこれは、生と死の非対称性だろう。存在はやがて失われるが、非存在が存在するようになる、ということは言えないのではないか、と。

 Aは二〇一〇年に生まれたが、二〇〇九年には生まれていなかった。しかし、二〇一〇年にAが生まれたからといって、それ以前に、「Aという人間として存在を始める予定の非存在者」がいた、ということにはならない。

 Aという人間が存在する以前は、確かにAという人間がいないと表現できるが、それはAという人間が現に存在している状態を足掛かりに言えることであって、結果論に過ぎない。
 例えば、未来において存在する予定のXがおり、現在は「Xという人間として存在を始める予定の非存在者」がおり、その非存在Xを生み出すかどうか悩んでいる、という状況は妥当だろうか。とても妥当には思えない。なぜなら、「未来において存在する予定の誰々」などという予測は不可能だからだ。

 ベネターはそういう位階で話をしているのではなく、「人類」という大枠における客観的な話をしているのかもしれない。ともあれ存在するより、存在しないほうが得だよ、と。
 しかし、そもそも「存在一般」などというものはありえない。
 これは、「人によって感じ方はそれぞれ」とかいう話ではまったくない。
 そもそも存在とは、「この、これ」を開闢として成り立っており、つまるところ「この、これ」が全てなのだから。そもそも比類のない「存在」という問題を、客観化・一般化して議論することそのものを批判的に見ることができる。

 こういう想定はどうだろう。冒険者Pは謎の組織Xに捕まり、特殊な薬品を飲まされたうえで殺された。その薬品の効果によって、Pは一〇年後、Pとしての記憶を持ったまま、Qとして生まれ変わることになっている。そしてQは組織Xによって、実験動物のような残酷な扱いを受けた末に悲惨な死を遂げることが確定している。この場合、Qが生まれる前に、Qが生まれうる要因をあらかじめ除去して、Qを誕生させないことは、倫理的に良いことだと言えるかもしれない(Qは果たしてPと言えるのか、といった諸々の問題は措いて)。
 とはいえこの想定は、一人の不遇な人間を安楽死させる是非を問うことと、本質的に違いがあるだろうか。PとQの通時性が保たれていると仮定するなら、「一端死んで甦る」ことを「昏睡状態の後に目覚める」ことと置き換えても本質的な違いがないだろう。

 ここで重要なのは、子作りに関してはこの例がまったく適用できない、という点だろう。
「まだ生まれてない者を敢えて生み出すのは愚かだ」というのがベネターの主張だが、ここでの「まだ生まれてない」とは、Qが死んでからPになるまでの期間、を意味してはいないだろう(もしそれを含めるのなら、ベネターは自殺も肯定しなければならないことになる)。
「まだ生まれてない」で指したいのは、まさにこの世に生をうけていない状態、だろう。
 そもそも「まだ生まれてない者」などありえないのだ、と言いたくなる。「まだ生まれてない者」というのは、すでに生まれている者が仮に生まれていなかったら、という可能的状況としてしか理解できず、それは(可能化された)現実世界と可能世界という二つの可能化された世界相互のあいだにおける価値考量でしかない。いわば、越権による超現実的な(形而上的な)論理であり、それをこの現実に適用することはできないのではないか。

 あるいは決定論的な世界観を導入すれば、「二つの可能世界間の価値考量」を退けて一本化できるかもしれない。つまり、今生きているものは、生まれるべくして生まれたのだ、と。

その人物に降りかかる、死といったより大きな害悪を防ぐために、意識を失っている人の腕を(同意無しに)折るということは認められ得ると私たちは考える(これは「救助のケース」である)。しかしながら、私たちは、より大きな何らかの利益を与えるために、その人物の腕を折ることに関しては非難するだろう。

p60

「利益のために害悪を負わせてはならない」そして「生は害悪である」。ゆえに、子作りすべきではない、という主張。何となく、感覚的には頷きたくなるところはある。子を産むことは、ともあれ子に諸々の害悪を与えることになるのは間違いない。そのため、その子が幸福な人生を歩む目算があるとしても、生み出すべきではない、と。

 とはいえここでも、これまでと同じ疑問が浮かぶ。上記抜粋の例えのような、通常の、すでに存在している人間に対する話を、子作りに適用することはできないのではないか、という(p62に該当の議論がある)。
 子作りに関しては、「快楽/害悪」を感じる地盤そのものを生み出すことなので、「快楽/害悪」という価値尺度の内部で判断できることではない、と言わざるをえないのではないか。
 ここで真に問うべきは、(快楽のために害悪を甘受すべきではない云々……ということではなく)そもそも「快楽/害悪」を感じる地盤そのものを生み出すことは良いことか悪いことか、という問いではないか。
 
そして、この問いはおよそ一般的な価値空間を逸しているのではないか。この問題を問うことのできる価値空間に、われわれは果たして立つことができるのか、というと……原理的に不可能ではないか。

 それでもベネターは、存在することは比較を絶して、ともあれ害悪でしかないので、存在しないに越したことはない、と述べる。だから、そもそも「快楽/害悪」を感じる地盤そのものを生み出すことそのものがよろしくないことなのだ、と。
 しかしそれは本当に、言えることだろうか。
 存在することが絶対悪だとしても、「存在することは絶対悪である」ということは、ともあれ存在しないことにはわからない。それを親の立場からわかったような気になるということ自体、何らかの錯誤、というよりも越権があるのではないか。
 その越権というのはつまり、「この私がこうあるように、他者もある」という前提だろう。自己と他者との決定的な違いを無化し、各々が各々にとっての自己であることを素朴に認めた上において初めて、この議論は成立する。それは、物書きとして苦心惨憺の人生を送ってきた父親が、息子に「物書きにだけはなるなよ」と忠告するような、極めて素朴な話の域を超えないように思えてならない。前提がくだらない、ように思われる。
 自分が求めていた反出生主義は、コレじゃない。コレじゃない感が強い(というよりも、自分は「反出生主義(産むことの否定)」ではなくむしろ「反生主義(生きることの否定)」のほうに興味があるのかもしれない。人が人を産むだの産まないだのといったことは、どうでもいいし、人生の良し悪しとはおよそ関係がないとさえ言えるのではないか、という直観がある)。

 第二に、上記抜粋の例自体はどうなのか。例えば、臓器売買などどうだろう。
 熱帯の貧しい地方には、住民の大半が腎臓を売っている村というのがあるらしい。これはしかし、貧しさという害悪を除くために身を切っているという意味では、抜粋の例と同じと言えるだろう。
 では逆に、快楽のために害悪を受け入れる例はあるだろうか――というと、一般的な人間の一般的な生活全体がまさにそれだろう。害悪の割合が明らかに高いのにも関わらず、人々は幸福のため労働に従事する、というのはもはや資本主義社会の常識と化している――いや、これについても「幸福のため」ではなく、「最低限の生活のため(つまり害悪を除くため)」と言い換えたほうがいいかもしれない。そうするとこれも例に合致すると言えるのか。

 そう考えてみると、われわれは行動原理として快楽のために害悪を被るようにはできていないと、言えるかもしれない? 覚醒剤などは一時の快楽のために未来を犠牲にすると言え、これは明確に非難の対象とされている。

 私たちが「シドニーのオペラハウスに一番近い木を赤く塗り、またケイトにはシドニーのオペラハウスに一番近い木が赤ければいいなあという願望を持つようになる錠剤を渡す」としよう。これをすることで私たちは何かしらケイトのためになっているということを、フェーイゲは当たり前だが否定している。重要なのは人が願望を充足させることではなく、充足しない願望を持たないということなのだ。重要なのは失望の回避なのだ。

p65

 反失望主義、面白い。これは、反進歩主義と類比的かもしれない。Aに対しiPhone15が欲しくなるような宣伝を打ち、Aに実際にiPhone15を手に入れさせることは、Aのためになってはいない。しかし事実として、われわれの(資本主義)社会はこのように動いている。「充足しない願望」こそまさにこの社会を駆動させる燃料だろう。


【第3章 存在してしまうことがどれほど悪いのか】

 どんな人生でも、通常考えられているよりははるかに悪い。たとえベストな人生でも非常に悪い。そもそも、人生の良さと悪さの差が人生の質にはならない、と前置きして、「快不快の分布」「快不快の強度」「人生の長さ」の三点を挙げてこれを説明する。
 つまり、序盤に幸福でもその後の長い人生が不幸、快楽が薄い、長い人生のなかで(相対的に)いいことが少ししかない、といった場合は生きるに値しないのだ、と。加えて、どんなに幸福な人生でも、それを相殺してあまりあるほどの害悪に見舞われるとしたら、これも生きるに値しない(例えば、革命で投獄、拷問される王様など)。

 次いで、人生の質の自己判断は信頼できない、ということが議論される。
第一(にして恐らくその核心を成すもの)は「ポリアンナ原理」で、これは「p75:楽天主義へと向かう傾向のことである」。回顧すれば良いことを思い出したがる、といったように、われわれは自らの人生を幸福寄りに偏向して捉えがちなのだ、と。
 第二に、慣れ。
 第三に、幸福の自己判断は他人との比較に依存しがちなので、それは「実際の人生の質」を逸している、と。
 これら心理学的現象によって、われわれは自分の人生を過大評価しがちなのだ、と。

 次いで、人生の質に関する三つの説をあげ、そのどれをとっても人生がうまくいかない理由を説明する。
 第一に、快楽説。これは単純に「快楽/苦痛」の量に応じて人生を評価する。
 第二に、欲求充足説。欲求が満たされた度合いにより人生を評価する。
 第三に、客観的リスト説。客観的に「良い/悪い」とされることが人生にどれだけあるかによって人生を評価する。
 快楽説を考えると「p81:日々かなりの時間を何らかのマイナスの精神状態で過ごしていることになる」。欲求充足説を考えると「p84:人生で欲求が満たされている期間は思った以上に限られており、欲求が満たされていない期間は思った以上に長く多い」のに加えて、欲求充足に関する人々の認識はポリアンナ効果によって不当に高く評価されがちだ、と言える。加えて「p85:大抵の場合、人の欲求は決して満たされることはない」。客観的リスト説を考えると、そもそも客観的な良さ(一般的な人生の良さ)というのが定義しづらいのに加えて、「永遠の相のもとで」物事を見ると、いかなる人生にも意味がない。
 最後にベネターは、この世がいかに苦痛に溢れたものであるかを、餓死者や戦死者といった統計的資料をもとに力説する。

 簡単にまとめると、
「人生はいかに酷いものか」
「われわれは人生をいかに過大評価しているのか」
 という二点に訴えている。哲学的議論という感じがしないのはなぜだろう。「感じ方・フィーリング」に訴えるような内容だから、だろうか。

 個人的には、人生に生きるほどの価値があるかというと疑問だし、(生まれないほうがマシと言えるかどうかは別として)死んだほうが得だとも思える。
 一言でいうと、人生は面倒臭い。
 しかしこの第三章は、どうも不幸の押し売りのように思えてならない。ポリアンナ効果だろうがなんだろうが、本人が良いと思っているのならそれはもう良いということでいいのではないか……。

 と、思い出したのは藤子・F・不二雄「ミノタウロスの皿」。人間は牛に畜養されており、牛に食われることを歓びとする、という星の話。この星に不時着した主人公は、ヒロインの少女を必死で救おうとするが、少女はそもそも救われたいと思っておらず、牛に食べられることこそ幸福だと感じている。このような状況下において、「少女は不幸だ」と言えるか。
 これは極端に異なる文化との遭遇というSF的状況ではあるが、本質は変わらない。何をもって幸福と言いうるかという価値尺度は(当然文化的背景などもあるものの)究極的には個々人のもとにある。個々人が幸福と言えば、そこにはもう言葉をさしはさむ余地がない、とある意味では言える。そこで、上記されたような快楽説、欲求充足説、客観的リスト説といった価値尺度を当てはめて客観的な幸福の尺度を考量しようという試みは、それ自体どこか危険なところがないか。それこそ、原住民と入植者とのあいだに起こりがちな価値観の侵蝕と、同型の危険性があるのではないか。

 ジャングルの奥地で狩猟採集生活を送っている人々のもとへ行って、「あなたがたの人生は、われわれと比べるとはるかに劣っています」と丁寧に諭しているようなものではないか。AとBとのあいだに共通する価値観がない場合、AがBに対して「お前は不幸だ」と説得することは、Aが自らの価値観のなかにBを引き入れたうえでなければ成し得ない。この「引き入れ」は、それ自体が倫理的に非難されてしかるべきものだと個人的には思う。自らがイニシアチブをとりながら、世の不幸をいや増しにする、という。これは宗教の常套手段でもある。

 あるいは、人々をルサンチマンから解放するという点で、そうした指摘は良いことだと見なしうるかもしれない? 例えば、「己の身分に満足している奴隷」のような例はどうだろう。
 かなり劣悪かつ虐げられた状況なのにも関わらず、「自由になると色々と苦労が多いだろうから、奴隷の身分のほうがよっぽどよいのだ」等と思っている(主人にそう思い込まされている、というのでもいい)。彼らの生活がいかに害悪にまみれているかを説得すること(ひいては一般市民として自立させること)は、良いことなのか、というか妥当性はあるのか(「良い」と「妥当である」とは当然異なる。しかし本書でベネターは、己の価値判断に基づいて議論を進めている。つまり「存在することは存在しないことと比較して害悪が多いため、子作りすべきではない」というように。よってここでも、その価値判断について問うべきだろう)。

 単にルサンチマンに陥っているだけであるのなら、認識を正したという意味では良いことかもしれない。ただ、本当にそう思っていたのなら、彼らの価値観をこちら側へ引き込み、彼らとは異なる価値体系のうちに包摂し従属させただけなので、良いとは言えないだろう(それはまた別の意味での奴隷化だとすら言える)。
 問題は、ここで挙げた2つのケースのどちらに該当するかということが、原理的に弁別不可能なのではないか、という点。
 彼らの認識を正し、そのことで彼らが蜂起し、奴隷から一般市民の身分に変わったとき、彼らは自分たちがいかに劣悪な生活を送っていたか、実際に知ることになる。そうだとしても、それはあくまでも彼らが一般市民としての価値観を得たからにすぎない、とは言える。
 単に、異なる価値体系を渡っただけのことに過ぎない、と。

 これを上記した、「原住民/入植者」の対比で考えるとどうだろう。ジャングルの奥地で狩猟採集生活を営んできた、とある部族がいる。彼らはその日食べるだけの獲物を取るという、その日暮らしをしており、数日間絶食することもしばしばだ。保存食は作らない。そのため皆やせ細っており、乳幼児死亡率も高い。そして医療もないので、なんでもない風邪で死んだりする。簡素な家は雨漏りし、風が吹けば壊れる。
 それでも人々は、特別不満もなく、むしろ幸福そうに暮らしている。彼らのもとに入植者が現れ、文明の利器や医療を提供し、住みよい家やインフラを用意し、教育を施したとしたら、どうだろう。彼らはより幸せになったと言えるだろうか。
 自分なら否と即答する。
 それこそまさに不幸の押し売りだろう。

 快楽は別かもしれないが、少なくとも欲求充足や客観的リストというのは、「何を望むか」「何が幸福とされているか」という前提がないと成立しないので、その人の依拠する文化・価値観に依存している。上記した例は、文化・価値観そのものを挿げ替えることで成立する幸福なので、そもそも幸福なのかどうかは計れないことになる。

 原住民が入植者並みの生活を手にしたとき、原住民の価値観ではそれは幸福とは言えないかもしれない。あるいはすでに入植者側の価値観に半分染まった結果として、過去を振り返り今を幸福に思うかもしれない。あるいは入植者側の価値観に完全に染まった結果として、自らを入植者たちと比べ依然として低い地位にあることを嘆くかもしれない。
 いずれにせよ、異なる二つの価値観の外に出て、それらを統括的に判断できる高次の価値観というのは、存在しえないのではないか。つまり、「幸福の価値尺度そのものが変わることは、良いことか」という問いには答えられないのではないか。

「価値観の押しつけは常に不幸の押し売りである」と、再度強く言いたい。それこそ「せむしから背中のこぶを取れば、彼の精神を取り去ることになる」とニーチェが述べたように。先住民は先住民なりの幸福を享受していたのに、それを入植者は、自らの価値観に引き入れることで、先住民の暮らし全般を「不幸」にカテゴライズした。外面をまったく変えることなく、入植者は先住民の暮らしを毀損した、ということになる。この種のことは割と多く起こりうるし、歴史上何度となく起こってきたことだろう(例えば、渡辺京二「逝きし世の面影」参照)。
 価値観の押しつけ、価値観の引き込み合い、価値観の侵蝕。こうしたものは、断固として避けるべきであり、また各々が常に警戒すべきものでもある。

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一節一答

 以下に本書に付箋を貼った箇所の抜き出しと考察を述べてゆく。

 私たちは日常的な不快感に慣れ過ぎているので、不快感がこんなにも蔓延しているのに、完全に見落としてしまうのだ。

p82

 例えば、人は飽食しようと思ったらわざわざ取り組まなくてはならないが、空腹は自然とやってくる。――略――この話の結論は、私たちは苦しみ(退屈も含む)を食い止めることにずっと取り組み続けなければならないということであり、そして私たちはどうしても完全にはその苦しみを食い止めることはできないのだ。人生は実に不満で充満しており、それは必然なのである。

p87

 確かにそうかもしれない。何らかの良さを求めるというよりも、むしろ不快を取り除くというのが行動の地盤とは言えるかもしれない。少なくとも後者のほうが優先度が高く、後者が満たされて初めて前者を志向しうる、とは言えるだろう。良さの前にまず悪さを取り除くことに汲汲とせざるをえない、と。

 黙っていても腹が減る。絶えず息をしていないと苦しみやがて死ぬ。黙っているのは退屈。動けば動いたで疲れる。働かないと食い逸れる。……われわれは生きているだけで不快に苛まれるようにできている。そう、まさにそこに自分は厭世の根幹を見たのだった。
 電気ストーブを付けたら鼻が乾き、ガスストーブを付けたらクラクラし、こっちをつけあっちを消し、と繰り返した果てに「死んだほうが得である」と述べた内田百閒のあのエッセイ(「タンタルス」所収)。まさにこういう、慣れ過ぎた日常の不快に対する厭世。事故で妻と子を失ったとか、そういう大袈裟な悲劇ではなく、このような日常の不快から繋がる、死への動因。そこにこそ自分は共感したのだった。

 仮にわれわれが黙っていても不満が募らないようなあり方をしていたら、どうだろう。存在するだけで無条件に幸福だったとしたら。
 特に何もしないだろう。
 そう考えるとわれわれは、不満に苛まれるからこそ何らかの志向を持ちえているのだ、とは言えるかもしれない。とはいえ、だからといってそれが良いと言えるかどうかは別問題だが。

 そう言ってみると、そもそも物事の良し悪しというのがすでにして、われわれのそのようなあり方を前提としている。だから「無不満世界」が果たして良いものなのかどうかというのも、実は語りえないことなのではないか。「満足感ばかりに満たされた世界で、わずかばかりの不満を求めてあくせく日々を送る人」という想定は可能だろうか。

 ここで問うべきは、そのような想定は具体的にどのようなものでありうるか、ではない。そう問うてしまうとわれわれのこの世界の価値観を土台にしてしまうから。
 むしろ問うべきは、そうした想定は、この世界の外面をまったく変えずに成立させることが可能なのではないか、ということだろう。仮にそうだとしたら、ひとこと「気の持ちよう」と言ってしまうことができるかもしれない――だからそれはこの世の偶然的な性質なのではなく、外面がどうであれ、そうあらざるをえないという、構造的な問題なのだ、と結論できるかもしれない(どのような世界であれ、この構造は免れないのだ、と論理的に説明できるなら、あるいはそこから「世界自体が無いほうがよい」と結論できるかもしれない!?)。

 ここで言いたいのは、そもそも生における基底が構造的に不快と見なされ、生において得難いものが構造的に快と見なされるのではないか、ということ。「黙っていたら空腹に苛まれる」のはいいとして、空腹を快と見なすか不快と見なすかということは、空腹そのものと分かちがたく結びついているわけではない、のではないか。

 空腹を不快と見なすのは、それがまさに常態だからではないか。つまりわれわれは、現状そのままの状態に堪えられず、何かしらの変化を求めて行動する性質があり、よって定常状態はそれがどのようなものであれ不快と見なされるのではないか。寝返りを打たなければ床ずれができるように、大好物でも食べ続けていれば飽きがくるように、われわれはそもそも定常状態を避ける傾向にある。

 あるいはこう言うこともできるかもしれない。例えば川原の石ころの大半が金で出来ているような世界では、金は少なくともこの世界ほど価値が高くないだろう。得難いものほど価値が高く、得易いものほど価値が低い、という相対評価は、あらゆる価値における本質とは言えないだろう。それこそ「苦しみ」などは感覚実質としては稀な部類だろうが、ネガティヴに振り分けられるので、絶対評価的なところがある。それに対して、「悩み」については相対評価が本質だ、と言えるのではないか。

 われわれの世界が苦しみに満ちているのは偶然的なことである、と言えるか。を、問いたい。例えば、「痛み」という感覚実質をネガティヴに振り分けることは、必然か、といったような。マゾヒスティックな快楽を抜きにして、痛みを純粋にポジティヴに振り分けるような世界というのは想定可能か。仮にそれが論理的に矛盾しているというのなら、痛みとそのネガティヴな評価というのが分かちがたく結びついているということになるだろう。

 この時自分はどこに視座を置き、何を考えようと思っているのか。痛みを感じて純粋に喜ぶような世界というのは、少なくとも想定可能ではある。しかし――生物学的な視点に立ってみよう。仮に痛みや眠気や空腹をポジティヴに振り分ける生物が現れたとしたら、そうした生物は後世に残りえないだろう――快楽と引き換えに身を滅ぼすだろうから。
 そうすると、生物進化の必然から、生命活動にとってマイナスに属する感覚実質というものは、ネガティヴに振り分けられることになる。だから進化論な必然性から、われわれは「苦しみ」に尻を叩かれて己を持続させるような生に甘んじることになる。空腹は苦しみだが、飽食もまた苦しみである、なぜなら、ともに命を危険にさらすから。
 とにかく、生命の維持において悪影響のある物事に伴う感覚実質の大半は「苦しみ」に割り当てられる(麻薬などは数少ない例外かもしれない)。

 自分が神であるとして、生物の感覚実質における「快楽/苦痛」のパラメータを配分するとしたら、やはり苦しみに多くを振ることになるだろう。例えば、摂食に快楽を全振りして満腹の苦痛を無にすると、食事を摂ることそのものが麻薬のように依存性を帯び、自己破壊的なまでに摂食を繰り返すことになる。満腹が苦痛であることによってこそ、苦痛を癒すため適宜に食事を摂るようになり、恒常的な生存が可能となる。生物は、良さを目指して進むよりも、悪さに責め立てられて進むほうが、少なくとも恒常性を保つことができる、とは言えるのではないか。
 だからここには神など必要なく、こうしてある程度の恒常性を保っているという現実から遡及的に見ると、世界が苦痛にまみれているというのは必然なのだ、と言えるのではないか。

 そうすると、あらゆる苦しみを感じることのない、至れり尽くせりの環境というものは想定可能だろうか。空腹を覚えることもなければ、飽食することもない。寝不足になることもなければ、寝すぎることもない。痛みを感じることは無い。暇にならない程度の、十分な娯楽がある。等々といった「苦しみのない世界」というのは、想定可能か。
「苦しみ」をあくまでも感覚実質に結びついた否定的評価とするなら、それは可能だろう。ただしそうした世界に「悩み」がないかというと、それはまた別の話だろう(「苦しみのなさ」そのものを不満と見なすこともまた可能だろう。例えば、それを「退屈」と置き換えると途端、「苦しみのなさ」それ自体が苦痛と化す、といったように)。
 そして悩みもまた苦しみの下位分類なのだとすると、「苦しみのない世界」は想定不可能だろう。そうするとわれわれは、そもそも「苦しみ」を宿命づけられた存在なのだと言える。

 とはいえ「苦しみを宿命づけられているのなら『生まれないほうが/死んだほうが』マシだ」と言えるかというと留保がつく。なぜなら、その「苦しみ」自体を、人生のお楽しみ要素に転化できるのが人間だから。

 しかしそれは、ルサンチマンなしに可能なことか? と問うとやはりピダハンを参照したくなる。ピダハンはルサンチマンと無縁な存在と断言できるが、人生の苦しみにどう反応している? ピダハンはまるで、人生には苦しみなどないかのように振る舞ってはいないだろうか。
 いや、そうではない。難産で死んだ妊婦のエピソードを考えよう。己の苦しみは己で請け負う、ということが彼らの信条だ。彼らは、共同体内の苦しみを相対的に少なくするという、文明社会的な価値観を持ち合わせてはいない。苦しみは各々が請け負うべきで、他人が手を出すべきではない、という考えだ。彼らのそうした「苦しみ」とは、実はわれわれの考える苦しみとは異なるのではないか。苦痛や快楽というものを(感じるのではなく)考えるときわれわれは自己客観化している。しかしピダハンにはそれがない。
 つまり苦痛や快楽はあくまでも「感じる」ことであって「考える」ことではない。そうすると苦痛や快楽は相対化されえず、その時々に見舞われる現実、以上のものではなくなる。だから当然「苦しみを宿命づけられている/いない」という概念がそもそも成立しない。よってピダハンには反出生主義が成立しないことになる。実のところ、われわれの生においてもそのように(考えることはできないにしても)捉えることは可能ではある。
 ただしそれは、苦しみを楽しみに転化することではない。それは苦しみも楽しみも、人生におけるあらゆる「見舞われ」をそれそのものとして請け負う、という話となる。快楽が多いから(苦痛が多いから)生まれるのに値しない(生まれるのに値する)という議論が成立する以前の話とも言える。しかし実のところわれわれも、そうした成立以前の認識に立ち返ることができるのではないか。

再度、私が第2章で描いた区別、今はまだない人生と今ある人生の区別について考えてみよう。――略――今はまだない人生に関して私たちが下す決断――つまり始める価値のある人生かどうかという判断――は、今ある人生に関する判断――つまり続ける価値のある人生かどうかという判断――とは違ったレベルでなされる(し、なされるべきだ)。――略――言い換えれば、それは自分自身の人生に関して、今ある人生の視点からまだ存在していない人生をどうするかを考えていることになるのだ。その人が(まだ)存在しておらず、それ故、存在してしまうことになんの利害もないという反事実的なケースを、正確に考えることなんてできないのだ。

p131

 そもそもそんなことは、どう考えたってできない、と言うべきではないか。


 二つ目のメリットは、それが私の主張してきた結論――つまり、理想的な人口の規模は「ゼロ」である、という結論――を生み出してくれることである。不幸を最小にするためには、人間(やそれ以外の意識のある生物)がいなくなればいいのである。不幸の総量の最小化も不幸の平均値の最小化も、不幸がゼロなら成立するわけだし、「不幸がゼロ」というのは、曲がりなりにも現実世界においては、人間の数がゼロになることで成し遂げられるのだ。

p183

 あれは誰の作品だったか、SF小説で、ロボットに身柄の保護を任せたら、彼女が二度と傷つかないように息の根を止めた、というシーンがあった。ふと思い出した。
 既述だが、ベネターのこういうところに自分は違和感を覚えるようである。「人口ゼロ」は「不幸ゼロ」ではない。不幸がないことを享受する何者も存在しないのだから、そこには「幸福/不幸」という概念そのものが存在しない。不幸ゼロとはあくまでも、不幸を享受しうるものが存在したうえでないと成立しえない。人口ゼロ状態に不幸のなさを見いだすとしたら、その想定自体に何らかの意識主体を立てていることに必然的になる。つまりそうした世界とは、「この私」が思い描いた「人のいない世界」なのであって、入れ子になっている。「人のいない世界には不幸もないんだろうな」という想定にすぎない。そうした想定は私によって為され、つまり人の存在そのものに依存している。


 このような応答に満足できない人は、自分たちが存在するかどうかを当事者たちが知らないというように、「原初状態」を修正できるか考察することを望むだろう。パーフィットが考えるに、そのような修正はできない。その理由は、彼によると、私たちは「自分たちが決して存在しなかったという別の可能な歴史を想定することはできるが…この世界の現実の歴史において、私たちが決して存在していないということが真実であり得ると私たちが想定することはできない」からである。だが、存在し得る人間が「原初状態」にいる当事者たちであり得ない理由が、何故これで説明されるのか私にはよく分からない。

p187

 上記してきたように、結局非存在者とは「存在者によって思い描かれた可能世界の住人」であらざるをえないので、「存在しなければ不幸もゼロ」とは言えない、と返すよりほかないだろう。

 そのような見方を当たり前に成立するもの見なすためには、そもそも世界そのものを純粋に客観的なものと見なす必要がある(つまり主観性、ひいては独在性を捨象する必要がある)。ベネターに対する違和感の核心は、そこにあるのではないか。あまりにも話が一般化されすぎていて、土台から錯誤しているような感じ、というか。
 そう、言ってしまうと、「生まれる/生まれない」を問題にしているからよろしくない。出生を問題にすると必然的に、生全体を客観視せざるをえなくなる。これが単純に、現にあるこの生は生きるのに値するのかといった、いわゆる「厭世主義」とか、また人生には続ける価値がないので早々に自殺すべきだ、といった「早世主義(なんてあるのか?)」や、人々を死によって救うべきだ、といった「殺戮主義(なんてあるのか?)」だったら、話はもっとわかりやすく、あるいは納得できるだろう。

 生み出すことの是非を議論の核心に据えるのは、非本質的に思われる。端的に言って、「(他人を)生み出すこと」は「(自分が)生まれること」ないし「存在していること」と比べてどうでもいい。産みたければ産めばいいし、産みたくなければ産まなければいい。それは主体にとって、人生における一幕でしかなく、またあくまでも他人なのだから、子に対して「産んでよかった/悪かった」といった価値評価は不可能――というか僭越――なことだろう。
「死んだほうがマシ」と「生まれないほうがマシ」とは、かなり意味が異なる。自分は後者にはあまりピンとこないようで、だから反出生主義という議論そのものがどこか的外れに感じている。理由は既述の通りだが……詳述してみよう。

 ベネターの議論は「一般に人間は生まれないほうがよい」という一般論として語られている。しかし「存在そのものの価値」という問題を一般論で語ることはそもそもできない、というのが自分の直観である。なぜなら、そもそも「存在一般」というものはありえないから。

「存在一般」はありない、という前提に立って改めて存在を捉えると、それこそ永井哲学で言うところの《私》ということになるだろう。つまり、「そこから世界が開かれているところの主体」として他者を考えたうえで議論を展開するとどうだろう。――それこそ現に生きている主体が、死ぬことによって、今後生きながらえることによる不利益を得ないほうが「よい/悪い」という議論は問題なく可能だろう。なぜならそれは、生の延長線上に思い描ける事柄だから。
 いやもっと簡単に言うと、それは己の生そのものについての問題に終始するから。しかし、生まれないことによって、生まれないことの利益を得たり、生まれることの不利益を得なかったりする主体というのは(生まれていないのだから当然)ありえないので、生まれないほうがよいというのは実のところ何を言っているのかわからない。
 既述のように、自身が生まれないことの利益というのは、すでに生まれている主体による「もし自分が生まれなかったら」という可能世界の思い描きとなり、ここでは世界が二重化している。その想定は現に自身が現にすでに生まれていることに依拠しているという点において、論理的に筋違いと化している。だから、そもそも反出生主義というのは、議論の立て方からして無意義なのではないか、というのが現時点での自分の最大の疑問となる。

 そして個人的には、「死んだほうがマシ」という視座においてのみ、ベネターの議論には同意できる。「だから子を産むべきではないのだ」ではなく、「だから早々に死んだほうがよいのだ」と結論されていれば、それなりに頷ける議論だったかもしれない。「生まれる/生まれない」は、やはりどうでもよい。


 人類が自分たち自身のような存在者を含んだ世界を重んじるということは、この世界についてよりも、自らの重要性への不適切な見積りについて多くを語っているということになる。(六本脚の動物がいるが故に世界は内在的により良いのか? また、もしそうなら何故そうなのか? もし七本脚の動物もいるのであれば、更に良いということになるのか?)人類は道徳的主体や理性的思考者を重んじるかもしれないが、私たちが世界のこうした特徴が永遠の相のもとでも価値があるかは決して分からない。

p206

 そもそもそのような価値考量自体が「語りえぬもの」だろう。そうした価値とは「決して分からない」のではなく、端的に無意義だ、と言うべきだろう。それはそもそも「わかる/わからない」の問題ではない。


 人生は、存在してしまわない方が良いと言えるほど悪いかもしれないが、存在し続けるのを止めたほうが良いと言えるほど悪くはないかもしれないのである。――略――というのも、存在者は存在し続けるのに様々な利害関心を持ち得るからであり、そしてそれ故、人生を続けるに値しないものにする害悪はそうした利害関心を無効にするのに十分なほど深刻でなければならないからである。逆に、非存在者は存在してしまうことに利害関心を何も持っていない。従って、そんなに重要でもない害悪でさえ――いや、私の見解ではあらゆる害悪ということになるが――それを避けることが決定的なものになるだろう。
 従って、たとえ存在してしまうことが害悪であるとしても、死もまた害悪だと考えてよいのは、私たちが存在し続けることに利害関心を(通常は)持っているからである。

p220

 これもベネターに覚える疑問の典型的な例と言える。つまり、「非存在者は存在してしまうことに利害関心を何も持っていない」のではなく、それは端的に語りえないのだ、と。利害関心を持つ持たないという以前なのだ、と。


 私が示してきたのは、存在してしまうことは害悪であるという見解は、存在するのを止めることが存在し続けるよりも良いのだという見解を含んではいないということである。どちらも害悪だという主張はあり得る。――略――エピキュリアンの推論に従うと死は決して人を益することはあり得ない。何故なら、その人が存在している限り死は訪れておらず、死が到来する時にその人は最早存在していないからである。死が誰かから何かを奪うことがないのと同様に、死が誰かを何かから救うこともないのだ。
p227
 私の見解では、自殺がかなりの場合に合理的である可能性、および存在し続けるより合理的でさえある可能性を認める。というのも、多くの人の人生が実際に存在するのをやめた方が良いほど悪くなった場合、それでも多くの人を生き続けさせるのは、生への非合理的な愛かもしれないからである。
p228
 人生は悪いかもしれないが、自殺をすることで自分の家族や友人の人生を今までよりも遙かにずっと悪くするのが当然だと言えるほどには、悪くはないかもしれないのである。

p225

 自殺に関しては途端にフツーのことを言っている印象。まあ、ベネターはあくまでも人類の総量としての「快楽/苦痛」を考えているので、自殺が周囲の人間の苦しみを増す、といった言説もありうべきものだろうが。

 改めて自分の立場を述べるとすると。そもそも自分はベネターとは視座そのものが異なる。人類の総量としての「快楽/苦痛」などというものは考慮に値しない。なぜなら、世界とは「この、これ」以上のものではありえないから。「この、これ」をよりよく(より悪くなく)するためなら、あらゆることが許されるべきであり、ためらうべきではない、と考える。とはいえ、ベネターにとっての「この、これ」が、人類の総和としての「幸福/快楽」なのだと言うこともできるだろうし、そのように見たとしたら特に言うことはない。

 自殺が周囲の人間の苦しみを増す、ということを気に病んで自殺を思いとどまることももちろんあるだろう。そのような未来を忌避することで自殺を思いとどまる、ということに特段の疑問はない。ここで言いたいことがあるとするなら、そのように自己(つまり人生)を時間的に拡張して捉えること自体をやめるべきだ、となる。そして、世俗的なあらゆる問題は、この種の「人生の時間拡張的把握」によって生み出されるのだ、と言いたい。例えば、「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」といった問題はその代表だろう。


いくつかの論点について

【価値観の二項対立について】

「快/不快」「好/悪」「快楽/害悪」「善/悪」といった価値観の二項対立自体について問う必要がありそうだ。
 卑近なエピソードから探ると――読書は面白い、というのがある。
「良書/悪書」という対立軸はあるにしても、悪書は悪書で「それがなぜ、どのような点で悪書と言いうるか」ということを思考するための道具として捉えると、悪書は悪書でまた価値があると言える。このような視座に立ったとき、本を読むことにおける良否というのは成り立たなくなり、すべてが「良い」に振り分けられることになる。これと同じことが、実は人生そのものにも言えるのではないか。
 
 生きていると当然良いことも悪いこともある。そしてベネターが述べるように、大抵の人生は悪いことに割り振られる出来事のほうが遙かに多い。しかし、それがなぜ悪いのかを思考したり、その悪さを笑い種にしたり、分析的に捉えたりすることで、そうした「悪い出来事」をも(価値観から超出して)「良い」に振り分け、良否判断そのものを無効化できるのではないか(それがいわゆる「人生の味わい」というものではないか――というとルサンチマンが臭うが)。

 あるいはまた、マゾヒスティックな快楽というものもある。苦痛や不快そのものを(悪いものであるというまさにそのことにおいて)良いものとみなす、というような価値の転倒も可能なのが人間ではないか。

 といったように、物事を単純な二項対立に落とし込むという思考は、現実にはそぐわないのではないか、という批判が一応可能ではある。
 ベネターは本書でポリアンナ効果等を引き合いに出し、人生とは人々が実際に思っているよりもはるかに悪いのだ、と批判する。マゾヒスティックな快楽に対するその種の批判もまた可能だろう。しかし、当人が感じていることが全てである、というのもまた真実ではないか。それがなぜ真実なのかということは、裏に回って語ることができない、物事の最背面を成しているとさえ言えるのではないか。

 マゾヒズムは必然的に超越的なパースペクティヴに立っていると、言えるか。つまり、痛みや羞恥といった、一般的にネガティヴに振り分けられるような感覚実質を、それそのものとして喜ぶ、ということは可能か。――論理的にはそれは可能だろうが、仮にそうであるとしたら、マゾヒズムとはまた異なる様態となりそうではある。
 ネガティヴな感覚実質がまさにネガティヴであるがゆえに愉悦と化す、という屈折を経てこそそれはマゾヒズムと呼ばれうる、のではないか。その種の屈折を経ることなく、一般的にネガティヴな感覚実質をそれ自体として好ましく感じるというのは、単に感覚そのものの倒錯(と相対的には見なされるもの)であって、マゾヒズムとはまた別、という気がする。

 マゾヒズムとは、「痛い/恥ずかしい」ではなく「痛がっている自分/恥ずかしがっている自分」に愉悦を覚えるものではないか。――という意味では、やはりマゾヒズムは自己自身を超えたパースペクティヴでのみ成立しうる概念である、と言える。哀れな存在として見られることに愉悦を覚えるミュンヒハウゼン症候群とか、哀れな者に尽くす自分に耳目を集めることで愉悦を覚える代理ミュンヒハウゼン症候群とか、その典型だろう。だから、マゾヒズムの本質は「演劇性」にある。演技抜きには成立しえない。
 自己自身を超越した視座において快楽を享受するという形態があるとしても、快楽を享受する主体そのものはやはり、どこまで行っても自己自身ではある。そういう意味では、マゾヒズムも幸福の一つの形であるとは言えるだろう。

 個人的に、次に言いたいのは以下のことである。つまり、人類の大半が現にマゾヒストであり、この種の超越的構造における快楽に溺れているのではないか、と。この説を取ると、ベネターの主張を少しも曲げることなく、「人間は生きるに値する」と言えてしまうことになる。つまり人間は、苦痛にまみれた生そのものをある種演劇的に俯瞰することで対象化し、そのことで愉悦を覚える生き物なのだ、と。だから煎じ詰めれば、苦痛をも快楽とし昇華しうるのが人間だ(から生きることには価値があるのだ)と言えるかもしれない。少なくとも、苦痛がそのまま苦痛と受け取られえず、快楽として転嫁されうるとするのなら、表面的な「快楽/苦痛」の度合いで生きる価値を測ることがそもそもできなくなる。

 この期に及んで言えることは、
「人それぞれ」
「生きることになるその人自身」
 というくらいのものではないか。
 何を良しと見なすかは、「見なし」の問題に過ぎないと言えるので、表面的な「快楽/苦痛」の度合いはそもそも問題にならない、と(ベネターの議論をこの側面から批判するなら、以下のようになる。つまりベネターは、生の主体における「嗜好性/志向性」を考慮していない、そして人類に共通する「快楽/苦痛」などそもそもありえないのだ、と。
 それでも第二章の議論を持ち出して、ベネターは反論するかもしれない。しかし「快楽/苦痛」の「存在/非存在」における非対称性を持ち出したとしても、ここではこう言いたい。非存在という想定そのものが矛盾しているのだ、と。「この世に開闢しえない存在者」という想定そのものが概念矛盾なのだ、と)。


【「非存在という名の存在者」に対する批判】

 存在していないものについて「(この先)苦痛を覚えることがない」「(この先)快楽を覚えることがない」と述べることは、その非存在が時系列的に存在者になった後の視点から顧みて過去のことを問題にしている、と見ていることは確実だろう。

 上記の(この先)を(現に)に換えてもいいが、そうするといよいよ何を言っているのかわからなくなってくる。非存在は、現に苦痛を覚えることがないのではない。「現に苦痛を覚えることがない」という言明が適用できるのは、苦痛を覚えうる者のみであり、それは少なくとも存在している者に限られる。非存在は端的に非存在であり、それ以上ではない。非存在というものを「これから存在するもの」と捉えることそのものが、不当なことではないか。

 なぜなら、存在者とは当の存在者自らが存在を自覚したとき初めて存在しているのであって、それ以前というのは、存在者(の認識)としては端的に無だから。ましてやここでは「快楽/苦痛」といった、主体自身の主観を問題にしている。
 独在性の議論を抜きにしても、主体の主観を問題にする場合、主体が存在する以前の過去にさかのぼって主体の価値を推量すること自体、ナンセンスではないか。「主体が存在する以前の過去」の主観というのは、端的に無だろうから。端的な無にはそもそも比類がないだろう。

 というわけで、「存在/非存在」を引き比べること自体がナンセンスなのではないか。ナンセンスではないとしたら、どのような理由で? 存在しているという現状を足掛かりに、「仮に私が存在しなかったら」と仮定的に考えたうえで、その両者を比較する? ……そう、ベネターの議論は「その存在(非存在)とはいったい誰のことなのか」という疑問がぬぐえない。そもそも存在を一般化して語ることができるのか。できるとして、存在一般に対して反出生主義を唱えることはできるのか。いや、それもできるとして、そうした反出生主義を自らに当てはめることはそもそもナンセンスではないか。

 そう、一般に人間は「生まれないほうがよい/悪い」というのと、自分自身は「生まれないほうがよかった/生まれてよかった」というのとは、別問題ではないか。そしてベネターは、前者を語っている。存在することにはこれこれこういった害悪があり、それは存在しないことと比べて明らかに劣っている、ゆえに存在しないほうがよい、と。この「存在/非存在」を固有の人物として考えることは不可能ではないか。つまり「存在者A/非存在者A」のように。なぜなら、非存在者はあくまでも非存在なので、論理必然的に、「非存在者A」とは何者のことなのかがわからないのでなければならないから。ここで仮に、非存在者Aを、「十年後に存在者Aとしてこの世に生を受ける予定の存在」とするとどうだろう。……いや、そういうことではないのか。

 ベネターが言おうとしているのは、生における内容の如何に関わらず、およそ存在するということは、存在しないことよりも劣っているので、どうであれ存在しないほうがマシだ、ということだ。だから、「その非存在とは誰のことなのか/どのような生なのか」といったことを抜きにして、ともあれ存在することは害悪だ、というのが結論として通用する。「誰のどのような生なのか」ということは抜きにして、ともあれ存在は害悪ですよ、と。だからそれは、万人に通用するものとして提唱可能なのだ、と。

 いや、違う。混乱している。ここで言いたいのは、非存在をあたかも存在者のように見なしたうえで為される「存在/非存在」の対比が、そもそもナンセンスなのではないか、ということだ。例えば、ベネターの以下のような記述に疑問を覚える。

 私たちが将来作るかもしれないまだ見ぬ子孫、彼らは存在してしまうことを悔いないかもしれないが、存在するようにならなかったことを悔いないのは確かだ。

p112

 彼らは「存在するようにならなかったことを悔いない」のではない。すでに存在したものであれば、存在したことを「悔いる/悔いない」ことが可能だ。しかし存在していないのなら、悔いるも悔いないもないだろう。なにしろ存在していないのだから。「悔いる/悔いない」を含め、およそあらゆる認識は、存在以後に可能になるのであって、それを存在以前にも適用するというのは、ある種のファンタジーの域を出ないのではないか。

 仮に、存在者をAとしよう。Aは、ひどい人生を送った結果、存在したことに悔いた。このAは、もともと生まれなければ、悔いることもなかっただろう。――これは妥当か。「Aが生まれなかった可能世界においては、そもそもAは存在していないので、悔いるとか悔いないとかいったことは埒外となり、結果的にAは悔いることがない」と言える? 言えないだろう。「悔いることがない」の主体となる「A」がそもそも存在しないのだから。

 それが言えると敢えて捉えるとすると、つまり「Aがもともと存在しない可能世界」を思い描いたうえで、Aの存在する現実世界の側からそのような価値判断を下している、と見なす以外に理路がないのではないか。この論は、二つの可能化された世界を引き比べているという点において、現実世界への適用にはそもそも難がある、と見なすべきではないか(現実世界についても、可能世界との対比において可能化されている)。
 つまりベネターの議論は、実際は「二つの可能化された世界間の比較」なのにも関わらず、それをあたかもこの世界内(つまり現実)において完結したもののように見せているという点において不当なものである、と言えるのではないか。現にAが生まれているのなら、「Aが生まれなかった世界」というのは端的に存在しないのだから。

 すべての存在者は、すでに存在している。存在していない者というのは、当然ながら存在しない。そして、「生まれてよかった/悪かった」といった諸々の価値考量は、存在して初めて可能となる。だから「自分が生まれていなかったら」という仮定は、厳密には「自分が生まれていない可能世界」なのではなく、「端的な無」であるべきだろう。
 そして「端的な無」とは、生まれて「よかった/悪かった」といった諸々の価値考量は成立しえないし、そもそも何かと比べられるような在り方をしていない。よって、「生まれてよかった/悪かった」というのは、精確には「語りえないこと」に属するのではないか。それを語りうるように思うのは、世界を可能化して考えているからであって、この場合は、ウィトゲンシュタイン風に「あなたはその命題にいかなる意味も与えていないと指摘する」ことが適切なのではないか。

 以上を踏まえて、改めて子作りということを考えると。
 子の立場からすると、親に対して「なぜ私を産んだのだ」と非難はできても「なぜ阿久沢というこの人間が私なのだ」と非難することはできない。つまり、他者は私がこうして独在していることを、原理的に知りえない。よって、独在することに関する非難というのは、言葉には乗らないと言える。
 他方で親側から見ると、子の独在性の問題は実質無化されているので、端的に「無数の人間の一人を生み出す」ということになる。その点、本書でベネターが詳述するように、人生には害悪ばかりで生きる価値がないということが真実であるのなら、子を産むということが倫理的に非難されるのは然るべきことだと言えるだろう。

 とはいえ他方で、親の側に立つと自分自身が独在しており、そして生まれる子もまたこのように独在するのだと類比的に捉えたうえで、「その身体から開かれた世界」を生み出すのだと捉えるとすると、それは非難されて当然だとは言えないかもしれない。
 なぜなら、そもそも生まれて「よかった/悪かった」といった価値尺度が、生まれて初めて生み出されるものであるから。人類ないし社会といった客観的な価値尺度で捉えうるのは、前者の「無数の人間の一人を生み出す」視点からであって、後者の「その身体から開かれた世界」においてはそのような客観的な価値尺度に収めることができない。
 なぜなら、そのような客観的な価値尺度自体が、「その身体から開かれた世界」においてこそ成立しうるから。このことを最も簡単に表現するとしたら、「とにかく存在しなければ始まらない」とでもなるだろう。

 ベネターの議論は、「存在」という大枠の内部で「非存在」を擬人化して扱っているようなところがあり、違和感を覚える。もっとも、ベネター自身は第三章で、「存在/非存在」の対比が無くても、ともあれ「存在することは何であれ害悪なので産むべきではない」と述べる。しかしベースは第二章の「存在と非存在のあいだの非対称性」にあるのではないか。この非対称性は、まさに上記した理由で成立しえないので、ベネターの議論は土台からおかしいのでは、という疑念がぬぐえない(だから第四章~第六章の話はどことなくくだらないことのように思われてならなかった)。

 存在者Aが、あるネガティヴな出来事Xを経験したとする。「もしAが存在していなかったら、Xを経験することはなかった」という仮定は成り立たない。なぜなら、Aが存在していないのなら、「Xを経験することのないA」も存在しないので、それは「端的な無」以外のなにものでもありえないから。だからこの種の仮定を成立させるなら、「Aは存在しているがXを経験しなかった可能世界」を思い描く必要がある。例えば爆弾処理の現場で「赤のコード」を切って両脚を失ったAが、「あのとき青のコードを切っていれば……」と回顧することには論理的な困難がない。ただ、Aが出来事Xを振り返って「生まれてさえいなければ」と想定することには論理的な困難がある。

「Aがもとから生まれていなかったことによって、AがXを体験しなかった」という状況を成立させるためには、Aの存在を前提として、その不在を想定する、という二段階の手順を踏むことにならざるをえない。ともあれAが存在していなければ、想定は成立しない。Aがもとから存在していないという想定は、当該世界の認識主体であるところのAが存在しないのだから、「AがXを経験しない世界」なのではない。そうした世界とは、やはり「端的に無」であるとしかいいようがない。

 これは独在性の問題ではない。そもそもベネターは、「存在することは必然的に害悪をもたらすので存在しないほうがよい」と述べている。害悪とは、それを害悪と感じる認識主体がいなければ成立しえない(生物が一匹もいない荒野に害悪は存在しない)。
 だから本書の議論の核には、少なくとも何らかの認識主体の存在がある。ゆえに任意の認識主体の非存在を論じようとすると、上記したように、必然的に、その任意の存在を前提として、それが存在しない可能世界を想定する、という以外に理路がないので、やはりどう考えてもこの議論はおかしい、ということになる。


【自殺について】

 未来方向に考えてみたらどうだろう。例えば、Aが迫害を受けていてアメリカに亡命するかドイツに残るか迷うということは可能だ。相応の害悪がある二つの選択からどちらかを選ばなければならない、という状況。また例えば、Aは収容所に送られてひどい拷問を受けており、終戦まで耐えるか自殺するか迷う、ということもまた可能だろう。この場合、後者の選択は言ってみれば自らを非存在と化すというものであるのにも関わらず、問題なく可能な想定だろう。

「生まれる/生まれない」の対比は論理的に問題があるが、「生きる/死ぬ」の対比には問題がない。なぜなら、「Aが生まれなかったら」という想定は、Aがすでに生まれていることを前提としたうえでの可能世界の想定にならざるをえないが、「Aが死んだら」という想定は、すでに生まれているAが無化するものとして、A自身の生の延長として問題なく想定することができるから。ベネターの言うように、生が害悪にまみれたものであるのなら、人間はなるべく早くそのことを自覚し、なるべく苦痛のない方法で、速やかに自殺すべきだ、と結論すべきではないか。

 ベネターは、死んだ方がマシな生のあり方があることは認めながらも、自殺を是としてはいない。その理由は、死そのものが害悪だから、というものだ(ったはずだがこれは要確認)。

 われわれだって大きな視点から見たら死を待つばかりの身の上だ。
 他方でミクロな視点から見たら永遠に生きる存在だ。

 そもそも「無」とは「有の否定」「有の対概念」としてしか理解されえないのではないか。つまり、無(という概念理解)は前提として有を必要とするのではないか。仮にそうだとすると、「生まれないほうがよかった」と言いたいとしても、それを言いうるにはともあれ生まれていることが必須である、と言える。
 そうすると、ともあれ生まれなければ始まらないことにもなり、結論は、(肯定的であれ否定的であれ)ともかく生まれてきてよかったね――となりそうなものである。生まれなければ、生まれないほうがマシだとか何とかいった議論もなにもできなかったのだから。


【生を通時的に捉えることそのものへの批判】

 さらに批判を展開するとなると。
 生を通時的に捉えることそのものへの批判が考えられる(ピダハン的な視座を考えている)。そもそも生とは「今この時」のみに存在するのであって、生における「快楽/苦痛」の総量や、存在と非存在を比較した結果として得られる価値考量など、そもそも適用できないのだ、と。
 人は自らの人生の全体を完全に客観視した結果として価値考量するわけではないし、生まれてから死ぬまでの道筋を完全に計画するわけでもない、というのは少なくとも一般的に言えることだろう。
 実情は「今この時」のみを生きている。
 その「今この時」が動くことで生が成り立っている。
 つまり実情は「動く今」があるだけで、実存的に見るとわれわれの生きる時間的な幅というのはとても狭い。それ以上の幅を見せているのは実存ではなく概念であり、存在ではなく意味だ。だから、いわゆる「人生」というものは総じて意味的な構築物だと言える。

 ベネターは、この「意味的な構築物」に対する是非を問うているのであって、つまりそのこと自体に対して批判することができるだろう。生とは全的に意味的に構成されているわけではないので、ベネターの主張をすべて受け入れたとしても、それでも「生まれないほうがよい」と断じるには足らない、と。子を産むというのは、ある任意の人間の人生を生み出すことでもあるが、同時にある任意の人間の実存を生み出すことでもある、と。
 そして、ともあれこの目で見え、この耳で聞こえ、この手で触れ、といった認識全般(=開闢そのもの)が前提となって、そこに意味的な構築物が出来上がる。

 子を産むということは、だからその子にとっての人生を生み出すことである以前に、その子の目から見え、耳から聞こえ、手で触れ、といった認識の地盤を創出することである。言い換えると、一つの独立した世界を開闢することである。「快楽/苦痛」とか「幸/不幸」といった価値判断以前に、そうした価値判断が根差す地盤そのものが、生み出されるということである
 そう考えると、そのこと自体の良し悪しというのは、果たして考えることができるのだろうか。

 独在性を援用すると。AとBのあいだに生まれた子Cがいる。Cは、仮にその後の人生が苦難に満ちたものであったとしたら、自分を生んだAとBとを非難することができるだろう。
 他方で、本当はDでもEでもFでもよかったはずなのになぜかCにとっては、Cと名のつく人物の目から見え、耳から聞こえ、手で触れることができる在り方をしている。つまりCは、Cと名のつく身体から「独在」している。この独在については、AとBとを非難することができない。Cと名のつく人間がこの世に生み出されたのはAとBの所為だが、そのCと名のつく人間が、ほかならない私であったということに関しては、誰の所為でもない、端的な奇跡だから。
 そうすると、親と子という二つの視座のあいだで、非対称性が生じることになる。子は親に「頼んでもないのになぜ(Cという人間を)産んだんだ」と非難することはできても、「頼んでもないのになぜ(私をCという人間として)存在させたんだ」と非難することはできない。親の立場から見ると、この二つの非難はともに「Cという人間を生んだことに対する非難」であるが、子の立場から見ると、この二つは意味が違う。
 前者は通常の言語的交通に載るが、後者は乗らない。大勢の人間のなかから、Cと名のつく身体に受肉させたのは、Cの両親ではないから(では誰なのかと問われるなら、神と答えたくなるが、実のところ神でさえ不可能とも言える)。Cと名のつく身体から、私という存在が開かれている、という端的な事実は、Cであるところの自らをおいてほか、関知しえないから。

 このような独在の事実を、こと出生の問題に当てはめようとすると、大きな矛盾が生じる。

 世界を開闢することの良し悪しを語るには、世界の外に出なければならない。しかしそれは、明らかに不可能だろう。われわれは世界を超える視点を持ちえない。それがあたかもできるかのように語るとき、そこで語られる世界は、この世界の内部における可能世界同士の比較と化している。つまり、この世界について直接語っておらず、可能化された世界、つまり世界の似姿をもとに語っている。

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