さがしものさがし
一週間の日記が一番文学らしいので文学と名付けています。読んでもらうと私という人間がどのような人間と関わり、どのような人間になりたいかの片鱗がわかるかもしれません。
思いついた時に、直接、ここに書いたものを置いています。簡単に言えば、あんまり何も考えずに書いています。
有料ですが優良な作品たちです。気合入っています。
他の可能性を無視する形で走ることでその一本道に多様な可能性を呼び込もうとする天邪鬼な文章実践です。
自分が基本に据えているもしくは据えてしまっていることを書いています。私の基本的な論の進め方や前提について書いてあると思って貰えばいいと思います。
2024/11/4「馬鹿みたいに、空が綺麗だぜ」 お布団にいる。眠たくなる。けれど、私は眠れない。眠たくないのだ。しかし、私は起きることもできない。横に寝ている人がいるから。 そうなるとできることは一つだ。この状態を生かすしかない。この状態でしかできないことをするしかない。 これは意図的に狭めているわけではない。「置かれた場所で咲きなさい。」みたいなのはことを。私は咲きたいからそうしているわけではない。ただ単にそうしたいのである。ひっくり返したいとは思わない。ひっくり返
眠たいのでそのときにしか書けないことを書く。 私は結構恋愛的な、そして直接な表現(たとえばキスとか)を伴う夢を見る。さっきも見た。疲れて眠ってしまった、いや、寝ることにした私はその夢を見た。その夢は後輩Hとそういうことになっていた。やけに恋愛的で、やけに複雑な構造の建物の一室だった。 私はドローンのように、そして壁をすり抜けるように、その建物の全体像を把握していた。どの場面とどの場面が繋がっていたのか、私にはわからないが、とにかく私はその映像を見た。ドローンのように複雑な
お風呂から上がってきた。頭を拭いている。お風呂という空間、時間、習慣、儀式は考え事がしやすい。ただ、その考え事はまとまらない。まとめることができない。ただ単に日常にアクセントがつけられる。曲が終わることはなく、並行的に曲は流れ続ける。そんな感じがする。とにかくここでしたいのはお風呂で考えたことを文字にしておくことである。 別に文字にしたところでなににもならない。ただ、私はそれが好きなのだ。まあ、後に述べるように一種の償いとして私は書いているのかもしれないが。 私は一日、お
お風呂から上がったら「死人に口なし」について考える。「『死人に口なし』について考えよ。制限時間はお風呂の時間と同居人がお風呂に入る時間を合わせた時間だ。推敲は明日やらせてやろう。ではスタート。」が聞こえた。 [水が私の皮膚の上を流れてゆく。滑ってゆく。思考が拡散してゆく。世界は笑い、私も笑う。] お風呂から上がった。書かずに考えるというのは難しいことだ。そんな感じのことがわかった。書いたことを覚えておくというのは難しいことだ。そんな感じのことを思った。 さて、当たり前の
少しだけ、ほんの少しだけ時間があります。なので、私の倫理の根源とその倫理の関係について考えてみたいと思います。 私の倫理の根源というのはおそらく「過去の私を現在の私に繋げない」という否定にあります。そして私の倫理というのはおそらく「偶然性の自覚が深まれば深まるほど、倫理的に振る舞うことが可能になる」という肯定にあります。この二つのこと、否定と肯定を繋ぎ、拮抗させているのは物語ることです。もう少し限定するとすれば、ストーリーにすることです。ストーリーにする部分としない部分を分
生きるも死ぬもない、そんな時間が快楽なのか?それは違う。私はそんなことくらいしか思わない。が、それは確実に思っている。 なんだか泣きそうになる。「都内某所は朝から猛暑で 時空が溶けていくスローモーションで」。 涙もろい。最近はなんだか。いや、涙はまだ出ていないが、出てもおかしくない。そんな日々が続いている。詩にやたらと触発される私が生きている。夕方、17時41分くらい。 指が勝手に動く。私はそれを感じている。動いていることを。動かしていると微かに、本当に微かに感じつつ。
以前、「「読みたい本」から読みたい本を選ぶ」という記事を書いた。概要としては淡々とブクロブというアプリの「読みたい本」から読みたい本を選んでその理由を書くという記事であり、特に面白みもないはずがなぜかある程度「スキ!」を頂いた。今回はそれの別バージョンをしたいと思う。(その記事は以下。) そのとき私は「今回の企画の趣旨は本の選択から自分の欲望を発見することにある。」(「「読みたい本」から読みたい本を選ぶ」)と言っていた。ただ、それは大して達成されなかった。(これが「特に面白
私はひとの話を聞くとき、ほとんど無意識に哲学者をお供させている。いや、むしろ私がお供しているのかもしれない。哲学者たちは雄弁にあなた(=私)の目の前で自らの哲学にとって重要なことが語られていると私に訴える。私はそのことに少しだけ悦に入りながら、その少しあとに「ああ、考えしろを奪われた。」と半ば被害妄想的に反省する。恍惚が偽物であるわけでも、被害が紛れもなく妄想であるわけでもないが、私はそんな感じのことを繰り返しているのである。 私はもう少しだけ自分で考えたい。哲学者たちには
眠たいですし、少し頭が痛いですし(おそらく雨で)、小さいことを考えましょう。 私たちはなぜ進み続けられるのでしょうか。書くことでも読むことでも、話すことでも聞くことでも、私たちはなぜ進み続けられるのでしょうか。もちろん「進む」を定義しないと始まりませんが、とりあえずそれは常識に任せることにして、今回はもっと軽くいきましょう。 私たちは文章を書きます。本を読みます。お喋りをします。お話を聞きます。映画を観ます。音楽を聴きます。なぜかやめることなく。もちろん、文章も本も、お喋
「哲学の快楽──「詩を読むことの快楽」を補う」を読んでみよう。 私はいつも自分のものを読んで、なんとかかんとか思って、やいのやいの言っている。なので、今回このようなことをすることに特別理由が必要であるとは思わないが、今回は明確なきっかけがある。それは入不二基義先生に言及されたことである。 入不二先生はこの記事を永井均(入不二先生に「先生」をつけて永井に「先生」をつけていないことに大した理由はない。ただ、このような態度を取ることが私の考え事を賦活すると思っただけである。)と
2024/10/28「安い曲を聞いて高い服を着る」 心の生態学というワードを思いついて、ついでに生態学と傾向の学としての心理学がどう違うのかが気になった。環境がキーワード? 傾向がある、と言われても、みたいなところがある。が、それはなんなのか。それが考えてみたい。 これは私の心理学への「一般的な人の心理を知ってなんになる」とか、「そこで知られる心理って誰が承認するの」とか、そういうことへの考え事だと思う。 私は対話を描くとき、「Aは言った。『〜』と。私は言った。『〜』
お風呂がある。そのことについて考えてみよう。 私は大抵シャワーで済ませる。お風呂を。時間がもったいないからとかではない。だから「済ませる」はミスリーディングかもしれない。ただ単に入ることが少ないのだ。習慣として。そして今日、とても疲れていて、同居人(私は居候みたいなものなので被居候人と言ったほうが正確ではある)が「お風呂ためる?」と言ってくれたので「うん。」と言った。そしてお風呂に入った。そして思った。「もしこのお風呂にお風呂(浴槽のことである)がなかったら?」と。 もち
ここからの文章は「詩を読むことの快楽」の補足として書かれた。(途中からだが。) 私の「快楽」とか「享楽」とか「愉悦」とか、そういう諸概念は「人」と「狂人」のあいだを開いておく工夫であるとも言える。 「一回目というのは一回しかないし、二回目というのも一回しかないことは、一回目で起こることと二回目で起こることの内容が異なっていることを、まったく意味しない。出来事や経験の中身とは無関係に、一回、二回、三回……という反復自体が、その反復を麻痺させるような一回性をも、いっしょに成立
やっぱり人間には継続性、同一性がなくて、しかしそれは要求されて、なぜか要求されて、だから私たちは苦労してそれを作り出す。しかしその苦労そのものが一つの同一性、継続性の手がかりなので間違ってしまう。飛びついてしまう。そしてそれはそれで幸せなのである。それ自体を欲していたのだから。 哲学を離れ、私は文学の人となる。それを何度か夢見たのだが、私はやはり、怖くて恐ろしくて、やっぱり哲学に戻ってしまう。嗜癖なのだ。アディクションなのだ。 私は幸せである。しかし、私は「私は幸せである
寝そびれた。何か書こう。さっき、げんにびという人をフォローした。そして10くらい、ひたすら「人気記事」を読んだ。 ひたすらにさらさらしていて、特に立ち止まることなく、やけに自然な文章で嬉しくなった。パスカルが「人は自然な文章を読むと嬉しくなる」と書いていたことを思い出した。パスカルが好きらしい。げんにびさんは。 いろいろなことが私のまわりを跳んでいる。バリエーションに富んでいる、わけではないと思う。なんというか、ただ、何に対しても同じことを書いている感じがしない。私は何に