「哲学の快楽──「詩を読むことの快楽」を補う」を読む

「哲学の快楽──「詩を読むことの快楽」を補う」を読んでみよう。

私はいつも自分のものを読んで、なんとかかんとか思って、やいのやいの言っている。なので、今回このようなことをすることに特別理由が必要であるとは思わないが、今回は明確なきっかけがある。それは入不二基義先生に言及されたことである。

入不二先生はこの記事を永井均(入不二先生に「先生」をつけて永井に「先生」をつけていないことに大した理由はない。ただ、このような態度を取ることが私の考え事を賦活すると思っただけである。)と自身の比較論として読んで「おもしろい」と思ったのだという。そして、「また読めるのを、楽しみにしています!」と言われてしまった(言われたこと自体は嬉しいのだが。)ので今回これを書き始めているのである。

ただ、私は特に新しいことを言うわけではなく、この記事にある可能性をちゃんと掬ってみたいと思っている。そして、少なくとも今回は軽くそれをしてみたいと思っている。

入不二先生に言及されてから私はこの記事を一読した。そのときに気になったことは二つ。一つは「身体」の扱いであり、もう一つは二つの「切り返し」の結果としての「往復」というイメージである。今回はそれを意識しながら読んでみたいと思う。ちなみにもう少し後ろには私の記事を読んでいいじぃさんという方が「線から見た点が永井さん」「点から見た線が入不二さん」というふうにまとめていたこと、そしていいじぃさんの他の感想、また、入不二先生が飯盛元章のMOD(「破壊の形而上学」)に対して「死の欲動」との関連を問うていた(らしい)こと、さらには永井哲学における「<死の衝動>」の議論、「<私>とは、存在を語りうる場所にはないあるものであった。そして、存在を語りうる場所と意味および価値のはたらく場所とは重なっている。このとき、<死の衝動>は存在を語りうる("ある"と"言える")すべてのものに対する絶対的な否定の衝動として<存在>しているのだ」(『<私>のメタフィジックス』(勁草書房)180頁)という議論とそのように問うていたこととの関係、等々が控えている。

準備はこれくらいにしよう。準備をし過ぎるとさめてしまうから。

「身体」の扱いについては次の文章に注目しよう。

「一回目というのは一回しかないし、二回目というのも一回しかないことは、一回目で起こることと二回目で起こることの内容が異なっていることを、まったく意味しない。出来事や経験の中身とは無関係に、一回、二回、三回……という反復自体が、その反復を麻痺させるような一回性をも、いっしょに成立させる。また、「流れ去る」という水の運動も、一回性とは関係がない。たとえ湖のように水が留まっていて、いつも「同じ水」がそこにあるとしても、一回目に入ることは一回限りであり、二回目に入ることも一回限りである。そういう仕方でのみ、一回目と二回目とは決定的に異なっている。」(『足の裏に影はあるか?ないか?』(朝日出版社)107頁)

これに私は次のコメントをしている。「日記」で。(写し忘れていたが。)

仮に入らないとすればどうだろうか。湖に入らないとしたら。
2024/11/2「サギ」

このコメントはこの記事を推敲しているときに書かれたものである。(「同じ湖に二度入ることはできない」という入不二的ヘラクレイトス。)そして、私は次のように書いている。この記事で。

「「同一性と変化」から「一回性と反復」へとジャンプする、その跳躍力こそが「唯一性」を「反復できる」もの、「感覚」にするのである。身体。そのジャンプは身体を見つけさせるのである。」(哲学の快楽──「詩を読むことの快楽」を補う)

いや、このやり方だと解説しないといけないことが多すぎる。とりあえず掴もう。仕方ない。

私は書いている。この記事で。おそらく。(「おそらく」というのはまだそこまで読んでいないからである。)入不二の議論に「人」は必要なのだろうか。私には必要に思えない、と。しかし、私はその私に反論を行なっているのである。仮に上に引用した入不二の文章の最後に「入る」という行為性があり、その行為性は「人」を必要としているのではないか、と。そして私は先走ったのである。その「人」には「身体」が必要なのではないか、もっと言えば「能力」が必要なのではないか、「力能」が必要なのではないか、と。(ここで扱いきれるとは思わないのでここでは書いておくだけにするが、この「力能」という表現、そして「能力」との関係については福尾匠が「偽なるものの力能と、真なるものの形態。このふたつの概念はどちらも、ある種のトートロジーをなしており、英語で言えば“of the”に対応する前置詞«du≫は、「偽なるもの/真なるもの"という"力能/形態」と同格として取れるとも考えられる。なぜならこれから見ていくように、形態とはつねに真なるものとして振る舞う「真理のモデル」であり、力能はつねに真偽を決定不可能に追い込むものであるからだ。とはいえ、真なるものの形態において偽なるものが一切存在しないのでも、偽なるものの力能において真なるものが存在しないのでもない。前者において偽なるものは、真理のモデルのたんなる影として力能をもたず、後者において真なるものはモデルとして前提されるのではなく、創造されるべきものになる。このことを、形態が優位になるか力能が優位になるかによって真なるものと偽なるものの関係は変化すると言い換えることができるだろう。力点を置くべきは形態と力能の対立であり、これによってふたつの体制に安易に真/偽を割り振ることを避けることができる。」(『眼がスクリーンになるとき』(河出文庫)284-285頁)と書いているような、繊細な議論を予感してのことである。また、微かに、まだ私は『フェミニズム』(岩波文庫)しか読んでいないので詳しくは知らないのだが、竹村和子の「身体」や「形態」もしくは「力能」、そして「循環」に関する議論も微かに予感されている。)

他にも書かなくてはいけないことはたくさんある(例えば、「同一性と変化」と「一回性と反復」の関係についてはもちろん、「ジャンプ」というフィギュールの可能性、そして逆方向、すなわち「一回性と反復」から「同一性と変化」へは「ジャンプ」するのか、しないとするならばそれはなぜなのか、他に良いフィギュールがあるからなのか、など)が、とりあえず「身体」の扱いについてはこのように言っておきたいと思う。

この文章は「「享楽」と「恍惚」の往復」としての「快楽」という文脈がふらりふらりしているからわかりにくい気がする。その原因は永井の「生の衝動」と「死の衝動」の関係にダブること、さらには「往復」も入不二(なぜか「先生」を付ける気にはならなかったので付けなかった。すみません。もちろん尊敬していないとかではありません。)の「哲学の快楽」としての「往復」、上での表現で言えば「「切り返し」の結果としての「往復」というイメージ」にダブることだと思うのでとりあえず千葉雅也の議論を借りて、「快楽」をそれとして保つためには「有限化」が必要で、「有限化」には「享楽」≒無限に対する「有限化」≒サディズム的「有限化」と「恍惚」≒無際限に対する「有限化」≒マゾヒズム的「有限化」が同時に必要であることを示すための表現として「快楽」を「「享楽」と「恍惚」の往復」であると言わなければならなかったことにしましょう。(レヴィナスは「自我と全体性」のなかでこのようなことについて(「外部の"現存"」という異なる文脈においてではあるが)「外部が自我に呈示されうるためには、外部がまさに"外部"として生体の意識の「境界」をはみ出すだけでは足りない。同時に、かかる外部の"現存"が意識を死に至らしめないこともまた必要なのだ。全体的システムを同化することのできない局所的システムに、このように全体的システムが浸透すること──、これが奇跡である。思考を可能にするのは、このような奇跡についての意識であり驚きである。奇跡は生物学的意識を断つ。それは、経験と思考の媒介項という存在論的位格を有している。奇跡は思考の"始まり"であるとともに経験である。始まりつつある思考は、事実という奇跡を目の当たりにする。事実の構造は、観念とは異なるものとして"奇跡"のうちに存している。だからこそ、思考は単なる想起ではなく、つねに、新たなものの認識なのである。」(『レヴィナス・コレクション』(合田正人編訳)「自我と全体性」391頁)と述べている。これは千葉と入不二のあいだを埋める記述であると私は思う。)

ただ、そういうことになると、永井の「均衡」的な「哲学の快楽」は「人」によってそもそも「有限化」を終えている感じがしますね。それはそれで面白い気がします。ただ、それを強く取りすぎると永井の議論も入不二の議論もゲーム感が強くなって、それこそやる気はなくなります。私は。別にゲームでもいいんですよ。ただ、それが楽しめるゲームじゃないといけないんですよ。この「楽しめる」をどのように感じるか、フィールするかが結構重要なんですよ。元も「哲学の快楽」について書かれているんですし。私はその点では千葉雅也にフィールしているんですよ。おそらく。実践的、そんなふうに言えるような領域についての実感が千葉雅也を読む私にはあるんですよ。(レヴィナスを読む私にも。)

そう思うと永井哲学の触発性は不思議ですよね。普通は「楽しめる」ものじゃないと思うんですよ。なんというか、本気になるのも馬鹿馬鹿しいというか。別に永井哲学が馬鹿馬鹿しいのではなくて、それに反論するのが馬鹿馬鹿しい感じがするんですよ。この感じは入不二哲学にもあるのですが、それは「馬鹿馬鹿しい」というよりも、「反論するのが馬鹿馬鹿しい」というよりも「議論するのが馬鹿馬鹿しい」というか、そういう意味ではやっぱり「託宣」なんですよ。入不二哲学は。

「永井均の議論は基本的に「私」と「人」の関係を問うものである。「人」ならざるものとしての「私」がどうやって「人」になるのか、そしてその「なる」は語りうるのか、が永井均の探究を駆動している。とりあえずそのように言ってみよう。それに対して入不二にはそういう側面は希薄である。彼の探究はもっと「なる」こと自体、そのシステム、循環を問うものである。」(「哲学の快楽──「詩を読むことの快楽」を補う」)という私の短評の前半は間違いがない。少なくとも私の永井哲学理解の表現として。ただ、後半は間違いがないわけではないが、なぜわざわざ「循環」するのかがわからないから「システム」だけだとしたら別にすごく難しいわけではないが、永井が元も子もないことをちゃんと言っているのに対して、入不二はそれを「ちゃんと言っている」感じがしない。別にそれはちゃんと言っていないということではなく、「ちゃんと言っている」がそもそも「人」の領域でしか語れないからそうなっているのだと思う。そして私は入不二哲学理解としてこの「そもそも「人」の領域でしか語れないからそうなっている」をコミュニケーションにおいてメタコミュニケーションではない形でベタに示していることこそが重要だと思うのである。これが拙い表現ではあるが「極論を言えば、入不二の探究において「人」はいてもいなくてもいいのに対して永井のものはそうではない。」(「哲学の快楽──「詩を読むことの快楽」を補う」)という表現で表現されていることなのである。

簡潔に言えば「同一性と変化」と「一回性と反復」とではコミュニケーションの形態が異なるのである。私は雑に「永井/入不二-(一回性と反復→)同一性と変化/(同一性と変化→)一回性と反復」というふうにまとめてしまったが、それはすでに「人」が成り立っているところからしか考えられていなかったのである。私は「哲学の快楽」の二つのパターン、どういう関係にあるかよくわからない二つのパターンを挙げると言いながら、どちらの「哲学の快楽」もただの喜びにしてしまったのである。(この箇所は千葉雅也の議論の影響が強いが、今回は置いておきたい。ちなみにこのことについては『意味がない無意味』(河出書房新社)所収の「エチカですらなく」を参照。)

考えなければならないのは「同一性と変化」を主題とする場合のコミュニケーションと「一回性と反復」を主題とする場合のコミュニケーションを対比するのはいかにして可能なのかということ(これが「人」に「なる」ことの議論)、そしてそれらはどのような関係にあると考えられるのか(これが「力能」と「形態」の関係の議論)なのである。少なくとも「哲学の快楽」を語るときに必要なのはこれらの議論であると、少なくともいまの私は思う。

「なんというか、入不二のものには吸い込まれるところがないのである。プツンと始まり、プツンと始まり、という連続。そしてその連続性すら問いに付され、そこに連続が見られるのはなぜか、それが明かされていく。託宣チックなのである。その意味でパルメニデスの仕方に近いのかもしれない。提示の仕方が。」(「哲学の快楽──「詩を読むことの快楽」を補う」)という箇所がおそらく私の入不二哲学理解の表現としてかなり妥当な箇所である。この「プツン」が入不二と永井を分けるところであり、永井のそれを表現することがいまは難しいのだが、とにかくここに注目しなくてはならないことはわかる。ちなみに、飯盛(やそこと関係が深い千葉)は「プツンと終わる」ことについて考えていると私は思う。(もちろん終わりは始まりであり、始まりは終わりがなければならないのだが。)いや、飯盛についてはあまりちゃんと知らないのであれなのだが、千葉はここでも実践的にこのことについて考えている印象がある。例えば、思弁的実在論の社会的意義を考えていること(例えば『意味がない無意味』所収の「思弁的実在論と無解釈的なもの」など)がそのことを感じさせている。飯盛はどういう感じなのだろうか。ちゃんと読まなくちゃわからない。当たり前のことだが。

「真ん中に現実性があり、それを重み付けるものとしての「私」。入不二のものは何によって重み付けるのだろうか。現実を。いや、もしかすると「重み付ける」ことを避けているのかもしれない。そこにある「人」感を忌避して。」(「哲学の快楽──「詩を読むことの快楽」を補う」)という箇所については入不二が『<私>の哲学をアップデートする』(春秋社)で永井との「現実性」理解の違いを書いていたことを思い出した。いま。また、こことはまったく次元が異なる(おそらく異なる)ところに上で書いたような「入る」存在としての「人」があるのだと思った。残念ながら『<私>の哲学をアップデートする』が手元にないのでまた読んでおきたい。が、ポイントは「一」が成立することに「0」も「二」も必要であることであると思う。(このことについては『足の裏に影はあるか?ないか?』(朝日出版社)の「数と時の思考」にヒントを得た。し、これからも得ると思う。)

「「人」と「狂人」のあいだには吸い込まれるところがある。それはときに「包摂と排除」として語られ、それはときに「道徳と倫理」として語られる。しかし、「吸い込まれるところがある」ことがわかるためには「吸い込まれるところがない」ことがわからなくてはならない。ただ循環し、経巡る。入不二はそれを教えてくれるのだ。開けるとか開けないとかではなく、もうすでに開いていて、もうすでに閉まっている。呼吸のようなもの。」(「哲学の快楽──「詩を読むことの快楽」を補う」)、これもいい表現だと思う。ちなみにこの「呼吸」という比喩は『現代思想』(特集 ビッグ・クエスチョン)の「問いを問うを問う」からの借用である。いま思い出した。ちなみに「「人」と「狂人」のあいだ」について、「包摂と排除」はよく言われることだと思うが、「道徳と倫理」については永井や古田徹也(『不道徳的倫理学講義』(ちくま新書))くらいしか知らない。私は。

「さて、「唯一性」とはなんなのでしょうか。そんなものはないのかもしれません。哲学はそう言い切ろうとしていて、詩はそう言い切れないようにしているのかもしれません。永井と入不二の詩性は「言い切れないようにしている」ことの二つの形でしょう。一つは議論の不可能性によって、もう一つは議論の必然性によって。」(「哲学の快楽」)という箇所はなんというか爽やかでいい感じですが、哲学に必要不可欠の詩性というのはおそらく、「言い切ろうとしてい」るのに「言い切れないようにしている」ことになる、徹底的な、ある意味で言えば否定性、ある意味で肯定性に宿るのだと思います。そのこと自体を永井・入不二はペアで示している感じもしますが、それがなんなのか、私にはわかりません。ペアで示すことになると「言い切れないようにしている」ではなく「言い切れないようにする」という形で神秘化されてしまうと思っているのかもしれません。ただ、入不二は「託宣」的だと言っているのですでにそうなってしまっているのかもしれませんが。それに対抗する永井、という構図も面白いかもしれません。

「何かが始まることはAからBへという移動を含むと思います」(「哲学の快楽──「詩を読むことの快楽」を補う」)ということを私は議論の初めに据えることで私は議論を落ち着かせようとしている、とも言えると思いますが、そもそも「始まる」こと自体が「初め」が「何か」として据えられることであり、そう考えるとここではそのことを極めて遊戯的に再演しているように見えました。まあ、私は真剣、というか、どうにかしようとしていると思うのですが。

最後に一つ、私は入不二の「哲学の快楽」を「二つの「切り返し」による「往復」」であると見直したが、それは見直しという意味では正しくても入不二哲学理解としては少し間違っている。いまはそう思う。入不二の「切り返し」と千葉の「切り返し」で違うのは入不二が「切り返さざるを得ない」ところをそれとして示そうとしていることである。これがおそらく「詩/哲学-ひそやか/あからさま」という幸せな連関を少し、しかし確実にずらしているのである。それに対して永井は確実に、しかし少しずらしているのだと思う。入不二寄りの見解で申し訳ないが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?