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【LAWドキュメント72時間】価値とは何か?


■なくてはならないもの

人や社会にとっての

「なくてはならないもの」

をつくるということ。


時代ごとに変わる

「なくてはならないもの」

を探し、あらゆる人の手に届くようにする。


だからこそ生きるために必要なものになっていく。

誰にでも手が届くものにこそ、価値がある。


■価値があるとはどのようなことか?

「価値があるとはどのようなことか」(ちくま学芸文庫)ジョセフ・ラズ(著)森村進/奥野久美恵(訳)

本書において、正当な価値の多様性とは、

「ある人にとって価値あるものが他の人々にとってそうではない」

ということではなく、

「同一の価値への人々の惹きつけられ方が一様ではない」

という事実の結果であるという。

【参考図書】
「「価値」こそがすべて! ハーバード・ビジネス・スクール教授の戦略講義」フェリックス・オーバーフォルツァー・ジー(著)原田勉(訳)

「値段と価値 なぜ私たちは価値のないものに、高い値段を付けるのか?」ラジ・パテル(著)福井昌子(訳)


■価値に普遍性を求めることは間違っているのか?

value theory(価値理論)

「意味に餓える社会」ノルベルト・ボルツ(著)村上淳一(訳)

「価値のある価値が存在するなら、その価値は、「起きることすべて」や「そうであることすべて」の外側にあるにちがいない。というのも、「起きることすべて」や「そうであることすべて」は、偶然なのだから。」

「論理哲学論考」(光文社古典新訳文庫)ヴィトゲンシュタイン(著)丘沢静也(訳)

「世界の意味は、世界の外側にあるにちがいない。世界では、すべてが、あるようにしてあり、すべてが、起きるようにして起きる。世界の中には価値は存在しない。もしも仮に価値が存在しているのなら、その価値には価値がないだろう。」


■お金

「新版 お金の減らし方」(SB新書)森博嗣(著)

お金の使い方を通じて、

「価値ある人生とは何か?」

を考えさせてくれる本書は、今まさに読むべき一冊だと思う。

本書の主張を簡潔に纏めると以下。

①世間体に囚われた必要なものにお金を使ってはならない。

②自分が欲しいもの、自分にとって価値のあるものを得るためにお金を使いなさい。

③それが他者の評価に依存せず、自分の価値を見つける方法だ。

具体的な記述としては以下。

▶価値と価格について

「値段が定められた商品を買わされている側の人たちは、価値というのは、すなわち値段だ、という意識を持ちやすい。

・・・値段がすなわち価値だ、という安直な認識に長く浸かっていると、高価なものは価値がある、高価なものを持っていれば周囲から尊敬される、というような歪んだ価値観ヘシフトしてしまうかもしれない。

何が間違っているのかといえば、自分の欲しいものがわからない人間になっている、という点である。簡単にいえば、自分の人生を見失っていることに等しいだろう。」(P50)

▶お金の価値ある使い方とは

「お金は、目的ではない。

お金を得ることが目的であるわけではない。

目的を達成するための手段として、お金があるのである。

・・・お金を、自分が欲しいもの、やりたいことと交換しなければ、価値は生まれない。お金を失うことで、価値が得られるのだ。」(P55)

「お金というのは、自分の未来の可能性を考えるツールの一つだ、と捉えるのが、最も近いように僕は思っている。」(P81)

▶世間の評価を気にせず生きることの大切

「できるかぎり、他者に依存しないものを、自分の人生の目標とすることを、是非おすすめしたい。

これは、多くの人にとって、非常に難しい条件かもしれないが、本来それが本当の夢というものである、と僕は考えている。」(P183)

「価値は、欲しいもの、やりたいこと、という物体や行為自体にあるのではなく、それを手に取ったとき、それをやっているときの自分に生じるもの、と考えた方が適切である。

同時に、それによって自分が高まれば、価値はさらに大きくなる。」(P198)


■人間

「これがニーチェだ」(講談社現代新書)永井均(著)

[ 内容 ]
哲学は主張ではない。
問いの空間の設定である。
ニーチェが提起した三つの空間を読み解く、画期的考察―。

[ 目次 ]
第1章 道徳批判―諸空間への序章
第2章 ニーチェの誕生と、『悲劇の誕生』のソクラテス像
第3章 第一空間―ニヒリズムとその系譜学
第4章 第二空間―力への意志とパースぺクティブ主義
第5章 『反キリスト』のイエス像と、ニーチェの終焉
第6章 第三空間―永遠回帰=遊ぶ子供の聖なる肯定

[ 問題提起 ]
哲学的な意味で

「自己を肯定すること」

について、この本は、そんな初心者にも、ニーチェ入門として、非常に分かりやすい内容であった。

著者はウィトゲンシュタインの入門書も執筆しており、分かりやすい解説で定評がある。

先入観を持ちたくない方は、はじめから「ちくま学芸文庫」のニーチェ全集などに取り掛かるのがいいかと思うが、彼の思想的ダイジェストと、それを支える根本的な思想原理を知っておくことは、そう無駄ではないだろう。

ニーチェ哲学の有名な概念に、ニヒリズムがある。

ニヒリズムとは、その虚無主義を乗り越えたところの

「生の肯定」

を示したものであった。

[ 結論 ]
ここが非常に重要なポイントとなるので、ニヒリズムの意味について以下に論じる。

まず、ニーチェの

「ニヒリズム」

とは、人間が客観的に理想とすることのできる価値(神)の欠如のことであり、したがって、ニヒリズムに陥った人間の人生とは、無意味・無目的的であることになる。

それはヨーロッパにおいてはキリスト教であり、そして、そうした意味においてキリスト教的である科学に対して、無根拠性を暴露することであった。

これらは、我々人間に生きるための判断基準を与えてくれる存在ではあるが、生への受動的態度でもある。

ニーチェにとってキリスト教に基づく精神は、絶対他者の存在によって人間の弱さを隠すための逃げ道なのである。

なぜなら、善悪の価値基準(道徳)とは究極的に個人から創造されるものであって、それこそが、無意味な生に本質的な価値を付与すると考えたからである。

よって、ここで

「神の死」

が求められる。

「敵が称揚する価値を否定してその逆を主張している限り、敵の空間の内部にいる。

空間の内部で対立する価値を称揚するのではなく、その対立空間それ自体を否定し、自分の空間の内部に引き入れて位置づけてしまわなければ、完全な勝利をおさめることはできない。」

キリスト教の与える価値というのは、これまで感じてきた否定感を、価値観をひっくり返す(プロテスタント倫理的に)ことで、肯定感に変えてしまおうという試みだが、それは

「キリスト教と対立する概念としての善悪」

があったからこそ成り立つ議論であって、その意味で嘘である。

ニーチェはそれを否定したのだから、キリスト教の嘘から生まれた

「キリスト教によって育てられた敬虔な無神論」

なのである。

無神論だからといって、虚無的に生きるのかというとそうではなく、力への意志を持って自己の肯定を目指して生きるという、生に対する衝動こそが本質的に理想となる人間像に近づく唯一の道だと、ニーチェは考えたのである。

「ニーチェには、弱者を勇気づけようなどという要素は微塵もない。弱者を勇気づけないこと、そのあるがままを肯定することを教え、けっして向上心を持つように仕向けないこと、それがニーチェに可能な弱者への唯一の愛であろう。」

したがって、ニーチェは単に虚無主義的に人間の生を否定したのではないのである。

しかし、それは決して簡単な受け止め方ではない。

それをニーチェは永遠回帰として表している。

「ニーチェは同じ内容のことが数的にだけ複数回―いや無限回―起こるという言い方で、一回性のこの生の―外側からの評価ではなく―内側から生きられた内容それ自体に重しを与えている」

のである。

「たとえどれほど惨めな人生であっても、それがたまたま自分の生であり、それがなぜか存在したということ、そのことに外部から評価を与えることはできない。それがそのように存在したこと、そうであったこと、それがそのまま価値なのである。」

それを無理やりにでも引き受けて生きてゆくことが

「力への意志」

である。

このような

「生の肯定」思想

は、資本主義的な現代にも非常に大きな意味を持っている。

[ コメント ]
人間の価値とは、様々なものに乗り移っていくことが特徴的である。

つまり、もともと

「生の肯定」

のために始められたことが、その始めたこと自体に意味を見出すようになり(例えば仕事)、さらにはそれ自体も忘れ、それによって得られるもの(例えば金銭)を集めることに終始するようになる。

しかし、そうした手段の目的化は当然ながら生きることの意味を与えてはくれない。

そこでニーチェの指摘にあるように、生を肯定するための自分の価値を定立することが根本的な目的であることを思い出すことに重要な意味がある。

即物的なフェティシズムに堕することなく、生を肯定するための聖なる詭弁を必死に守り抜いて、どんなにくだらなく、情けない存在だとしても、それを受け入れていく力こそ我々の価値なのである。

もちろん、それによって生の価値が向上するということは、ニーチェに従えば

「ない」

わけだが、この価値基準は個々人に、道徳的・積極的な規律(ディシプリン)を与える。

「存在するすべてが肯定されるのは、究極的な価値基準によってそれらが肯定されるからではない。

そんな価値基準が究極的にはないことによってこそ、それは端的に肯定されるのである。

「よし」とする裁きがなされるからではなく、およそ裁きなどなされえないからこそ、裁きなどによって傷つけられないからこそ、存在するすべては端的に肯定され、それ自体で輝くのだ。」


■古典に学ぶ(徒然草38段:世間の評価はどうでもいい)

「新版 徒然草 現代語訳付き」(角川ソフィア文庫)兼好法師(著)小川剛生(訳注)

兼好法師は「徒然草」のなかで次のように斬り捨てる。

「名利に使はれて、閑かなる暇なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。

財多ければ、身を守るにまどし。

・・・利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。」

また一時の名声を手にしたとしても、

「誉むる人、そしる人、共に世にとどまらず。

伝へ聞かん人、またまた、速やかに去るべし。

誰をか恥じ、誰にか知られん事を願はん。

誉れは、またそしりのもとなり。」

では、兼好法師の理想像はどのようなものか?

「まことの人は智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。

・・・本より、賢愚・得失の境にをらざればなり。」


■古典に学ぶ(正法眼蔵随聞記:世間の評判を気にしがちな風潮を批判)

「正法眼蔵随聞記」(ちくま文庫)道元(著)懐奘(編)水野弥穂子(訳)

「世人多く善事を成す時は人に知られんと思ひ、悪事を成す時は人に知られじと思うによって、この心、冥衆の心にかなはざるによって、所作の善事に感応なく、密かに作す所の悪事には罰あるなり。」(世の中の人の多くは善いことをした時は人に知られたいと思い、悪いことをしたときは人に知られまいと思う。こういた心がけが諸天や閻魔に見透かされてしまい、善いことをしても報われず、人知れず犯した悪事には罰が下るのだ。)

「今の世、出世間の人、多分は善事をなしては、かまへて人に識られんと思ひ、悪事をなしては人に知られじと思ふ。此れによって内外不相応の事、出で来たる。相構へて内外相応し、誤りを悔い、実徳を隠して、外相をかざらず、好事をば他人に譲り、悪事をば己に向ふる志気あるべきなり。」(今の世の中、一般の人も出家した人も、善いことをしたらどうにかして人に知られようと思い、悪いことをしたら人に知られまいと思う。だから心の内と外が一致しなくなる。心の内と外をひとつにし、間違いを悔い改め、真の徳は内に隠し、外面だけを飾らず、善いことをしたら他人に譲り、悪事の責めは自分が引き受けるくらいの気概を持つべきだ。)

「今この国の人は、多分あるいは行儀につけ、あるいは言語につけ、善悪是非、世人の見聞識知を思うて、その事をなさば人あしく思ひてん、その事は人よし思ひてん、乃至向後までもと執するなり。これまた全く非なり。世間の人、必ずしも善とする事あたはず。」(この国の人の多くは、行儀や言葉に善悪を考え、世間の評判を考え、こうすれば人が悪く思うだろう、こうすれば人が立派に思うだろう、と後々のことまで勘定に入れて考えているが、まったくの間違えだ。世間の人は善いことでも必ずしも善いと判断することができないから。)

「ただなにとなく世間の人のやうにて、内心も調へもてゆく、これまことの道心者なり。」(表面的には一般の人と同じにように見せかけて、内なる心を整えてゆく者が、真の道心ある者なのだ。)

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