【哲学】永井均はそもそも"学者"であるのか?【天才@hitoshinagai1】
結論:永井均は学者でない。
理由:なぜなら、永井均はまともな論文を持っていない。
永井均は哲学者と呼ばれてきた。しかし、俺は永井均を哲学者と認識しない。なぜなら、永井均はまともな論文を持っていない。
以下では、俺は永井均が学者であるのかを述べる。さらに、俺は学者とは何であるのかを提示する。
学者とは?
定義1
始めに、学者とは何であるのかを考えよう。一般的に、日本人は学者が何であるのかを自分の言葉でちゃんと決めない。そのため、誰が学者であるのかが非言語的な雰囲気で決定される。
その結果として、論文を書いてない自称学者が大量に発生する。これを防止するために、俺は学者を次のように便宜的に定める。
定義:学者は人間である、かつ学者は対象を分析する、かつその分析は普遍的である。
つまり、学者は分析者である。学者を「分析者」と呼ぼう。分析が普遍的であるとは、その分析が全世界へと拡張されることである。"日本人"にか通用しない分析は普遍的な分析でない。
定義2
より現実的な定義は次である。
定義:学者は分析者である、かつその学者は査読論文を製造する。
要するに、学者は査読論文製造者である。俺は査読論文が何であるのかをここでは述べない。代表的な査読論文には、数学の論文や科学の論文があり、これらが論文の基準である。
分析者という定義では、分析の出力が存在しない。このとき、ある自称学者は「俺は数学を分析している」と主張するが、その学者はその分析を出力しない可能性がある。だから、俺は製造という表現を学者の定義に組み込んで、自分の分析を出力しない自称分析者を排除した。
学者の判定法
理屈作り
俺はある主体が学者であるのかを判定するための理屈を作る。俺はこの理屈を使用して、永井均が学者であるのかを判定する。俺らが上の定義と下の理屈を使用すると、雰囲気による学者認定が排除される。
理屈:もしある主体が査読論文を持たないならば、その主体は学者でない。
俺はこの理屈を日常的には有用であると認識する。要する、査読論文を書いていない人間は学者でない。学者であるためには、査読論文を書く必要がある。その基準は数学や物理における査読論文である。俺は理系の査読論文を論文の基準とする。
永井均は学者であるのか?
ここでは、永井均が学者であるのかを判定してみよう。結論から言って、永井均は学者でない。なぜなら、永井均は理系水準での査読論文を持っていない。
俺の認識:永井均は学者でない。
俺は上記の理屈「もしある主体が査読論文を持たないならば、その主体は学者でない」を使用する。ある主体を永井均とすると、「もし永井均が査読論文を持たないならば、永井均は学者でない。」が得られる。
電網を検索したところ、俺の知る範囲では、永井均は理系基準での査読論文を持っていない。そこで、俺は(俺の知る範囲での)次の事実を作る。
事実:永井均は査読論文を持っていない。
上記の推論を使用すると、「永井均は学者でない」が得られる。従って、永井均は学者でない。
永井均は普遍的であるのか?
さて、ここでは、自称学者の永井均の別の問題を述べてみよう。それは、永井均の問題点とは、自称学者として永井均は日本人にしか通用しないことである。より酷い場合には、永井均は極一部の日本人にしか通用しない。日本人ですら永井均を疑っている。
問題点:永井均は日本人にしか通用しない。
これはアーリア人にしか通用しない数学やセム人にしか通用しない数学、漢人しか通用しない物理学、朝鮮人にしか通用しない生物学に等しい。永井均の哲学は日本人にしか通用しない哲学である。永井均の哲学は日本人以外への拡張性、つまり普遍性を持っていない。
永井均の哲学は柳龍拳のような合気道の達人の「気」に非常に似ている。合気道の達人の「気」は弟子にしか通用しない。なぜなら、その「気」は弟子以外への拡張性を持っていない。だから、もしその達人が弟子以外と本気で戦うと、下記のように、ぼこぼこに殴られて敗北する。