Nakayama

私の一番の趣味は哲学です。定年退職した元サラリーマンです。ある国立大学の工学部電気工学…

Nakayama

私の一番の趣味は哲学です。定年退職した元サラリーマンです。ある国立大学の工学部電気工学課を卒業し、通信関係の会社に勤めていました。放送大学で、哲学のいくつかの課目を履修しました。その内容は殆ど覚えていません。哲学者の先生方から直接に学んだ経験は殆どありません。

最近の記事

カント「純粋理性批判」への極めて素朴な疑問 5

Wikipedia 「学として現れるであろうあらゆる将来の形而上学のためのプロレゴメナ」から引用 引用始め カントは空間と時間の超越論的観念性についてのひょっとすると最も有名な教説を展開している。 要約すれば次のようなことが述べられている。 空間と時間は実在的には存在しない、つまり、人間から独立には存在しない。 すなわち、それらはむしろ(人間の)全ての感性的経験の根本条件であり、それで以て我々が現実を見るようなメガネのようなものである。 引用終り =====

    • カント「純粋理性批判」への極めて素朴な疑問 4

      NHK 100分de名著「純粋理性批判」電子書籍の71/301ページから引用します。 引用始め まず、物自体が感覚器官を刺激します (触発する、とカントはいいます) 具体的にいえば、視覚・嗅覚・聴覚・触覚・味覚などを通じて、「赤い色のなにか」 「甘い香りのなにか」といった多様な感覚を受け取ります。 ★ カントに従えば、私たちは感覚器官を通じて受けとったこれらの多様な感覚を、「空間」と「時間」という二つの枠組みのなかで整理しています。 この二つの枠組みでもって多様な感覚

      • カント「純粋理性批判」への極めて素朴な疑問 3ー2

        (前の記事の書き直し) カントの純粋理性批判では、 人の感性は、物事の認識をする作用として説明されている。 ただし、「物事の認識」以外の作用は無いと説明していないかも知れない。 ◎人は、睡眠状態で、 音、痛み、身体を触られる、尿意の感覚が強いと、 眼が覚めて覚醒した状態に変化する。 ◎これは、カントの説明による「物事の認識」ではない、と考え得る。 ◎また、人に限らず、相当に多種類の動物でも、同様の作用はあると思われる。 以上の考察から、カントの感性についての説は、

        • カント「純粋理性批判」への極めて素朴な疑問 3

          wikipedia 悟性 から 引用はじめ イマヌエル・カントの悟性論は『純粋理性批判』で展開される。悟性は感性と共同して認識を行う人間の認識能力のひとつであり、概念把握の能力である。詳述すれば、物自体に触発されて直観による表象を行う下級認識能力である感性に対して、悟性は理性や判断力とともに上級認識能力のひとつであるとされる。 引用おわり 人が睡眠中に、尿意、痛み、目覚ましの音で、目が覚めることがある。 これは、物自体からの感覚による心の状態の変化である。 この過程

        カント「純粋理性批判」への極めて素朴な疑問 5

          永井均先生の<私>の哲学を検討する その10-2

          (直前の記事の続きです。) ◎ 永井均氏であるNの<ぼく>が、別人のWの<ぼく>になる、出来事が起きた、 と考えます。 それ以降、Wの<ぼく>は、それ以前のNの<ぼく>の記憶、性格、知的能力を受け継いでいる筈です。 何も受け継がないで、Wの記憶や性格などが◎以前のままでは、◎が起きた意味がありませんから。 現在の大脳生理学によると、人の記憶は脳のある部分に蓄積されていると結論はされていると思います。 Nの<ぼく>が、別人のWの<ぼく>になる、出来事が起きた、 とする

          永井均先生の<私>の哲学を検討する その10-2

          永井均先生の<私>の哲学を検討する その10

          永井均先生の<私>の哲学についての考察を追加します。 ===== 永井均著「<子ども>のための哲学」の電子書籍の58/332から引用します。 前の記事での引用と同じ文です。 ===== 友人に話した方の問いには、そういう取りちがえはない。それは「ぼくはなぜ生まれてきたのだろう?」というものだったが、 もっと正確にいえば 一組みの男女がセックスをして、ある特定の人間が生まれ、そいつが「永井均」と名づけられる。そこには何の不思議もない。 でも、その子がどうしてぼくでな

          永井均先生の<私>の哲学を検討する その10

          永井均先生の<私>の哲学を検討する その9

          私(=Nakayama)は、直前の記事で、 永井均先生は、 「永井先生の精神は別の人の精神である可能性はあったのだ」 と考えているのでしょう、 との推測を書きました。 この推測が正しいと仮定します。 別の人の具体例として、西村博之氏(現在47歳)を考えます。 永井先生の精神は、西村氏の精神である可能性があった、と仮定します。 永井先生の精神は、3歳頃にはあったと考えられるでしょう。 永井先生は西村氏より25歳上ですから、 西村氏が生まれる以前の20年間以上、永井

          永井均先生の<私>の哲学を検討する その9

          永井均先生の<私>の哲学を検討する その8―2

          永井均先生の著書 「<子ども>のための哲学」の電子書籍の58/332から引用を、再掲します。 一組みの男女がセックスをして、ある特定の人間が生まれ、そいつが「永井均」と名づけられる。そこには何の不思議もない。 でも、その子がどうしてぼくでなければならなかったのか、ぼくはどうしてそいつでなければならなかったのか、 ここにはどうにも説明のつかない神秘がある。 引用終わり ===== 私(=Nakayama)は、永井先生の書籍を丁寧に読んではいません。 それにも拘わらず

          永井均先生の<私>の哲学を検討する その8―2

          永井均先生の<私>の哲学を検討する その8

          永井均先生の<私>の哲学についての考察を追加します。 ===== 永井均著「<子ども>のための哲学」の電子書籍の58/332から引用します。 友人に話した方の問いには、そういう取りちがえはない。それは「ぼくはなぜ生まれてきたのだろう?」というものだったが、 もっと正確にいえば 一組みの男女がセックスをして、ある特定の人間が生まれ、そいつが「永井均」と名づけられる。そこには何の不思議もない。 でも、その子がどうしてぼくでなければならなかったのか、ぼくはどうしてそいつで

          永井均先生の<私>の哲学を検討する その8

          カント「純粋理性批判」への極めて素朴な疑問 2

          NHK 100分de名著「純粋理性批判」からの抜粋です。 ===== 主観的な認識以前の、客観的な物そのものの世界があると考えます。 しかし私たちは、主観のなかに現れ出た現象しか認識できず、物自体を認識することは不可能です。これがカント認識論の大前提となります。 私たちはどのように現象界において物事を認識しているのでしょうか。 つまり、主観の認識の「共通規格」はどのようになっており、どのように働いて私たちの日常的な認識(一輪の花が花瓶に挿してある) を成り立たせるのか。

          カント「純粋理性批判」への極めて素朴な疑問 2

          カントの純粋理性批判への極めて素朴な疑問

          私は、唯物論を正しいと考えている。 それが正しければ、 人の心に起きる、感情や思考の現象は神経回路網の動作でしょう。 受精卵となった時は、心の現象はないに違いない。 受精卵から成長するに連れて、徐々に心の現象が発達し、その過程は連続的でしょう。 心の発達が連続的であるならば、24のカテゴリーという、離散的な特性が、ある時点で、心に生ずるとは考えられない。 最初はカテゴリーはない、ゼロであるでしょう。 ある人(A)が、受精卵から成長する過程で、Aの心の現象に、ある時点で、離

          カントの純粋理性批判への極めて素朴な疑問

          全知全能の神は存在するでしょうか? その3

          物質からなる宇宙の全体を、全知全能の神が創ったと、一神教の宗教で言われています。 上記は真実であると仮定します。 神が宇宙を創る以前には、物質からなるこの宇宙は存在しなかった。 よって、神の一部や全部はこの宇宙の物質ではありません。 この宇宙ではない別の宇宙があるということは、ここでは考えないこととします。 物質ではない神が、 何かの材料を使って宇宙を創ったのであれば、 その材料は、なぜ存在していたか? という問題があります。 その材料を神が創っていたのであれば、 そ

          全知全能の神は存在するでしょうか? その3

          全知全能の神は存在するでしょうか? その2

          また、全知全能の神は存在しないでしょう、とバチ当たりの考えを書きます。 全知全能の神の能力を考えると、 真に真に、想像を絶する途方もない能力です。 自分が肉眼で見える物だけでも、真に膨大な物があります。 木の枝や葉っぱ、雑草の1つ1つ、人々の顔、服装、行動、 道路、車、自転車、各々の家、田畑、川や下水の水と生物、等々。 眼に見えない、コロナやインフルエンザのウイルスもあります。 地球全体を考えると、さらに膨大です。 全知全能の神は、宇宙の全体のことを137億年にわ

          全知全能の神は存在するでしょうか? その2

          永井均先生の<私>の哲学を検討する その7

          (永井均先生の<私>の哲学についての検討は一段落しました。今後何か考えるかも知れませんが、今はありません。) 前回の記事と同じく、永井先生の下の文章から引用します。 https://haruaki.shunjusha.co.jp/posts/4008 (引用開始) 4 しかし、それらのもののうちある種類のものには心とか意識とか呼ばれるものがそなわっている、とはそもそもどういうことなのだろうか。 それはたとえば、すべてのカラスは黒いといったような仕方で、ある種類のすべ

          永井均先生の<私>の哲学を検討する その7

          永井均先生の<私>の哲学を検討する その6

          (今までのタイトルは野暮と感じたので、変えました。内容は続きです。) https://haruaki.shunjusha.co.jp/posts/4008 永井先生の上の記事の一部を引用します。 (引用開始) 4 しかし、それらのもののうちある種類のものには心とか意識とか呼ばれるものがそなわっている、とはそもそもどういうことなのだろうか。 それはたとえば、すべてのカラスは黒いといったような仕方で、ある種類のすべてのものにそなわっているのだろうか。そうではないだろう。

          永井均先生の<私>の哲学を検討する その6

          永井均先生の<私>の哲学が分かりません その5

          <私>の存在の比類なさ 著者 永井 均 勁草書房 1998年 28ページから引用します。 (引用開始) 宇宙が現実とまったく同じ歴史的経過を辿ったとして、そのときそこでその 両親から生まれ「永井均」と名づけられた人間は、私でないことも可能であった。 だが、なぜかそれは私であった。 なぜ、それが私であったのか、そしてなぜ、他の人間が私ではなかったのか、それはまったくの謎である。 はっきりしていることは、永井均を含む多くの人間を産出した現実とまったく同じ歴史的経過が、私を

          永井均先生の<私>の哲学が分かりません その5