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文法的世界【8】
【8】アレゴリーとカテゴリーと私的言語・註─現実世界の構成(2)
[*1]私が「四つの」私的言語の“着想”を得たのは、永井均氏のたとえば次のような議論に接したことがきっかけだった。(以下は「哥とクオリア/ペルソナと哥」第62章3節からの自己引用。)
……『私・今・そして神』がその“開闢”を告げた永井哲学の到達点は、『存在と時間──哲学探究1』『世界の独在論的存在構造──哲学探究2』の二冊の書物に見ることができます。それらの著書で(何度でも最初から)取りくまれているのは、〈私〉と〈今〉そして〈現実〉が存在することへの驚きと、それらに共通する構造の解明という、紛れもない永井哲学(永井神学?)の刻印を帯びたテーマにほかなりません。このことについて、たとえば「哲学探究2」の雑誌掲載稿の冒頭では、次のように述べられています。
《私にとって驚くべき、すなわち哲学すべき主題は、まずは、なぜかこの私という説明不可能な、例外的な存在者が現に存在してしまっている、という端的な驚きであり、次に、この不思議さを構造上(私でない)他人と共有できてしまう、という二次的な不思議さであり(それはまた、にもかかわらず問題の意味そのものが理解できない人が頭脳明晰な人のなかにもかなりいるという意外性でもあり)、そして最後に、本質的に同じ問題が私の存在以外のこと(たとえば今の存在や現実の存在といった)にもあてはまる、という再度の驚きである。この連載の最終的な狙いは、この最後の点に照準を合わせて、それらに共通の構造を解明することにある。》(『世界の独在論的存在構造』ⅱ)
私と今と現実をめぐるメタ・フィジカルな問題は、『私・今・そして神』の最終局面で述べられた言語による世界創造をめぐる形而下的な言語哲学的問題と響き合っています。「言語は開闢を隠蔽する。逆に言えば、世界を開く。人称、時制、様相は、客観的世界の成立に不可欠な要件だが、それは開闢それ自体を隠蔽することによって可能になるのだ。「私の今の言語」──この言い方が、言語の内部ではその人称概念と時制概念に吸収されて理解されることになる。」(222頁)
ところで、その『私・今・そして神』で、永井氏は、「私の分裂」と並行的に論じて哲学的意味を失わない思考実験として、「世界の分裂」と「今の分裂」、そして「神の分裂」を挙げていました(107頁)。また、第2章最終節の最後の項「神・現実・私・今」では、「この私」や「今」や「現実世界」や「神」の存在証明をめぐる議論を経て、次のように述べていました。
《ともあれ、神の存在論的証明をめぐる哲学史上の諸説、現実世界の位置をめぐる可能世界論における対立、A系列とB系列をめぐる時間論上の議論、そしてコギト命題の解釈をめぐる論争、これらがすべて‘同じ一つの’問題をめぐっていることは、まずまちがいないことだと私は思う。
私はずっと、自分の関心に従ってまったく自分勝手に哲学をやってきた。だが、本書で到達し本書で論じられたような問題が、古代ギリシアに始まり、デカルト、カントを経て今日にいたるあの固有名としての哲学にとっても最も中心的な課題であったことはまず疑いのないことであるように思われる。》(『私・今・そして神』180-181頁)
神と現実と私と今の取り合わせは、同書最後の一文にも登場します。
《私、今、現実、神……世界の内部で理解されるなら、それらはつねに、もし世界内の一存在者でないとすれば何も連動していない歯車にすぎない。だからもちろん、そんなものは存在しないとつねに言える。しかし、通り越して短絡させることができる、機構全体とまったく繋がっていない、その歯車こそが、その機構全体をはじめて現実に存在(つまり実存)させているのだ。
それがすべての開闢であると同時に、そんなものはどこにも存在しない。すなわち、そんなものはどこにも存在しないと同時に、それがすべての始まりなのである。》(『私・今・そして神』222-223頁)
冒頭でふれた「現在の」永井哲学の最先端の議論、すなわち、三つのメタ・フィジカルな存在の共通構造の解明と、ここで語られた四つの思考実験、四つの哲学史上の中心課題とを組み合わせてみます。するとそこに、ひとつの「空白」があらわれてきます。(さらに客観的世界の成立要件の話題をこれに組み合わせると、人称、時制、様相に次ぐ第四の文法的概念の欠落が浮き彫りになってくる。)
・〈 私 〉⇔ 私の分裂 :コギト命題の解釈をめぐる論争
・〈 今 〉⇔ 今の分裂 :A系列とB系列をめぐる時間論上の議論
・〈現実〉⇔ 世界の分裂:現実世界の位置をめぐる可能世界論における対立
・〈 ? 〉⇔ 神の分裂 :神の存在論的証明をめぐる哲学史上の諸説
最後の山括弧の中に入る語彙の第一候補は、間違いなく「神」(=「在りて在るもの」すなわち「存在」?)でしょう。つまり、〈神〉の存在構造(〈存在〉の存在構造?)をめぐる考察は、永井哲学においていまだ手つかずの課題として残されている、ということになるのでしょう。あるいは、〈神〉とは〈私〉と〈今〉と〈現実〉が三位一体的に存在することそれ自体にほかならず、だから〈神〉の存在構造をめぐる課題はそれら三者の共通構造の解明作業のうちに回収されていくのだ、(だから山括弧の中は空白のままでこそ意味があるのだ)、といった議論がありうるかもしれません。(〈神〉をめぐる私的言語は〈神〉について語り合う言語ゲームのうちに回収されるのだ、といったような議論も?)
しかし、私はこれまでから、そこに「感情」という語を嵌めこめないかと考えてきたわけです。……
[*2]〈感情〉をめぐる私的言語に関して、私が──「神」や「世界」や「アウラ」や「霊性」や「φ」などではなく──「感情」という語にこだわる背景について、いま少し“素材”を補っておきたい。
・ポール・クローデルは「能」(『朝日の中の黒い鳥』)の中で次のように書いている。「驚くべき逆説によつて、それはもはや演者の内部にある感情ではなくして、演者が感情の内部に入つてしまつてゐるのである。」(堀辰雄「クロオデルの能」)
・永井均著『西田幾多郎』の次の一節。「私が悲しいとき(私には)世界が悲しいように映る。…経験の主体は常に世界の内部に存在する個人であるという事実を、言語表現の基礎にあらかじめ…織り込んでいない非人称的な日本語的表現のほうが、(他者を、排除しているという意味であれ、含み込んでいるという意味であれ)実は暗に独我論的であ…る。」
・最近、萩原朔太郎の『詩の原理』を読んでいて、「音楽や、詩歌や、舞踊等は、物の「真実の像」を写そうとするのでなく、主として感情の意味を語ろうとする表現である故に、…この表現は「描写」でない。それは感情の意味を表象するのであるから、約言して言えば「情象」である」(形式論第三章)とあるのが目に留まった。
(これを読んで私は、新石器の洞窟芸術の時代の、つまり始まりの言語、始まりの心の頃の混然一体となった「感情」のこと、すなわちクオリアやペルソナといった第〇次内包と無内包の現実性とのいわば“界面”現象における「始まりの言語=心=感情」を想起した。
このようなものとして「感情」を捉えれば、九鬼押韻論に対する不満や、萩原朔太郎の詩論におけるリズム論の不在などは、すべて洞窟的観点──“正常意識”の基底としての“変性意識”(メロスとロゴスに分岐する以前の)に対する認識──の不徹底によるものであることがわかる?
ちなみに、野沢啓氏は『詩的原理の再構築──萩原朔太郎と吉本隆明を超えて』で次のように書いている。「朔太郎は《感情は理智の知らない真理を知っている》というパスカルのことばを愛用しているが、その意味は《智慧の認識と共に融け合ってる感情──即ち主観的態度の観照──を指している》のである。そしてこのことは未発表ノートのなかでも《‘感情は真理である’》とくりかえされていることでも朔太郎の確信を確かめることができるだろう。」(72-73頁)