永井均(著)『存在と時間 ――哲学探究1 』読書メモ(再掲)
2022年4月2日に投稿済みですが、目次を追加して再掲します。
(a)私
現実 に 感じ られる 痛み の 現実性 は 何 が 引き起こし て いる の だろ う か。 この 問い は 要するに、なぜ 私 という 例外 的 な もの が 存在 する のか、 という 問い で あり、 それ が 存在 する とは 何 が 存在 する こと なのか、 という 問いで ある。 ところが、 この 問題 の 意味 を 理解 でき ない 人 が ひじょうに 多い。
(b)今
過去 の 存在 の 場合 で 言う なら、 そんな こと を 疑う 以前 に、 むしろ 問題 設定 を 逆 に して、 そもそも この 現在( この 今) という 特殊 な もの が 存在 する こと に 驚く べき なので ある。
どの 時点 も その 時点 にとっては 現在 で ある が、 そうした 諸々 の 現在 の 中 に この 現在 という きわめて 特殊 な ─ ─ それ が なけれ ば 何 も ない のと 同じ で ある よう な ─ ─ もの が 存在 し て いる。 これ は いったい 何 なのか! これ こそ が まず は 問わ れる べき 問題 で ある
(c)他我問題
他人 の 感覚 は 感じ られ ない のに、 他人 にも 自分 と 同じ 感覚 が ある と なぜ いえる のか、 といった よう な 問題のこと
(d)内包、第 〇 次 内包 、第一 次 内包、第二 次 内包、無内包
ある 概念 が 適用 さ れる 対象 の 全体 を「 外延」 と 呼ぶ の に対し、 それら の 対象 が 共通 に 持つ 性質 を「 内包」 と 呼ぶ。「痛み」 という 概念 を 例 に とれ ば、 転ん で 膝 から 血 を 出し て 泣い て いる とき に 膝 に 感じ て いる 感覚、 という のが 痛み の 第一 次内包 で ある。
出発点 は ここ に ある。 その とき、 転ん だ その 人 が 感じ て いる 感覚 そのもの が、 痛み の 第 〇 次 内包 で ある。これは、 第一 次 内包 によって 概念 が 導入 さ れ た 後 に 起こる 逸脱 事例 を 処理 する ため に 必要 とさ れる。
転ん だ その 人 の 脳 で 起こって いる C 線維 の 興奮 といった よう な こと が 痛み の 第二 次 内包 で ある。これ は 第一 次 内包 を もと に し て 探究 さ れる が、 それが 発見 さ れ た 暁 には、 第二 次 内包 こそ が 本質 で ある と する 逆転 が 起こる こと も 多い。
これら は すべて 実在 的 な 内包 で ある。これに対して、転んだ その 人 が 私 で ある か 他人 で ある か という 違い が 存在 する。 私 で あれ ば 現実 に 痛く 感じ、 私 で なけれ ば 現実 には 痛く 感じ ない の だ から、 これ は 重大 な 違い だ とも いえる が、 この 種 の 差異 は じつは 実在 的 な 内包 の 違い では ない。
転ん だ 人 が 私 であっ た とき のみ 生じる 現実 の 痛 さは、 それ が ある のと ない のとは 極めて 重大 な 違い で ある にも かかわら ず、 そこ には 内包 的 な違い は ない ので、 これ を 痛み の 無 内包 の 現実性 と 呼ぶ こと に する。 この 段階 で 最も 重要 な こと は、 この 無 内包 と 先 ほどの 第〇 次 内包 とを 混同 し ない こと で ある。
(e)タテ問題、ヨコ問題
タテ 問題 とは、 内在 的 意識 が なぜ 超越 的 外界 を認識 できる のか、 物質 で ある 脳 が なぜ 意識 を 生み出せる のか、 過去( や 未来) が 存在 する と なぜ わかる のか、 といった 問題である。
ヨコ 問題 とは、 たくさん の 意識 が ある とさ れ て いる が、 本当に そう だ として も、 ほとんど は 現実 には 意識 でき ず、 一つだけ 例外 的 に 現実 に 意識 できる 意識 が 存在 する のは なぜ か( この 差異 は 何 が 作り出し て いる のか)、 といった 問題 や、 同じ こと だ が、 たくさん の 現在 が ある はず なのに、 ほとんど は 現実 には 現在 では なく、 一つ だけ 例外 的 に 現実 に 現在 で ある のは なぜ か( この 差異 は 何 が 作り出し て いる のか)、 といった 問題 で ある。
(f)累進構造の図表
(1)この 図表 の 理解 において 最も 重要 な 点 は、 横 の 関係 と 縦 の 関係 の 区別 で ある。 最 上段 の 横 の 関係 は、 ごく ふつう に、 現在 と 現在 で ない 時 との 関係、 私 と 私 で ない 人 との 関係を 表現 し て いる。 それ 以下 の 段 の 横 の つながり も、 その 点 では まったく 同じ こと で ある。
しかし、 それら が まったく 同じ こと だ と いえる ため には、 縦 の 関係 が 必要 なので ある。横 の つながり が 表現 し て いる のは、 もちろん 時制 や 人称 だ が、 縦 の つながり が 表現 し て いる のは 様相 で ある。ここ で 様相 とは、 現実 で ある こと と可能 で ある こと との 関係 を 意味 する。 最 上段 が 端的 な 現実性 を 表現 し て おり、 以下 の 段 は 可能性 を 表現 し て いる。とは いっ ても、 この 構造 が 成立 する こと 自体 は 言語 の 本質で ある という 意味 で 必然 で ある。
(2)言語 が はたらく ため には この 縦 の 関係 が 必要 不可欠 で ある とは、 言い換えれ ば、 人称 や 時制 が 機能 する ため には( じつは様相 自体 が 機能 する ため の ものだ が) 様相 が 必要 不可欠 で ある、 という こと でも ある。縦列 を もつ この 図表 の 眼目 は、 端的 な 現実 の 私( あるいは 現在) を、 私 にとって の 私( あるいは 現在 における 現在) という 仕方 で、 横 の 関係 の 内部 で 相対 化 し ない、 ということにある。
(3)縦 の 関係 に かんし て 二 種類 の 対比 の 区別 を 再 確認 し て おこ う。 ① 最 上段 と その他 の 段 との 対比 と ② それぞれ の 段 と その 下 の 段 との 対比 で ある。 両方 とも、 現実性 と 可能性 の対比 では ある の だ が、 ① から 見れ ば ② は すでに し て 可能性 の 内部 における 対比 に すぎ ない。
とは いえ もちろん、 この 二つ を 同じ こと と 見る こと も できる。 そう 見ること が できる こと こそ が 人間的 な 理性 の 始まり だ とさえ いえる。 すべて は そこ から 始まる にも かかわら ず、 そこ には 決して 組み込ま れ ない 残余 が あり、 そこ には 決して 組み込ま れ ない 残余 が ある にも かかわら ず、 すべて は そこ から 始まる、 という のが ここ に 成立 し て いる 事態 で ある。
(g)繋がりの原理、語りの原理、カント原理
(1)繋がりの原理とは、客観的事実を持ち出すまでもなく、主観的連続性が成立する段階ですでに、〈私〉を世界から追放するにはじゅうぶんであるという点なのである。
(2)語りの原理とは、累進する図表で説明してきた、人称と時制とそれを支えるものとしての様相がそれである。とりわけ重要なのは、それによって最上段とそれ以下の段が「まったく同じ」ものとなる様相である。言葉を使って何かを言う以上、われわれはこの原理に従わざるをえない。これがはたらくことによってまた、現実に存在する唯一の〈私〉は、世界から追放される。
(3)繋がりの原理と語りの原理を、私(永井氏)はカント原理の二本の柱として位置づけている。カント原理といっても、カント自身がそのようなことを言っているわけではない。しかし、原初に現実に与えられたものからわれわれが共通に認めている客観的世界像を構築するためには、この二つの原理こそが(カント自身が重視した因果性等のカテゴリー以上に)不可欠であることは疑う余地がないように私には思われる。
(h)無知の知、本質の探究、想起説
(1)無知の知:ソクラテスは、本質以外の通常は成り立っている条件をはずした、むきだしの本質そのものを知ろうとしたのである。これが哲学の始まりであった。だから、哲学者の連帯は、意見の一致による連帯ではなく、最も肝心なことが分かっていないという共通認識による連帯だったのである。
(2)本質の探究:本質の探究が「探究のパラドックス」を生み出す、ということでもある。探究のパラドックスとは、「およそ探究は不可能である。知っていることは知っているのだから探究の必要はないし、知らないことは知らないのだから何を探究すべきかさえ分からない(また、かりにそれを探り当てたとしても、それを探り当てたかどうかも分からない。」というパラドックスである。
(3)想起説:このパラドックスに対してプラトンは、探究は「本当は知っているのだが表面上は忘れているように見えることを思い出すことによってなされるのだから、それは可能である」と答えた。これが想起説といわれるものである。この応答は、プラトンがソクラテスの口からではなく対話相手のメノンの口から言わせている「かりにそれを探り当てたかどうかも分からないではないか」という論点との関係で捉えたとき、なかなか妙味がある。
【呟き:柄谷氏は「ソクラテスは根本的にイオニア的思想家の流れを汲む者であったというべきなのである。にもかかわらず、プラトンはイデア論をソクラテスの考えとして語り、「ソピステス」ではソクラテスの名の下に、イオニア的な唯物論者に対する自らの闘いを語り、イオニア自然哲学との戦いがプラトンの生涯の仕事であったといってよい」とプラトンについては、否定的であるが、永井氏はイデア論とは独立に、想起説については妙味があると、永井氏ご自身の体験から述べている。この本に書かれていた体験話しついては、私も身に覚えのあることだったので、同感できた。ソクラテス自身は、何も書物に記すということはないため、彼の思想は、プラトンの著作物により類推するしかないという状況の中で、プラトンを激しく批判する柄谷氏の説を読んだ後だっただけに、永井氏の体験話でほっとした。】
(i)存在驚愕
プラトンもアリストテレスも、哲学は「驚き」から生じたという。それはしかし、滅多に起きない不思議なことが起こったときに生じるような、ふつうの驚きを言っているのではない。ふつうにはけっして驚かれないような、いつも同じようにある、ごくふつうの在り方が引き起こす驚きのことを、それは言っているのである。いつも同じように在る、このごくふつうの在り方が、滅多に起きない不思議なことのように見えてしまう、そういう驚きが問題なのだ。これが存在驚愕だあり、これによって哲学ーー固有名としての哲学ーーは始まったのである。
(j)タウマゼイン語法
自分を「私」と呼ぶ自己意識的存在者はたくさんいるのに、じつはこいつだけ実際に〈私〉である(こいつだけしか実際に〈私〉でない)のだが、その例外的な生き物はいったい何なのか、といった問い方である。
タウマゼイン語法を使った本質探求は、この探究の驚きを単なる驚きで終わらせず、人間的知力の及ぶ限り知的に探究していくために、在ることの驚きをかく在ることの驚きへと変換する際に生まれた。
(k)「私」
われわれが「私」と言うとき、いきなり「一般的な私」のことを言ってしまうことはありえない。そうではなく。「私」という一般的な語の持つ指示機能を使って(一般的ではない)個別的な人間を指すことは問題なくできるのだが、それはすでにして一般化された地平の上に立った個別者でしかなく、原初の(それこそ言おうとしていた)対比なきこれ(としての私)すでにしてそこには存在していない、ということが問題なのである。
私は「言おうとすることをそのまま言えてはいない」(「自分が言おうとしていることを即座に否定している」)。とはいえしかし、「否定を媒介にして」話はちゃんと通じているのである。「今」がその時の今(媒介された今)として保持されたように、「私」はその人の私(媒介された私)として保持された、というわけである。
(l)感覚的確実性
(1)あらゆるものは「個別的なもの」「これ」であるから、「個別的なもの」「このもの」「これ」は一般的だ、という議論である。ここでもヘーゲルを(よりヘーゲル的に)補正するなら、このような一般的な語のもつ指示力によって、はじめて個別的なものを指すことができるようになるのだ、言わねばならない。
それはそれで、ある意味での「感覚的確実性」を持ちはするのだ。だれかが体を掻きむしりながら「これはひりひりするようなまったく独特の痒さだ」と言ったとすれば、それを口から発した人物は(嘘をついていないかぎり)絶対確実にまさにそのような痒みを感じている。とみんなに思ってはもらえる。しかし、それは一般的な確実性にすぎない。このときにおいてなお、彼は真に言いたいことを言えていない、というわけである。ここには二つの問題がある。
一つは、このような議論が成り立つためには、「一般的なもの」のはたらきによって消されてしまう「言えない」何かが、それでも存在はする(あるいは存在しはした)のでなければならない、ということである。
もう一つは、ヘーゲル自身は気づいていないかもしれないが、彼にはじつは二種類の「言えない」と言いたいものがある、というものです。
ヘーゲルのおもて向きの主題は「感覚的確実性」であった。すなわち、自分がいま直接感じている感覚のもつ(「おれはこれを感じているぞ」ということの)絶対的な確実性(じつはそれを感じていない可能性がないこと)であった。だが、それは即座に「今」(と、同じことなのでここでは触れなかったが「ここ」)の問題に置き換えられている。彼自身の言い分に反して、ここでじつは主題が変わっていると見なければならない。
(2)「今」や「私」に付きまとう「貧しさ」は感覚的確実性の貧しさの比ではない。それは実在していないという極限の貧しさだからである。それもまた一般的だとしてもそれを「個別的な」ものの一般性と混同してはならない。
ヘーゲルもそうだが、なぜかこの最も重要な(と私には思われる)区別に気づいている人は少ない。この区別に気づかなければ、精神の現象学の全体を見る視覚もひらけることはない。しかし、いったんその視覚がひらければ、極貧であるーー実在しないーーはずの出発点こそがその後の展開にはけっして組み込みえない極限の豊かさを秘めており、結局すべてはそこに帰っていくほかはない、という別の見方にも気づかざるをえないはずなのである。
(3)「今」の貧しさは感覚の貧しさとは種類が違っていた。感覚の貧しさは、どんなに貧しくとも、たとえ言葉で言い表すことができないとしても、いわく言い難い「これ」という特定の内容があった。それは、貨幣価値に変換できないとはいえ自分にとっては特別な意味をもつ所持品があるようなものであった。
対して、「今」の貧しさは、「これ」と指せるような特定の内容がない貧しさである。今を今たらしめる特定の内容はなく、今はその内容を刻々と変えていく。今であった内容はその内容をまったく変えずにただ今だけでなくなる(過去になる)ことができる。それは、自分にとっては特別の意味をもつような所持品さえもない貧しさである。
(m)マクタガード
(1)A系列とは、未来、現在、過去という系列であり、B系列とは、より前、同時、より後、という系列である。
(2)時間において前であるか後であるかは、過去であるか未来であるかとは独立した規定なのであって、これがすなわちB系列である。B系列とは、より前、同時、より後、からなる系列である。これはA系列の過去、現在、未来とは関係なく成り立つ。すなわち、現実にどこが現在であるか(したがって、どこからどこまで過去で、どこからどこまでが未来であるか)と関係なく、である。これがA系列とB系列の分類の本質である。
(3)マクタガードは、この二つの系列の相違点(区別する基準)は二つあると言っている。第一の相違点は、B系列は二つの時点(あるいは出来事)あいだの関係であるのに対して、A系列は一つの時点(出来事)がそれだけでもつ性質である、という点にある。第二の相違点は、A系列を構成する事実ーーある時点や出来事が未来であるか現在であるか過去であるかーーは、時間の経過にしたがって変化するのに対して、B系列を構成する事実ーー二つの時点や出来事のどちらがより前であるかより後であるかそれとも同時であるかーーは、時間の経過によって変化することがない、という点にある。
(4)B系列の本質は、時間軸上のどこを取っても、それより前とそれより後がまったく同様に区別される、という金太郎飴的構造にある。もし、その時点を現在(今)と見なせば、第一に現在(今)はそこしかない(金太郎飴的構造が壊れる)ことによって、第二にその現在が動くことによって、A系列が成立することになる(問題はこの第一と第二の関係にこそある)。ともあれ、B系列の基準から二項関係であることは外すべきだろう。
(5)現在(今)が動くという事実にはすでにして一種の「矛盾」(二種の異質な世界観の結合)が含まれているのである。それはもちろん、あの極限の貧しさと極限の豊かさとの矛盾に関係している。ただそれのみが時間の経過という意味での動きを可能にしているのだ。
(6)B系列を構成する前と後の区別とは、A系列を構成する過去と未来の区別から端的な領域分割をともなう動性だけを取り去り、その動性の不可欠の要素であった方向区別ーー抽象的動性ーーだけを残したものである、といえることになる。そうだとすると、こちらもまたかなり不可思議な代物ではないか。動きもしないのに動きの方向だけが指定されるとは!
(7)この議論を正確にするためには、第三の系列であるC系列に言及しておかねばならない。A系列時間から、B系列時間には残されていた時間的方向性さえも取り去ったなら、そのとき残るのがC系列である。
(8)われわれは、C系列を付加することによって、ただ単にある出来事が他の出来事より前か後かを語るだけでなく、「二年前」であるとか「三時間後」であるとか、単位をともなうB系列表現を使っている。もちろん、C系列はB系列と結合できるだけでなく、A系列と直接結合することもできる。「東日本大震災は今から四年前に起きた」のように。
(9)「未来において過去である」は、かりに未来という視点から見れば(今すでに!)過去である、という意味に(も)取れるからである。
(10)かりに他人の焦点に身を置くことはできても、かりに自分の視点に身を置くことなどできない相談であるのと同様に、かりに過去や未来の視点を置くことはできても、かりに現在の視点に身を置くことなどできない相談だからである。
(11)簡単にまとめるなら、時間の場合には、可能性と現実性の単純な対立ではなく、それに動性を加えた三項対立をなしており、マクタガードは現実的なあり方を同一視して可能的なあり方と対立させているが、しかしじつは可能的な動性というものも考えることができ、可能的VS.現実的と静的VS.動的を組み合わせて、ここにあるのは四項対立であると見ることもできるわけである。
(12)現在(今)にかんしては、この端的な現実と(いかなる時点においては現在であるという意味での)現在一般との対立、という問題が成立せざるをえないからである。
体験という概念がその最も本質的な規定を現在であるという時間的な規定に依存せざるをえないという点に関しては、逆に、現在であるという時間的規定のほうこそが体験されるという(またはそれに類するなんらかの)心理的な事実に依存せずには規定できない、という心理主義的な見解ありうるであろうから、(もちろんそれは間違っていると私は思っているが)ここでは争点にはしない。
それでもなお、体験ではなく現在こそを問題にしなければならない理由がはっきりとあるのだ。それは、端的さと一般性の対立という問題が、現在(今)にかんしてしか起こらないからである。
体験において、端的な体験と体験一般の区別をしようとすれば、それは必ず、端的な現在と現在一般との区別が、またはこの私と私一般か、どちらかに依拠せざるをえないことになる。
いずれにしても、問題は現在や私の存在論的問題のほうへ移行せざるをえない。そしれ、累進構造はただ存在論的問題設定においてだけ発生するのである。
というわけで、少なくとも時間についてはーーじつは自我や政界についても同じことなのだがーーヒュームやベルグソンやフッサールや大森壮蔵・・・・のような問題設定ではなく、マクタガードのような問題設定こそが本質を突いている、といわざるをえないのである
(n)〈端的な現在VS.動く現在VS.〉VS.〈現実の現在VS.可能な現在〉
(1)「現在(今)」に、この今との異なる二種の(矛盾した)リアリティあるのと同様、「私」にも、この私と各人の私との異なる二種の(矛盾した)リアリティがあって、われわれは実際に、このリアリティの矛盾を生きている。
だから、マクタガードの語り口に従うなら、現在という矛盾をはらんだ存在者をふくむ時間がそれゆえに実存しないことになるのであれば、当然、私という矛盾をはらんだ存在者を含む人間(person)もまたそれゆえに実在しないことになるだろう。無論、生物学的に規定された人類は立派に実在しており、私はその一人である。
(2)もしそここそが現在であるなら、「いつでも」に含まれるその他の時点は現在ではない(過去か未来である)ことになるだろう。すると、いつでも現在ではないことになる。
とはいえ、それらの「他の時点」といえども、針がそこを指すときには現在であり、そのときに指されていない時点は過去か未来であることになる。「現在」がこのような二重構造を持つことこそが、人称その他には存在しない、時間に固有の「矛盾」なのである。
(3)現実の動く現在そのものに極限的な〈貧しさ=豊かさ〉という名誉ある地位を与える場合、可能な現在を可能な現在として想定するにせよ、そんな限定はしないにせよ、動性はすでに現実性のうちに組み込まれているので、可能性はその外の(現実の動性とは無関係な)単なる可能性とならざるをえない。
これに対して、最初に提示したほうの、その動きの中の一時点を特権的な現在の現在と見なす場合には、可能な現在には二様の解釈がゆるされることになる。ひとつは、まさに現在のその動きのことを可能な現在とみなす、という解釈であり、もう一つは、動きとは関係なしに単なる論理的は現在を考える、という解釈である。
どちらを取るかによって、たとえば「未来における過去」の意味も変わる。単なる可能性なら、それは「かりに未来に視点をおいた場合のそこから見た(=そこをかりに現在と見なした)過去」の意味になるが、動きの場合なら、「現実に未来が現在になった時点におけるそこから見た(=現実に現在から見た)の意味になるだろう。すると、四つの組み合わせがありうることになる。
第一に、現実の現在を現に現在である特別な一時点とみなし、可能な現在をその現在の動きとは無関係にともあれ(現実に現在ではないが)現在であることが可能な時点とみなす解釈。
第二に、現実の現在を現に現在である特別な一時点とみなし、可能な現在をその現実の現在の動き(すなわち動く現在)とみなす解釈。
第三に、動く現在そのものを現実の現在とみなし、可能な現在を現実の現在の動きとは関係なくともあれ(現実に現在でないが)現在であることが可能な時点とみなす解釈。
第四に、動く現在そのものを現実の現在とみなし、可能な現在をそれとは別の可能な動く現在と見なす解釈。
(o)B系列こそが時間の動性の表現である
(1)どんな出来事もまずは現在が到達しておらず、次に現在が到達し、最後に現在が過ぎていく、ということになる。すなわち、まずは未来の出来事であり、次に現在の出来事となり、最後に過去の出来事となる、というわけである。
これがA系列を特徴づけるA変化といわれるものであり、この経過は、他の出来事や時点との対比なしに、単独で起こる(第一の基準)これに対して、B系列は二つの出来事(あるいは時点)のあいだの関係であり、この関係が時間の経過によって変化することはない。
(2)今年のピーターパンの日が、最初は未来であり、次に現在となり、最後に過去となる、というA変化のほうから考えても、もちろん同じことがいえる、この変化は、最初ー未来、次ー現在、最後ー過去、という相対的な関係(現在針の軌道)を述べているにすぎないから、
全体が未来であることはそれに何の影響も与えない。そして、これは結局、(クリスマスのような)それより前の時点から見れば未来であり、(大晦日のような)それより後の時点から見れば過去である、というB関係と同じことを言っているにすぎない。この意味で、A変化とB関係とは、同じ事態の別の描写である。
(p)現実の動く世界
その動く現在に属する諸々の可能な現在もまた、現在ではある以上、必ず端的な現実の現在がもつ無内包な現実性(独在性)というきわめて特殊な性質をそれぞれ持つとされなければならない、ということである。