マンマのさんま Mk-2

マンマのさんま Mk-2

最近の記事

小峰ひずみ氏の問題提起への指摘文

はじめに:私が小峰氏の問題提起の何を指摘するのか さて、この文章を私は貴重な休日を割いて書いて…………といういつもの(だれとくな)前置きは省略し、さっそく本題にうつるが、私は本noteで小峰ひずみ氏の以下の二つの記事には問題があると見なし、それを指摘する。以下、これらの記事に言及する際は、上を「卑劣か?」記事、下を「防衛戦」記事と省略して呼ぶことにする。 以前私は以下の記事でも、小峰氏の記事への抗議文を書いている。  ただし、今の内にことわっておくが、今回の指摘は、以前の

    • 私がこれまでの人生で一番衝撃を受けた漫画-藤子不二雄Aの短編「万年青」の凄み-

      どうも私のnoteは堅苦しい文章ばかりでいけない。ということで今回は、なるべく読みやすさ重視で、簡単な文章で書いていこう。 このnoteで書くのは、私が今までの人生で一番衝撃を受けた漫画、藤子不二雄Aの短編「万年青」の凄みについてだ。一番好きな漫画、一番影響を受けた漫画、等々になるとまた話は変わってくるが、読んでで一番アッといわされた漫画は、私の場合間違いなく「万年青」だ。 この漫画の何が凄まじいのか。先ずは簡単に話の内容をまとめよう。 この漫画の主人公は、万年青という

      • 『呪術廻戦』は何が面白かったのか?-「呪い」が紐解く人間の仕組み-

        ※このnoteは全文無料で読めます。 「呪い」という設定によって可視化されたもの9月30日発売の少年ジャンプ44号にて、(芥見下々による)『呪術廻戦』が最終回を迎えた。(実際に読んだかはさておき)「呪術廻戦」という名前を聞いたことがない小学生を探す方が難しいといえる位の知名度をほこる作品だが、何故ここまでの人気作品になったのか。この漫画は「呪い」を力として具現化したバトルものだが、ここの設定に注目してみよう。 先ず言えることだが、この漫画は「呪い」という設定によって、従来

        ¥300
        • 『情況』の2024年夏号「トランスジェンダー特集」への抗議文への抗議文

          私が抗議文の何に抗議しているかさて、この文章を書き始めた段階で既に時刻は深夜24時をまわっている。明日(というかもはや今日!)も仕事があるのに、何故私は貴重な睡眠時間をけずってまでnoteを書いているのか。それは、『情況』の2024年夏号「トランスジェンダー特集」への、以下の二つの抗議文を目にしたが、どちらも内容に問題があり、もしこのまま『情況』の運営に悪影響が出たらよくないと判断し、ささやかながら抗議への抗議を表明しようと考えたからだ。 以前私は、Mrs. GREEN A

          いい世界?それは本当に理解できるの?

          はじめに 「自分にとっていい世界とわるい世界、選べるならどっちがいい?」こう聞かれたら誰でも「いい世界」と答えるだろう。「いやいやそんなことはない、自分はろくでもないやつだから自分をひどい目にあわせてくれる世界の方がいい。」と答える人も中にはいるかもしれない。しかしその人は、自分がひどい目にあうことが、自分にとっていい(自分に相応しい)ことだと考えている訳で、その点でやはり「いい世界」と答えたことになる。この様に、誰にとっても自明な質問は、最早各人の人格面(価値観)とは関係

          いい世界?それは本当に理解できるの?

          とあるM氏の宣伝記事-公開議論を行います!-

          ※このノートは宣伝記事です。詳細は下にありますので、先ずは強制茶番にお付き合いください。 【登場人物】 ・M氏→世にもまれな令和の義侠心を持ち合わせた男。「クソッ、これではあんまりではないか!」を冒頭で言うために存在している。 ・T氏→同じく令和の義侠心を持つ男。自分を攻撃するイベントには必ず参加してくれる聖人君子。 M氏「クソッ、これではあんまりではないか!」 M氏が憂いていたのは、やっぱりT氏の論文についてである。T氏の炎上論文は、M氏の批判論以降、何人かの方から

          とあるM氏の宣伝記事-公開議論を行います!-

          とあるM氏のヤングココナッツ-私は如何にして駄文を書くに至ったのか-

          ※このnoteはネタにもならない駄文です。「何も面白くない素材そのままの文章が読みたいぞ!」という末期な方のみご覧ください。 〈登場人物〉 ・M氏→世にもまれな令和の義侠心の持ち主。此度の駄文note放流テロを引き起こした実行犯にして主犯。 M氏「クソッ、これではあんまりではないか!」 M氏が憂いているのは、ここ数か月の自分の労働についてである。M氏の仕事は一年の中で7・8月が一番忙しいため、朝8時から夜8時まで勤務というのも珍しくない日々を過ごしていた。M氏は自他とも

          とあるM氏のヤングココナッツ-私は如何にして駄文を書くに至ったのか-

          西田幾多郎の哲学を引き受けることの困難ー京都大学秋季講義「他者を知るということ」への検討を通してー

          はじめに過去にあった哲学を引き受ける際に困難な課題となるもの、その一つが哲学用語だ。モナド・イデア・イマージュ・超越論的統覚などなど哲学用語は無数にあるが、それらを適切に説明しつつ運用しただけでは、その哲学の肝心な部分は明らかにならない。いくら既存の哲学用語の上で思考されても、過去の哲学者が考察した後の体系をまとめることしかできないからだ。実際に過去の哲学者が試行錯誤した初めの段階から検討されなければ、その哲学の大元の取っ掛かりは見失われてしまう。 さりとて、単に既存の哲学

          西田幾多郎の哲学を引き受けることの困難ー京都大学秋季講義「他者を知るということ」への検討を通してー

          映画『回路』が死から語らせた本来語られない筈の絶望について

          はじめに:死を恐れるって何を恐れているの? 「いつか必ず死んでしまうことが恐ろしい」、実際にそう感じるかは人によるが、たとえ誰であっても、(少なくとも生きている限りは)この恐怖にいつ襲われてもおかしくない。とは言え、死を恐れることは出来ても、それの何が恐ろしいかを理解することなど出来るだろうか。「そんなの簡単だ。」と答える人もいるかもしれない。おそらくその人は「(生命が停止することで)自分の存在が消滅してしまうのが恐ろしいのだ。」と答えるだろう。しかし私には、この答えに二つ

          映画『回路』が死から語らせた本来語られない筈の絶望について

          Mrs. GREEN APPLE 「コロンブス」を批判するのはそう簡単じゃないぞという話

          さて、この文章を書き始めた段階で既に時刻は深夜12時36分をまわっている(とか書いていたら37分になった)。明日(というかもはや今日!)も仕事があるのに、何故私は貴重な睡眠時間をけずってまでnoteを書いているのか。それは、たまたま下北沢で酒を飲みながらスマホを見ているときに、Mrs. GREEN APPLEのMV「コロンブス」が、大炎上して公開取り消しになったというニュースを目にしたからだ。元々私はきちんと議論、検討が済む前から(問題が起きた途端に)作品が非公開になるのを好

          Mrs. GREEN APPLE 「コロンブス」を批判するのはそう簡単じゃないぞという話

          独在論にささる哲学的批判は?ー〈Φ〉は独在論へ切り込めるのかー

          永井均氏の独在論の哲学といえば、哲学を専門とする研究者以外にも広く知られた哲学の内の一つである。氏の哲学は、(基本的に)ご本人の著作をきちんと読めば、(学問的な)哲学の知識を持たずとも、一通り(議論の筋道を)理解できる。なので、寧ろ研究とは関係なく、氏の議論に関心を持った人に読まれることが多い。しかしそれは、永井哲学が誰にでも理解しやすい考察であることを意味しない。確かに、氏の哲学の問題意識は「世界にたくさんの人がいるのに、何故この人が私(という他人と全く異なる例外的な存在)

          ¥300

          独在論にささる哲学的批判は?ー〈Φ〉は独在論へ切り込めるのかー

          ¥300

          「自分のため」にやるとは?ー『ピンポン』から探る喜びの原点ー

          はじめに 人間、何だって何時だって自分が喜んだり楽しんだりした時は、それを直接感じ取ることが出来る。また、直接感じ取れたことを言葉にし、お互いに伝えあうことも出来る。それ故に我々は、他人・共同体の喜びのために何かすることも出来るし、単純に自分の喜びのために何かすることも出来る。なので日頃我々は、時と場合に応じて「他人・共同体のため」と「自分のため」を区別し、使い分けながら生きている。しかし使い分けながら生きていると、殊更「自分のため」にしている筈のことが、実際には喜びが感じら

          「自分のため」にやるとは?ー『ピンポン』から探る喜びの原点ー

          細部がないことで成り立つ理解について―漫画『GS美神 極楽大作戦!!』から探る創作内の説得力―

          1.創作は「添え物としての説明」があり得る   お化けだろうと宇宙人だろうと、物語では、作者の想像力が及ぶ限り何だって登場させられる。何なら物語であれば、現実とは異なる仕組みの世界を設定したって構わない。物語をどう創造するかは、作者にとって完全に自由な試みであると言えるだろう。ただし、物語の設定や登場させるものは作者が自由に決められるとしても、その設定をどう理解可能なものにするのかが、創作では必ず問題になる。  この問題について分かりやすくするために、一つ有名な漫画から例を

          ¥300

          細部がないことで成り立つ理解について―漫画『GS美神 極楽大作戦!!』から探る創作内の説得力―

          ¥300

          批判論が公開されるまでの舞台裏ーとあるM氏の懺悔録ー

          ※このノートは完全にネタです。先日公開した批判論(「自己表現における捉え返しと消し去りーー「「マイナス内包」としての性自認の構成」批判」)が完成するまでにどんなやり取りがあったか興味がある人だけご覧ください。 【登場人物】 ・M氏→世にもまれな令和の義侠心を持ち合わせた男。此度の戦犯。 ・T氏→同じく令和の義侠心を持つ男。聖人でもあり、此度の被害者。 M氏「クソッ、これではあんまりではないか!」 M氏が憂いていたのは、T氏についてである。T氏は自分の論文を火種にして、T

          批判論が公開されるまでの舞台裏ーとあるM氏の懺悔録ー

          自己表現における捉え返しと消し去り――「「マイナス内包」としての性自認の構成」批判

          はじめに 「自らについて表現する」とは、どのようなことだろうか――これは、 じつに素朴かつ難解な問いである。日頃我々はごく当然の様に自分について言語化し、それを自他ともに理解している。しかしその様な理解が成立するまでの過程において、我々がどの様に自分自身を(特有の)中身のある存在とみなし、それに意味を与えているのかまで考えるならば、その解明が一筋縄ではいかないことは、容易に察せられるだろう。ここで言う「表現」とは、対象を中身のある存在として捉えることを指す。その上で「自己表

          ¥500

          自己表現における捉え返しと消し去り――「「マイナス内包」としての性自認の構成」批判

          ¥500

          キリストの救済、その一つの真実の物語

          「エリエリレマサバクタニ」 この世で最も悲痛な叫び声が、ゴルゴタの丘にこだました。悲鳴の主は、帝政ローマへの反逆者であり、のちに神の子とも呼ばれるイエス・キリストその人である。言葉の意味は「わが神、わが神、なぜ私を見捨てたのですか」。 しかしこの真意を理解するものは、イエスただ一人を除いて誰もいなかった。人々がキリストの真意を理解できなかったのは、単なる偶然ではない。この叫びには、我ら人類の父と母、アダムとイブが背負った原罪に由来する、おそるべき秘密がかくされていたのだ。

          ¥300

          キリストの救済、その一つの真実の物語