キミロ

シスヘテロの男。アーレントに興味があります。哲学・批評・小説・映画が好きです。平日20…

キミロ

シスヘテロの男。アーレントに興味があります。哲学・批評・小説・映画が好きです。平日20時前に記事を更新しています。

最近の記事

私事のため、今月の20日までnote投稿を中断します。

    • 「あるがままの世界を受け入れよ」

       「あるがままの世界を受け入れよ」だとか、それに似たような言葉をたまに聞く。この言葉は、自己啓発本や宗教書においてだけでなく、一つの処世術を示す標語としても、人口に広く膾炙しているのではないだろうか。  私はこの言葉にどこか根本的な欺瞞をずっと感じてきた。何か得体の知れない動機が、こうした言葉の背景に常に潜んででいるように思えてならなかった。この不快感の正体を突き止めることを目指して、少し書き連ねてみる。 「あるがままの世界を受け入れよ」とは誰に向けられているのか?  

      • 若者に媚び始めた老人たち

         多くの人が薄々気づいていることだと思うが、最近老人が若者に媚び始めている。どうもよくない傾向だと思う。  漫画やエッセイ、ドラマなどにおいて、「若者に理解がある」老人がことさらに持ち上げられている。こうした老人たちは、若者の若さを無条件に称え、青春を謳歌しなさいと偉そうに励まし、若者の流行りや文化を全肯定しようと努めている。  若者の方も、気持ちいいからか、あるいはいつか自分も老人に転落する未来に備えての「保険」なのか知らないが、そうした「弁えている」老人を絶賛する。老

        • 「この世界は弱肉強食だ」といった言説は何を待ち侘びているのか

           昔、「この世界は弱肉強食だ」といった言説にはルサンチマンが潜んでいるという記事を書いた事がある。その時の内容と少し重なる部分もあるのだが、このテーマについてさらに発展させて考えていきたい。  もちろん「この世界は弱肉強食である」という命題は真理ではない。人間界はもちろん動物界においても、相互補助や弱った仲間を助けるといった行為は頻繁に見られるものであり、大体、もし「弱肉強食」という真理が正しいとしたら、それを言っている当人は一体何をしていることになるのだろうか?  「こ

        私事のため、今月の20日までnote投稿を中断します。

          『ツァラトゥストラはかく語りき』試論Ⅱ

           前回の記事では、ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』における精神の三段階の変化とその解釈を述べた。今回の記事では、ニーチェ哲学における「子供」や「忘却」といった境地がどのようにして可能となるのかを考察する。 「子供」や「忘却」の境地はどのように可能なのか  「駱駝」の段階を経て、過去や現在において優勢であった価値観・権威に服従した後に人は「獅子」となり、それらやそれらに服従していた自分自身を破壊・否定する。そうした生まれ変わった精神において人は「駱駝」の精神と決別

          『ツァラトゥストラはかく語りき』試論Ⅱ

          『ツァラトゥストラはかく語りき』試論Ⅰ

           ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』における精神の三段階の変化の説明と、その内の「子供」の段階における「忘却」という概念に着目して、「運命愛」と「永劫回帰」について考察したい。今回はまず、三段階の変化及びその解釈を扱い、次回の記事では、ニーチェ哲学における「子供」や「忘却」といった境地がどのようにして可能となるのかを考察する。 精神の三段階の変化  ニーチェにとって人間とは「超人」へと至る過渡に過ぎず、その本質が未だに決定していない存在である。もはや未来における目

          『ツァラトゥストラはかく語りき』試論Ⅰ

          「人生幸せになったもん勝ち」

           「人生幸せになったもん勝ち」という言葉が嫌いだ。この言葉を使う人はよく、「幸せ」でなく金儲けだとか、社会的な成功だとか、人からの評価を求めて切磋琢磨している人間を軽蔑する。  彼らによると、人生の目的とは、それらの「非本質的」なものではなく「幸福」であるのだから、「幸福」であると感じるような人生を送る者こそ正しく、また「勝者」なのである。  しかし、もし本当に、社会的な成功や評価を気にせず「幸福」を主観的に感じてさえいれば「勝ち」なのだとしたら、話は非常にシンプルであろ

          「人生幸せになったもん勝ち」

          「何が正しいのかを考え続けることは常に正しい」とは言えるのか?Ⅲ

           前回の記事では、「何が正しくて何が間違っているのかについて考え続けること自体は必ず正しい」という立場が、①相対主義的な批判、②「直観主義的」な批判、③「概念枠組み」という観点からの批判にも耐えられるほど強固なものであることを示した。今回の記事では、この立場への更なる批判として、①誰が、②どのように、「考え続け」なければいけないのか、という問題を取り上げる。 ①「誰が」考え続けるのか?  この批判の趣旨は次のようなものである。仮に、「何が正しくて何が間違っているのかについ

          「何が正しいのかを考え続けることは常に正しい」とは言えるのか?Ⅲ

          「何が正しいのかを考え続けることは常に正しい」とは言えるのか?Ⅱ

           前回の記事では、「何が正しくて何が間違っているのかについて考え続けること自体は必ず正しい」という意見を取り上げて、それへの反論をいくつか見てきた。今回の記事ではさらに、このような意見に対する①相対主義的な批判、②「直観主義的」な批判、③「概念枠組み」という観点からの批判を取り上げる。そして、これらの全てによっても、「何が正しくて何が間違っているのかについて考え続けること自体は必ず正しい」という立場を掘り崩すことはできないことを示す。 ①相対主義的な批判  まず、「『何が

          「何が正しいのかを考え続けることは常に正しい」とは言えるのか?Ⅱ

          「何が正しいのかを考え続けることは常に正しい」とは言えるのか?Ⅰ

           皆さんは『東京喰種』という漫画をご存じだろうか。「喰種」という、人を捕食しないと生きていけない怪物に襲われた主人公が、一命を取り留めるも自身「喰種」となってしまい、人間と「喰種」の壮絶な抗争へと巻き込まれていく……というあらすじの少年漫画である。  もし、このあらすじの説明が、この記事を読んでいる人に『東京喰種』への興味を多少なりとも掻き立ててしまったとしたら、それは私の本意ではない。私としては、『東京喰種』は駄作以上の何ものでもない。登場人物が真の意味で生きていないのは

          「何が正しいのかを考え続けることは常に正しい」とは言えるのか?Ⅰ

          哲学書は古典から読め

           哲学書は古典から読まなければならない。哲学を学ぶ者にとって、入門書や解説書は時にマイナスに働く。  難解な古典などそのまま読んでも分からないのではないかという意見がある。それはその通りだ。だからこそ、本屋のコーナーに数えきれないほどの哲学入門書がずらりと並べられている。しかし、こうした「親切な」状況こそ実は危険なのだ。入門書は諸刃の剣だからである。  入門書は、確かに分かりやすい。カントならカントを、ニーチェならニーチェを何十年も研究してきた一流の学者が大抵入門書を書い

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          「子供」のダブルスタンダード

           反動的な人間は無自覚のダブルスタンダードを持っている。と前に私は書いた事がある。なぜダブルスタンダードであるのかと言えば、彼らは一方で西欧的な価値観をしっかりと内面化しておきながら、他方ではそうした価値観に毒されていない自分たち固有の伝統を保守しなければならぬと、休む暇もなく叫び続けているからである。彼らはこれといった自覚も無く、そうしたダブルスタンダードの間で自身を引き裂いている。  では、無自覚なダブルスタンダードとは異なる「まともな」ダブルスタンダードはあるのだろう

          「子供」のダブルスタンダード

          私たちは「旅」を過大評価している

           私たちは「旅」というものを、あまりに過大評価してはいないだろうか。あたかも、「旅」をしてこそ人は一人前になるのであり、「旅」をしない人は永遠に狭小なパースペクティヴから抜け出せないかのように。  なお、括弧をつけて書いたように、ここでいう「旅」とは最広義に解釈された「旅」を指す。つまり、実際の旅行に限らず、社会活動や新たな人々との出会い、または私たちの精神をどこか遠くへ連れて行ってくれるとされる読書などの行為も「旅」に含める。 旅行の価値  なるほど、旅行というものは

          私たちは「旅」を過大評価している

          不死・非本来性・ルサンチマン

           死という己に最も固有の可能性を目がけて投企(entwerfen)する時、人は非本来性に頽落している日常的な状態から抜け出し、己の本来的な可能性を掴み取ることができる。確かそうハイデガーの『存在と時間』には述べられていた。  『存在と時間』が「救済の瞬間に向かって決断せよ」と説くキルケゴールの影響下に未だ置かれていたのに対し、その後のハイデガーはむしろニーチェに接近していったことは周知の通りである。だが、私は『存在と時間』における死と本来性を巡る議論の背後に、既にニーチェの

          不死・非本来性・ルサンチマン

          反動的な人間の煮え切らなさ

           私は反動的な人間が嫌いだ。反動的な人間の「古めかしい」価値観が気に食わないからではない。反動的な人間の「非道徳性」が許せないからでもない。反動的な人間にありがちの、あの不徹底な態度が癪に障るからである。彼らの無自覚なダブルスタンダードが気に入らないからである。 「歴史修正主義者」  例えば、反動的な人間の中には「歴史修正主義者」と呼ばれる連中がいる。彼らは口々にこう騒ぐ。「南京大虐殺は無かった」だの、「慰安婦は存在しなかった」だの、「あの戦争は自衛戦争であり、大日本帝国

          反動的な人間の煮え切らなさ

          映画批評 フリッツラング『M』または100人の怒れる男女

           フリッツ・ラングの『M』を視聴した。ところどころ眠たくなる映画だったが、終盤の展開に関しては、ラングの鋭い洞察と勇気とに脱帽せざるを得なかった。  物語の終盤で、ピーター・ローレが演じる連続殺人鬼はギャングに拘束される。魚のような眼玉をしたこの短小で臆病な殺人鬼は、彼らが拵えた疑似裁判にかけられることになる。ギャングや浮浪者、娼婦たちの怒号が飛び交う中、自分はやむにやまれぬ衝動と恐怖に駆られて罪を犯しただけだとして、殺人鬼は「公正な裁判」を要求する。彼を弁護するたった一人

          映画批評 フリッツラング『M』または100人の怒れる男女